第18話 それはごくありふれているようで新鮮な朝の風景
『姫巫女さん』は気が向いたときにチマチマ更新することになりそうです。
楽しみに待っていてくださる方がおられたら、申し訳ございません。
何もかもがあやふやな世界に柔らかく光が差し込んでくる。
暖かくて優しくて、そしてとても心地よい感覚。
しかし、『ずっとそのままでいたい』という気持ちは裏腹に、なぜか『このままではいけない』という焦燥感がじりじりとせり上がってくる。
葛藤――したのはほんの一瞬か、それとも……
ふわふわと浮かんでいた身体を動かそうとすると、微かな痛みが頭に走る。
……頭?
そう、頭だ。頭が痛い。
……なぜ?
当たり前だろう。だって――
とんとん
遠くから響いてくる音に思考が中断される。
――なんだ?
四散していた意識が次第に収束する。
どんどん、どんどん
音は大きく、そして重く。
「……てください。……さん!」
声が聞こえる。それは降り注ぐ陽光を思わせる、よく透る声。
――なんだ?
首をかしげる。
いや、実際に首が動いたわけではないが、とにかく首だ。
「起きてください、アキトさん」
――起きる?
そう、起きなければ。
声に促されるがままに思考が流れを生む。
「アキトさんってば、もう! 今日から学校だって言ってましたよね?」
――学校……学校!
それはまるで忌まわしい呪文のように、安らぎに微睡んでいた秋人に突き刺さる。
夢から現実への強制帰還。閉じられていた目蓋を開き、秋人は慌てて体を起こす。
ぼやけた視界に顔をしかめつつ、枕元にあった眼鏡をかける。
視界が明確になり、意識が覚醒し――状況を認識する。
「……朝か」
カーテンの隙間から差し込む光を感じる。時計を見ると――朝の六時半。
春休みは終わった。今日から新学期だ。胸に鉛を飲み込んだかのような不快な重みがある。
朝。平日の朝。ということは――
そこまで思考が及んだところで慌てる秋人。ぼんやりしている暇はなかった。
転げ落ちるようにベッドから降り、急いでドアを開けると、そこに待っていたのは花のような笑顔。
腰まで届くストレートの白髪。きらめく紫紺の瞳。
日本人ではありえない特徴を持つ、この世のものとは思えない美貌の少女。
異世界からやってきた自称姫巫女にして秋人の同居人、レムリアであった。
「朝ごはん、冷めますよ」
★
高校生になって兄と同居を始めて以来、ずっと食事の用意は秋人の仕事だった。
だから、目が覚めたら既に朝食が出来上がっているという状況は、ちょっとした感動もの。
しかも作ってくれたのが飛び切りの美少女と来れば、まさに天にも昇る気持ちになる。朝も早よから。
塩鮭、味噌汁、生卵に海苔。納豆。そしてほかほかの炊き立てご飯。
決して手が込んでいるわけではないが、手間はかけられている。心も籠っている。
少なくとも、秋人は朝からインスタントでない味噌汁なんて作らなかった。
これぞ日本人の朝とも言うべき献立を作り上げたのが、日本人どころか地球人ですらない異世界少女であるというファンタジー。
秋人の両親に連れていかれて一週間、春休みに秋人自身がさらに指導すること二週間。
異世界からやってきたレムリアが、ここまでの朝食を仕上げるところまで来たかと思うと感慨深いものがある。
……ちなみに、初めて作ってもらった味噌汁には出汁が入っていなかった。
「いただきます」
「いただきます」
二人で手を合わせて食前の挨拶。
レムリアもすっかりこの世界の流儀に慣れたようだ。
――そういえば、最近見なくなったな。
初めて彼女が秋人の前で食事をとったとき、やたら長々と神様にお祈りしていたことを思い出す。
あの時は宗教関係者ならそう言うものかと納得していたが、いつの間にかレムリアは食前のお祈りを止めていた。
『なぜだろう』と疑問に思う気持ちと、『まあ、別に良いか』という気持ちが同時に膨れ上がり――後者が勝った。
正面に座るレムリアは熱心に生卵をかき混ぜていた。箸の使い方もずいぶんと慣れている。
ついで納豆にタレをかけ、しょうゆを足す。見た目とは裏腹に濃いめの味付けを好むらしいと二人暮らしを始めてから知った。
レムリアは納豆が嫌いではない。いや、好きと言った方がいいかもしれない。
生卵も食べられる。どちらも外人どことか日本人でも好みがわかれる類のはず。
偏食の傾向がみられるレムリアが、これらを好んでいるというのは秋人にとって意外だった。
「どうしました、アキトさん?」
見つめられていることに気付いたレムリアが尋ねてくる。
傾げられた首に合わせて、サラサラと白い髪が流れる。
その姿に一瞬見惚れた秋人は、
「いや、野菜がないなって」
