四、お父しゃん
数ヶ月も経った頃だった。
嬌嬌は小さく、
「お父しゃん…」
といったきり、また、黙った。
しかし珠参も万夫人も手を叩いて喜んだ。
「やっと、しゃべったか、よしよし、上々」
「まあ、やはり、安を呼ぶのですね」
珠安も一安心した。
「ふむ、もう少し構ってやれ、安」
それには、珠安もどうしたものかと考え込んだ。
鷹でも馬でもなし、どのように接すればよいのか、嬌嬌を前に腕組みして、黙って考えた。
「普通に可愛がれば良いのだ、普通に」
珠参は言うが、珠安にはさっぱり見当がつかない。
馬に合図を仕込む、鷹を慣らす、犬を飼う、声で小鳥を呼び寄せる、といったことは解るのだが、幼い女児を笑わせるとか、喋らせるという事がどうも長靴の上から足を掻くように解らない。
身の回りの世話をすればよいのかと着替えさせ、帯を結んでやるが、珠安の後に祖母がいちいち丁寧にやり直しているので落ち込んだ。
──戦さの結び方ではないのですから、こんなきつく締めあげずに!…もっと、こう、可愛らしく、やさしげな形に……下衣も上衣の刺繍に色を合わせて考えてあげなさい、袖はきちんとこのように柄が見えるよう折るのです、この柄です!これが大切なのですよ!……足の巾もこう丁寧に柔らかく包んでやって……爪がひっかからないよう、ふわっと、……勿論、長ければ切ってやりなさい───
聞いた珠安は、
──何を基準に、そう形成されるのか、私めには全く、理解不能。どのような秩序で……──
だった……。
日がな一日、祖母は嬌嬌の服を縫う。
少しでも成長するよう願いを込めて、早すぎる髻髪をほどこした。それは複雑に編み上げ、嬌嬌を愛らしく見せる。
朱と藍、桃色。
色をふんだんに使い、魔除けに埋め尽くされ、祖母のものよりはるかに緻密で可憐な仕上がりだった。
それではと、食事をさせようと茹で肉を切り分けて持たせてみたが、じいっと見るだけで、いつまでも両手に持ち続けている。
「もう少し小さく切って口に運んでやりなさい」
「ああ、そうか」
やっと得心して、手から肉をとって一口ほどに切ると、珠安は自分の口に入れて四度、五度噛む。
それを口にしてやると、やがて、もぐもぐと食べ始めた。
「おや」
珠参がつぶやくと、万夫人もわらった。
「狼の子と変わりませんな、阿母殿、いや……」
珠安は自分の覚えている限りの幼い頃を思い出していた。
祖母は麺麭をくちゃくちゃと噛んで柔らかくし、口移しに自分に食べさせてくれた。ついでに顔中に接吻してくれたことも肌で思い出し、懐かしく、また、なんとも照れくさかった。
(天幕の中ではいつもそうだったな)
おそらく幼い自分に惜しみない接吻の雨と肌の愛撫、そして注ぐような大量の言葉があったのである。
それはつかの間、幼児の時だけであった。
「獣も人も幼いときは、同じような……」
と、浮図(仏教)も信仰する万夫人は笑う。
珠安は次々と嬌嬌に茹で肉を与えた。
「お父しゃん」
嬌嬌がつぶやく。
「うむ、お父しゃんである」
小児を愛しいと感じるのは人の善き本性である、と珠安は一人頷く。
漢人であろうが、遊牧の民であろうがそれは元々変わらないはずである。様々な劣情や慣習がそうでない者を作ってしまうのではないか、と黙々と心に記す。
「肉麺を食べさせましょうか」
祖母は器を珠安に渡した。
「熱いから気をつけなさい」
青銅の匙で細かくつぶし、口元に持っていってやった。
嬌嬌はぱくりと飛びついた。
熱い銅匙が口にあたり、途端に嬌嬌は、きーっという喉の奥から悲鳴のような声を上げて吐きだした。
「あら」
「何だ」
珠参も驚いてまじまじと見た。
「妙な声じゃの」
「どうした、熱かったか、嬌嬌」
はふはふと舌を指でなで、なんとも形容しがたい顔で、悲鳴のような声をきゅうきゅう漏らす。
「これは、…どうやら、ぐずぐずと泣いているらしいですね」
「ふぐふぐ…むむ…きゅぅぅぅ」
小さいが変な声であった。まじまじと三人は嬌嬌を視た。
「ちゃんと冷ましてやりなさい」
「うーむ」
かなり無口に考え込む珠安に、祖母は笑う。
珠参は馬を見回りに矢箙を持って立ち上がった。