一、妓楼
甘州で馬を売ると、バヤルジと分け合った。
大半を渡すと、バヤルジは思案顔になる。
「断る、受け取れるか」
「貴様の敵だといったが」
しかし珠安の助太刀がなければ、死んでいたかもしれず、しかも馬は珠安が売りさばいた。
その事実は両者の頭上に再現される。
「戦さの経験がないのでは無理はない」
珠安がおもむろに言った。
物惜しみをすれば蔑まれた。
バヤルジは手持ちの半分を返そうとした。
「あ、……待て!」
「少ない、か…な」
「騎馬で弓持つ者なら、どの程度か判るはずである」
珠安は続ける。
「契丹の武者ならこれが普通なのだな。納得した」
「……」
案の定、バヤルジは大半を返してきた。
助太刀は当然見返りを要求するのだが、形式というものがあった。
要求するのが当前という暗黙の了解。
双方それを包み隠しての、
──ものは相談だが……。
と、なる。
珠安が受け取らなければバヤルジの恥になった。
半世紀程前、この構図は逆であった。
「助勢、ご苦労。これは取り分。遠慮なく」
バヤルジは、ちっ、と言わんばかりに銀を珠安に押し出した。
どうぞ、いやいや、どうぞ、とんでもない、とえんえんと本来は続くのであるが、
「うむ、では感謝する」
さっさと珠安は銀餅をしまった。
「あーあ、まったくご苦労、素晴らしい働きだった」
「そうか、そちらも素晴らしいご武勇だった。いつでも力を貸すぞ」
「……」
嬌嬌が目をこすった。
「お父しゃん、眠い」
「良い。寝ていろ」
「では、これで飲もう」
バヤルジが立ち上がった。
「俺はあそこで飲むけどな」
指さした先は娼家である。
門の向こうへ女達が手を引っ張ってそこに案内した。
「うーむ」
「何、初めてではないだろう」
にやにやとバヤルジが笑う。
「よし、行こう」
「え」
「無くてもなんとかなるが、男にはやはり必要である」
「いや、それはどうでもいいとして、嬌嬌は?」
「連れてゆく」
嬌嬌を抱え、珠安は門をくぐった。
「胡女はいないよ」
珠安を見て遣り手は言った。
「回鶻か漢人かどちらが良いので?」
「どちらでも良い。食事は要らぬが酒は少し欲しい」
「吸い付くような美女がよろしいな」
にたりと笑う遣り手に渋い顔をした。
舌打ちをする。
「あと、ひとつ、この娘を預かって欲しい」
珠安は相手の袖口に手を突っ込んだ。
手に金を握らせる。遣り手は見るからに強欲そうな顔つきをしていた。
「口止め料も入る。とにかく、悪所を見せぬように願いたい」
「母親に見せれば良かろうに」
ぶつぶつと遣り手は言ったが、
「逃げられたかね」
と、にたりと笑う。
「では、これで」
珠安はさらに銅貨を渡した。
「ま、よろしかろう、物のわかったお方じゃ」
「何かあれば報復する」
首をすくめて遣り手は厨房へ叫んだ。
「小玉!」
十歳ほどの娘が走ってきた。
「しばらく預かっておくれ、迷子になったら首を斬られるよ」
「あい」
「大事に扱うんだよ」
「この娘は?」珠安は聞いた。
「下働きの子だよ。ここの料理番の娘でね」
ぐっすりと眠った嬌嬌をそっと渡した。
漢族の女は三十路ぎわだった。
ほとんど喋らなかったが、
(閨房ではあまり必要ではない)
と珠安はさっさと腰を引き寄せた。
初めてではなかった。
涼州の邑にいた頃、幾度も珠参がこっそり連れていってくれたのである。
(今、思えば阿母殿も知っていたに違いない)
気品のある祖母の姿が思い出された。少し悪かったな、と後悔する。
しばしの雨情と陶酔の間、開けた窓からわあわあと騒ぎが聞こえたが、珠安は無視した。
「名は」
「青花」
(芸名だな)
珠安は笑った。
「満足した」
「それはよろしい」
青花は酒を勧めた。
「いや、もういい」
「泊まっておいでませ。夜も更けて…」
「娘を預けている」
幼いので目が離せないと珠安は説明した。
青花は、おや、という顔をした。
「子連れは初めてのお客様ね」
笑った。
(良い女にあたったな)
「何処に預けたの?」
「厨房だ。小玉という娘に」
「ああ、あの娘なら大丈夫。小児の扱いが上手いよ」
「遣り手は強欲だがな」
ちいさく青花は笑った。
「あれは楼閣主のかみさんだよ、ここを切り盛りしているんだ。怖いよ」
「そうだろうな」
湯で手巾を絞り、身綺麗にしてくれた。
心地良いけだるさがあったが、ゆっくりしていられなかった。
ふと、女に、
「甘州に、契丹兵の客はよく来るのか?」
と、尋ねた。
以前、甘州は契丹に攻められたことがある。
いいえ、と女は言う。
「党項討伐の頃はよく来たけれど、最近は来ないね」
契丹国内部ではお家騒動が起こっている最中だと、女は言う。
「夏州の男から聞いたよ」
契丹では皇帝が暗殺され、従兄弟が立った。
契丹は国を造る過渡期の内訌が続いていた。
青花はこまごまと華北の情勢を教えてくれた。
「北漢と周の争いが続くと軍馬の値が上がるらしいね」
北漢が劣勢だと言った。
(だろうな)
「河西はまだ平和だよ」
「そうだな」
「甘州は初めてかい?」
「ああ」
「回鶻が多いだろう」
「そうだな」
かつて河西は吐蕃の支配下だった。
唐が華々しく治めた時代もあったが、晩唐期は吐番、回鶻が台頭する。
回鶻(東ウイグル可汗国)はモンゴル高原の遊牧民。
吐蕃はチベット高原に建てられた国である。
唐末、その両国が競い、最初は吐蕃が覇声を上げた。
吐番は沙州も陥れた。
しばらくの間、河西は吐蕃。北庭は回鶻が押さえた。
やがて吐番は急速に国力が衰えた。
お家騒動が元である。
回鶻もキルギスに攻められ瓦解した。
その一派が河西甘州中心に勢力をおき、甘州回鶻となる。更に西、北庭へ走った派は天山回鶻(西ウイグル国)になった。
「甘州の回鶻王家と沙州の漢族曹氏は互いに通婚しているんだよ」
「ほう、それは」
「沙州まで、ややこしい事はないよ」
珠安は銀餅を二つ置いた。青花が怪訝な顔をする。
「……これは」
「自分のものでない馬が売れたのだ。良い」
珠安は銀餅を青花に押しやった。
「先程の話はこのくらいに値する」
「……どうしよう」
困ったような顔をした。
「客がくれるというのだ。もらっておけ」
珠安はさっさと戸口に掛けた弓と矢箙を取り上げた。
青花は嘘の方が安心すると言う。
「いやだよ、親切すぎて恐い」
「我ら牧民は余計な富は持たぬ方が良いのだ、後は天が決める」
「なぜ? どうして、こんな」
「二度と来ない。だから断ればもう機会はない。とっとけ」
青花は珠安を見た。
「お前様に育てられる娘は至福だろうね」
「そうか? 有難い」
珠安は笑った。
青花が何か言おうとした。
珠安はさっさと戸をくぐった。