味噌汁の具は豆腐だった。
「……納豆は野菜ですよ」
――そうなのか。
レムリアの答えは新鮮な驚きを与えた。
納豆は豆。だから野菜。
これまで秋人の頭の中では納豆は納豆であって、穀物でも野菜でもない別のカテゴリーの食材であった。
言われてみれば全くもってその通り……
「レムリア、野菜もちゃんと食べような」
「わ、わかってますから。今日はたまたまですから」
中空に視線を彷徨わせながらそんなことを言う少女。
レムリアが秋人のマンションに戻って来てから二週間ほど共に暮らしてきたわけだが、基本的にレムリアは肉好きで野菜はあまり好みでない。
よって彼女に三食の献立をすべて任せてしまうと、ほとんど食卓に野菜が昇らないなどと言うことになる。春休みの間にそういう日があった。
例:『朝:ベーコンエッグと卵かけご飯(卵かぶってる)→『昼:チャーシューメン』→『夜:ハンバーグ』
さすがに秋人はこれを見過ごさない。相談した結果、夕食に関してはレムリアと二人で決めることにした。彼女だけでなく自分の健康的にも気になるところである。
レムリア自身も後ろめたいところはあるようで、そこは素直に秋人に従っている。でも、彼女の口から野菜料理が挙がったことはない。
「今日は始業式だけだから早めに帰ってくるよ」
「じゃあ、お昼ご飯も用意しておきましょうか?」
「ああ、頼む」
「お任せください」
胸を張るレムリアの微笑ましい姿に苦笑する。
初めてこの家に落下した頃とは違い、春奈の猛特訓を受けた少女は料理に限らず家事全般の腕を上げている。
その実力を披露するのが楽しくて仕方ないらしい。秋人にとっては実にありがたい話だ。
しかし、特訓内容について触れようとするとレムリアの表情が虚ろになる。
念のために母に問いただしたものの、『レムリアは頑張っていた』としか言わない。
秋人がこのマンションで暮らす直前に叩き込まれた内容はそれほど厳しいものではなかったのだが、今回はどうだったのだろうか?
異世界からやってきた少女、それも姫巫女という特殊な地位だったことを鑑みて少しは気を遣ってくれていればよいのだが。
もう終わったこととはいえ、秋人としては気が気でない。
――終わった……はずだよな?
自作の朝食を味わっているレムリアの姿は実に楽しそう。
彼女が表情を曇らせるようなことなんて起きなければいい。
そう願わずにはいられない秋人だった。
★
改めてレムリアとの共同生活を始めてから二週間。今日は初めての学校。
春休みの間は割となあなあで暮らしていた秋人達の真価はこれから問われる。
ややこしい話は後回し。とりあえず今は……顔を洗ったり髭を剃ったり、あるいは髪の毛を整えたり。
制服に着替え、鞄の中身を確認し(始業式だけなので筆記用具だけあればいい)、学校へ行く準備を整える。
その最中で、ふと思う。
起床時間は1年生の頃よりも少し遅くなった。レムリアが朝の用意を引き受けてくれるからだ。
これまで眠い目を擦りながら――あるいは適当に手を抜きながら朝を過ごしていた秋人。
今日の朝食は大満足(野菜がないことを除けば)だったわけだが、この感謝の気持ちをどうレムリアに伝えてよいか、それがわからない。
――『美味しかったよ』か?
何も言わないという選択肢はなかった。
――親父はどうだったっけ?
中学生の頃は家族で一緒に朝食をとっていた。
そのころの冬樹はどうだったかと思い出そうとするものの、あまり明確な記憶がない。
秋人の両親はかれこれ20年以上の時間を共にしているわけで、その辺りはもう慣れっこになっているのかもしれない。
――参考にならんな。
今は離れたところに住んでいる両親に毒づく。
それがある種の八つ当たりだと自覚できているだけに、秋人としては余計に腹立たしく感じられる。
「アキトさん、早くしないと学校に遅れますよ」
「ああ、今行く」
タイムリミットは目前に迫っている。
★
「その……また作ってくれな」
ようやく絞り出した言葉がこれである。
しかしレムリアの顔には輝くばかりの笑みが咲く。
紫紺の瞳はまっすぐに秋人を見つめていて、
「もう、何言ってるんですか、アキトさん」
「そうだよな。悪い」
「作りますよ、毎日」
レムリアの小さな口から放たれた言葉が耳に届く。
秋人の顔が真っ赤に染まり、頭がクラクラしてくる。
「い、行ってくる」
「いってらっしゃい」
動揺をレムリアに悟られないよう、慌てて家を飛び出す秋人。
見上げればそこは晴れ渡る空。頬を撫でる風が火照った身体に心地よい。
「……これは身が持たんぞ」
早鐘を打つ心臓の鼓動。
胸に手を当てて秋人は大きく息を吐き出した。