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龍が鳴く砂漠  作者: 鮒井春樹
沙 陀
2/20

一、はじめ

 話は少し遡って始まる。


(とにかく困ったことになった)

 珠安は思う。 


 

「所詮、まだまだ子供ですわねえ」

 

 睨むしかできなかった。

 女体がもくりと動く。

「シュアン」

(甘い声だ)

 

 女体がこのように圧倒される物であることに珠安は怯える。


「おうおう、良い、良いぞ…」

 

 それは漢語ではなかった。

 今では祖父や祖母の代でもあまり話さない。打つ響き。


(心地良い)


「沙陀では話せる者はもうわずかであろう」


 

指がすべる。   

 親指を口に含ませて、

「味わうが良い、そう、汝の舌はこのように味わうためにあるのだ」

と、女は言う。

「私がこのようにいるのも…」

「……」

 指は動く。


 珠安はぐっと目を閉じる。

 

 薄目を開けて伺うと、


「先ずは妾を喜ばせて見よ」

 美女に怒られて心はうろうろと慌ただしく落ち着かない。


「そう、お前は良い、白紙はほんに書き易い…」


 小さな声を上げて女は身をよじる。

 その声にくらくらした。

 目の前が真っ白になるまで、彼は白い桃果にすがりついた。果肉の奥に生々しい芯が感ぜられた。珠安はすがりつく。

 夜の闇は女を青白く浮かび上がらせる。


 「おお……」

 

 小鳥ような音が聞こえた。

 

 女の瞳が笑いを含んだ。胡人のように碧い


「今一度、いえ、何度でも、参れや、シュアン」




   ◆  ◆



「こら」

 

 朝帰りした珠安は祖父に鞭で尻を撲たれた。

 

 祖父は怒鳴る。

 祖母は黙って黙々と餐具を出し、馬乳酒を汲み入れる。

 悦楽の残り香に頭ががんがんする。

 上品に舐め取る舌の感触が蘇って背中に冷や汗をかき、慌てて頭をがりがりとこすった。

 そこに祖父の大声が響く。


「お前はぁっ!何処の娘と夜を過ごした?早すぎるわっ、初陣は誉めてやりたいが、勝手な事をするでない。軍律が行き届いておれば懲罰ものだ」

 無口に珠安は下を向く。



 珠安に父母はいない。


 祖父母と言っても四十路半ばであるから殆ど実父や実母と同じである。

 珠安の父も早くに息子を授かった。早婚だった。   


 珠安に祖父母は目をかけた。


 長身に虹彩が淡い瞳の色。そこまでは珠安も父と同じであった。

 みな、薄い髪の色である。

 珠家では漢人の妻を持ったのは珠安の父、珠仁が初めてであった。

 とはいえ、身の回りに漢人との結婚は幾らでもいるので祖父母も特に文句は言わなかった。

 それどころか、


 ─おお、良いかおだ、吉相、吉相。

と、満足そうにうなづくのであった。


 ─タブガチの顔つきが良いのか?─


 どういう事だと、幼い珠安は思ったものだった。地味な容貌をしていた。

 

 タブガチとは西域を含む遊牧民が中華を指して言う。


 遡ること五百年前に華北を支配した北魏の拓跋氏が訛ったものであった。

 唐代になってもこの呼び名は変わらず、別の名前で呼ばれるのはもう少し先の時代になる。


 ──早う、成人せよ。


 珠安の髷を祖父はぐしゃっと掴んだものだった。

 祖父と同じである。回鶻(騎馬民族のひとつ)のように長くのばさない。


─もう幾年すれば、馬で駆け、女を草むらに転がすようになる。


 そんなことまで大声で言われ、珠安は黙って馬乳酒を流し込む。

 聞こえてか、どうか、祖母は家事を黙々とこなすのが常であった……。



 名も知らぬ女に声をかけられ、細腕の力で抱きつかれたことを、説明した。


「大父殿、俺は彼の女を娶らねばならないのだろうか」


「心配せんでもええわい、見事に逃げられよったではないか」


 朝になると姿が見えず、下袴(この場合パンティに相当)だけが珠安の枕代わりに残っていた。

 ふふ、という声が聞こえそうである。

 黙ってそれを祖父母に差し出したところ、見事に鞭打たれた次第であった。

 そこでやっと、祖母が間に入ってくれた。


「生真面目と思っておりましたが」

 祖母は笑う。



 特に馬に懐かれる。鷹を慣らすのも上手かった。

 一人の古老が彼を「シュアン!」と叫んだ。


「故に、お前に、先祖の名を貰った」


(説明になっていない)


 安という名は元々、彼の名前ではなかった。

 最初は、丹、と名づけられた。

 しかし、祖父母に始まり、特に珠参より年配の古老が彼をシュアン、シュアンと呼びつけるようになったのである。

 その後、祖父は彼の名を改め、ついでに成人名も与えたのである。


 ──名を安、字は圭とする。其は珠家の祖、朱安という人物である。

 

 その名を継いだと祖父は言った。

 このように総領息子としての自覚を促されたのがつい先日だった。


「名前だけ一人前になりおったら…」


「良いではありませんか、あまりにこの児が愛しいので、男にしてやろうと思うたのでしょう、良しといたしましょう、お前様」


「まあ、そうだな」

 祖父の顔はいつしか晴れやかに笑っていた。



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