第5話 おはよう、姫巫女さん
カーテンの隙間から差し込む光を目蓋越しにに受けて、秋人は朝の訪れに気付いた。
抵抗する目蓋を開き、ぼんやりしたままの頭を押さえ枕元のスマホをチェック。
午前6時。
「む」
いつもの秋人の起床時間よりずいぶん早い。
きっと昨夜すぐに眠ってしまったせいだろう。
ここから二度寝――してしまうと、学校に遅れる可能性が出てくる。
「……起きるか」
心地よい微睡みを諦めて布団から脱出。
大きく背伸びをして、ストレッチで凝り固まった身体をほぐす。
眼鏡をかけると曖昧だった視界が定まり、心なしか頭の中身まですっきりしてくる。
音を立てないようこっそりと部屋を出ると、隣の部屋はまだ閉まっていた。
――寝てるのかな……
レムリア。
昨日、突然秋人の家に現れた異世界の姫巫女(自称)。
白い長髪にアメジストの瞳を持つ現実離れした美少女。
足を滑らせて秋人の家に落っこちた少女。
そのあまりに現実離れした登場シーンは記憶に新しく、彼女がこの世ならざる存在であることに疑いを持つことはない。
しかし――物音のしない隣りの部屋に、本当に彼女は存在するのだろうか?
夜が明ければどこにもいなくなっていた。ありそうな話ではある。
ドアを開けて確かめたい気持ちはあったが、眠っている女子の姿をまじまじと見つめることは憚られる。
「飯の用意でもするか」
気持ちを切り替えてキッチンに向かう。朝も早よから邪な思いを抱く自分を恥じるように。
ひとり暮らしを始めてから、秋人はあまり朝食を食べなくなった。
ここ最近は食パン1枚とか、コーンフレークに牛乳を注ぐだけとか、その程度で済ましている。
しかし、客人がいる今日は、そこまで適当な献立で済ますのは気が引けた。
約一年兄と共に暮らし、有里家の台所を護ってきた者としてのプライドがある。
朝食は一日の始まり、そのエネルギー源だ。
あまり重くすると食べづらいが、少なすぎると活動に支障をきたす。
程よいバランスが重要だ。
――レムリアの世界ではどうなんだ?
秋人は首をひねる。
彼女は昨夜『朝食を食べる』と口にしていたが、分量にまで言及してはいなかった。
何となく女子はあまり朝食をとらない印象があるものの、秋人のイメージが異世界に適用されるとは限らない。
しかし昨夜の食べっぷりを鑑みるに、案外ガッツリ行く方かもしれない。やはり昨晩のうちに聞いておけばよかっただろうか?
「……考えても仕方ない」
食パンをトースターに放り込み、冷蔵庫を開ける。
熱したフライパンにベーコンを敷き、次いで卵を落とす。
野菜ジュースをコップに注ぎ、出来上がったベーコンエッグを皿に乗せる。うまく半熟にできた。
――サラダはないが、野菜ジュースがあるからいいか。
いつもより一手間かけた朝食をテーブルに並べていると、丁度いいタイミングで兄の部屋のドアが開いた。
「ふぁ~~~、おはようございまひゅ」
「おはよう」
「ふあ?」
目蓋を擦りながら現れたレムリア。
長い白髪は物の見事にボサボサで、身体を包んでいるワイシャツは乱れていた。
布地からちらりと見えるあれやこれやが実に目の毒である。年の割には迂闊な少女だ。
寝起きで頭が回っていなかったようだが、秋人の声を聞いて硬直。自分の挨拶に返事が返ってくると思っていなかった模様。
油の切れたブリキ人形のようにギギギと頭を持ち上げた彼女と秋人の視線が絡み合う。
「……」
「朝食、できてるぞ」
「ふぁ?」
焦点の定まらない紫紺の瞳に光が宿る。
同時に顔が真っ赤に染まる。
「どうした?」
「ふぁ~~~~~!!」
奇声を上げて洗面所に飛び込むレムリア。
あまりの勢い秋人が呆気にとられていると、ほどなくして白い少女は再び姿を現した。
髪は最低限整えられ、しょぼしょぼしていた目蓋はパッチリ開いている。
よく見ると顔から胸元あたりが濡れていた。急いで顔を洗ったように見える。
でも着崩れた服の方が残念なままのあたり、相当慌てているらしい。
「お、おはようございます……」
「ああ、おはよう」
色々突っ込みたいところではあったが、秋人は自制した。
目の前でプルプル震えるレムリアに、なんと声を掛けたらよいかわからなかったから。
こういう所で人生経験のなさが露呈するな、と声に出さずに慨嘆した。
「うう……お見苦しいところをお見せしました……」
赤面したレムリアを見ていると、秋人は何だかいたたまれない気持ちになる。
「いや……まあ、別に気にしないが」
秋人は咄嗟に言葉を濁した。
しかし――
「私が気にします!」
「そ、そうか……」
それ以上、どちらも言葉が続かない。
レムリアが頬を膨らませつつ無言で席に着いたので、秋人も座る。
これは時が解決してくれる問題だろう。秋人は解決を数分後の未来に丸投げした。
「大したものは用意できなかったが、どうぞ」
「……いただきます」
レムリアは俯いたままトーストを手でちぎっている。
――お祈りはいいのか?
昨日は神に祈りを捧げていたような気がしたが、あまり深く考えないようにした。
今の彼女は外見こそ落ち着いているが、中はきっと暴風状態だ。
迂闊に触れるのは危険と言わざるを得ない。
「さくさくのふわふわです」
どうやら異世界少女的に、地球のパンはお気に召したようだ。
半熟ベーコンエッグをフォークでつつき、美味しそうに口に運んでいる。
すっかり機嫌も直っている様子で、ふんわりした柔らかい笑顔を浮かべている。
「食べながらでいいから聞いてもらいたいことがある」
「なんでしょう?」
首をかしげるレムリア。
頭の動きに合わせて、白い髪が揺れる。
その仕草は、先ほどの慌てぶりを目にしていなければ完璧だった。
「俺はこれから学校に行く。だから……今日のところは一人でこの家にいてほしいんだ」
「学校ですか」
「わかるか?」
「はい。エルガーナの王都にもあったと聞いています」
少女の答えは伝聞形だった。
「……レムリアは行ったことがないのか?」
少し意外な気がした。
話し方といい仕草といい、レムリアは何かしらの高度な教育を受けているように見える。
裕福な階級出身で知的なイメージがあったのだが……
「私は……ずっと神殿で育ちましたので」
「ふぅん」
わずかに陰を落としたその表情。
レムリアにとっては、あまり話したい内容ではないらしい。
姫巫女という要職(?)に付きながらも、内心で思うところがあるようだ。
「今日は金曜日だから、明日と明後日は休みになる」
だから一日だけ我慢してほしい。
秋人はそう続けた。
レムリアはしばし逡巡して『わかりました』と答えた。
「そうだ、昼飯は……」
カップラーメンでも食べておいてもらおうかと考えたが、機械に詳しくなさそうな異世界少女が自分の見ていないところで初めてお湯を沸かすというシチュエーションは実に不安を掻き立てられる。
やかんに水を入れてコンロに掛けるだけだが、万が一何かの間違いが発生して家が全焼するようなことがあったら目も当てられない。
――カップラーメンはまた後日だな。
これはコンロだけに限った問題ではない。
レムリアとしばらく同居するのなら、家電の使い方もひととおり教える必要があるだろう。
とりあえず今日の段階で必要なのは、手間をかけずに食べられるもの。
キッチンを眺めてみると、ちょうど買い置きのあんぱんが目に入った。
「すまんが、これを食べておいてくれ」
掴み上げた袋をレムリアに渡す。
「これは?」
「あんぱんだ」
5つ100円のお徳用。
試験期間最後の追い込みの夜食として買っておいたものだが、結局食べる機会がなかった。
賞味期限が近いので、さっさと処分してしまおうと思っていたところだ。丁度いい。
「あんぱん」
手渡した袋を不思議そうに眺めるレムリア。
美味しそうにパンを食べているから、多分大丈夫だとは思う。
――あんこがダメな外国人……ありうるのか?
「レムリア、甘いものは好きか?」
「大好きです!」
よかった。女子は甘いものが好き。万国共通。
秋人は密かに胸をなでおろした。
「飲み物は冷蔵庫のこれを……」
席を立って冷蔵庫の扉を開き、作り置きの麦茶を出して説明する。
「冷蔵庫は開けたらすぐに閉めておいてくれ」
「わかりました」
素直に頷くレムリア。
物わかりの良い少女で本当によかった。
「悪いな。本当は学校を休めばいいんだが……」
親元を離れて一人暮らしさせてもらっている手前、サボりは気が引ける。
「いえ、勉学に励まれるのがアキト様の本分でしょう。私のことはお気になさらず」
「学校終わったらすぐに帰ってくるから」
「はい。お待ちしております」
ご安心くださいと胸を張るレムリア。
その自信満々すぎる姿に一抹の不安を覚えつつ、半ば無理やり自分を納得させる秋人。
彼女は聡明な女性だ。多少ドジで隙が多いところはあるが、一日くらいなら頑張ってくれる……はず。
――今日はなる早で帰ろう。
期末考査が終わって部活動は再開することになっているが、どうせもともと幽霊部員のようなもの。
こちらはサボって問題なかろうと勝手に結論付ける。
食事を終えて髭を剃ってから顔を洗う。
部屋に戻り、学校へ行く準備を整える。
必要なものは鞄に詰めてあるので、実際のところは制服を着るだけだが。
「それじゃ行ってくる」
「はい、行ってらっしゃいませ」
玄関で靴を履いていると、リビングからとてとてとレムリアがやってくる。
優しく微笑む異世界少女に見送られて家を出る。時間は――いつもより少し早い。
「『行ってらっしゃい』か……」
兄が家を出て以来久しぶりの言葉。
それも年頃の美少女から掛けられるとなると、どこかくすぐったい気持ちになる。
「挨拶ひとつで変わるもんだな」
秋人としては呆れるところではあるが、妙に足取りが軽くなる。
いつもなら、『学校めんどくせー』とか思ってるくせに。
全身にエネルギーが満ち溢れている気がする。
「こういうのも悪くないな」
見上げた空は雲一つない快晴だった。