4 雨色
昼夜逆転である。
榊幸奈は深夜に目を覚ましてしまう。夕方に寝ることが多いからだ。いわゆる普通の子は、帰宅してからの数時間を友達と遊んだり、家族と過ごしたりするのだが、そのどちらも幸奈には欠けている。
この日も誰もいない居間で、深夜アニメを眺めながらカップ麺を食べる。アニメは好きだから丁度いい。幸奈は何も不都合には思っていない。
クラークが浮遊しつつ、声をかける。
「幸奈はアニメ関係の仕事を目指しているのか?」
「……ちょっと。なんでそうなるの。ただの趣味だよ」
「将来の参考にしているんじゃないのか。アニメーターや、声優」
「絵、描けないし。演技もできない」
「君はやればできると思うんだが……」
「やだよ」幸奈は麺を食べ終える。「二次表現者なんて」
「二次?」
「一次が原作者。アニメ制作の人は凄いけど、結局労働者なの。自分の好きなもの作れないんだよ」
クラークは幸奈の食べ殻を取って、流しに運ぶ。
「じゃあ原作者か? 創作がビジネスとなる以上、彼らも労働者には違いないと思うが」
幸奈は顔を顰める。この魔獣、人間界の知識吸収しすぎ……。最初に会ったときは、あれは何、これは何っていちいち聞いてきたのに、今じゃ大抵のことはクラークに聞く方が検索より早い。それでいて人の心の常識には疎いから困る。
「だとしても、一番作品に近いのは原作者でしょ」
「では、幸奈の将来は作家か。漫画家か?」
「知らない。水商売じゃないの」
幸奈はぷいとテレビに向いた。
クラークは黙り込んでしまった。
アニメも終わったので、チャンネルを変える。深夜の討論番組しかやっていない。仕方なくそれに合わせて、携帯をいじり始める。
「つまんないね。さっきのアニメもそうだし、楽しませようって気概が感じられないよ」
「私はこれは面白いと思うが」
政治についての熱い議論が交わされる番組だ。
「ここでくっちゃべって明日の何が変わるっていうの? 自慰だよ、こいつら。やってることが」
「幸奈……。もう少し言葉を選ぼう……」
司会者にカメラが向けられる。収集のつかなくなった議論を打ち切って、番組は次のテーマへと移行された。
ゲストの政治家や評論家などが一斉に映される。
「……え」
幸奈の動きが止まった。
「ちょっとちょっとちょっと。崖淵ナルコだよ」
「ナルコ?」
丁度、占い師のような格好の女性がアップになり、崖淵ナルコとテロップが入る。
「〝描かない漫画家〟崖淵ナルコ。もう! 連載放置して何やってんのぉー!」
異様なテンションに、クラークは怯んだ。
「漫画家兼、政治評論家と書かれているが……。代表作〝キラーワークス〟」
「持ってる!」
言って、幸奈は大急ぎで二階に上がる。戻ってきたとき、単行本十冊を抱えていた。
「新刊でたのいつか知ってる!? 五年前だよ!? わたしが小三のとき!」
「……そ、そのときからファンなのか?」
「いやもう」クラークの身体をがっしりと掴んだ。「ファンとかじゃなくて、この人の漫画面白いの! なのに描かないの! 全然!」
頬が赤い。
「君は、趣味のときが一番女の子らしいな……」
クラークは漫画を一冊めくってみる。殺伐とした内容が目に入った。発行日は確かに五年前だ。
「それだけ休むとなると、病気をしたんだろうか」
「ないない。サボりだよ。てかこうしてテレビ出てるのがそもそもね。売れてるから我儘通っちゃうんだよ」
文句を言いつつも、幸奈の目はきらきらしている。
「彼女のようになりたいのか? 漫画家に……」
「なれるわけないって! 別格なのこの人は!」
クラークをぎゅっと抱きしめて、幸奈はテレビ前を陣取る。リモコンで音量を上げる。
『腐りきっているわ。今の日本は』
崖淵ナルコの発言である。
「声、若い!」
幸奈は興奮した。顔布の間から見える大きな目も、素顔の若さを想起させた。年齢不詳である。デビュー当時から老けていないとも言われている。
『今こそ、この国は、飛び抜けた能力を持つ独裁者を必要としているわ。そう、私のような。…………なーんちゃって』
「う、ウケる!」
「……」クラークはシリアスな顔をした。
『あの、この胡散臭い女性は誰ですかな。ここはバラエティではないんですよ』
堅物そうな、禿げた中年の議員が口を開いた。
『あら、バラエティと違いがありますか? というか、あなたの頭がバラエティ』
「こ、こういう人だったんだ……」流石の幸奈も驚いた。
議員は激昂した。
『おい。生番組なんだぞ。退場させろこの女を!……大体、漫画家? そんなのが何故ここにいるんだ』
『あなただって元タレントでしょう』
『漫画家は全然別だ。現実が見えていない人間の代表格だろう』
彼は、あっと何かを思いついたように口を開け、続けた。
『今流行っている魔法少女とかいうのにも、その影響が見られますな! あんな子供のお遊び……』
『あれは、聖戦です』
ナルコの言葉が、彼の動きを止めた。
『この国の政治などより、遥かに尊いものです。命をかけた、少女たちの戦い』
『な……』
幸奈がせせら笑った。
「このおっさん馬鹿すぎ。遊びでビルが壊れるわけないって」
「世間の認識はそんなものだ」
「でもさ、崖淵ナルコは違うね! やっぱこの人凄いよ」
「……どこまで見えているのだろうな」
ジャミング影響下で正気を保つ者は、言わば非日常への適応力を備えた者だ。少女が空に浮いていて、それを現実と思えない者だけが、パニック抑制の為に認識を曖昧にされる。
適応するのは主に、死期が近い者、薬物乱用者、子供、それから、いわゆる夢見がちな人。漫画家がそれに該当するのは、不自然ではない。
混乱の中で番組は進行されていく。
「また読み返そうかな、これ」
キラーワークス一巻を取る。殺し屋の話である。
「わたしの人格形成にもろに影響を与えた作品だからね」
「……それもどうかと」
昨日アメンチアを倒したことで散った雨雲も、夜には復活しており、幸奈が学校に行くときにはまたどしゃ降りであった。梅雨期は髪が言うことを聞かなくなるとかで女子たちは大騒ぎだが、ストレートの幸奈には関係のないことだった。
誰とも会話せず着席する。雨の様子を見ながら、すぐに睡魔に襲われる。深夜から起きっぱなしだ。瞼が閉じてしまうのも無理もない。
だが、大好きな漫画家をテレビで見て、その著作を朝まで再読していたことはとても有意義だった。クラークにも読ませた。結構夢中になって読んでいた。キーホルダーになった彼は動く気配がない。二人揃って昼夜逆転だ。
ギリギリの男が登校する瞬間を、幸奈は見ていない。出欠の時に起きて初めて、びしょ濡れの彼に気づいた。
今日は幸せ。変な恋心や自己顕示欲が湧いてこないのは、いいことだ。
趣味の時間によって、幸奈は満たされた。
三限目の休み時間にそれは来る。
うつ伏せから起きた幸奈は、窓の外を見た。雨脚がぴたりと止んだ。違和を覚えて、目を見開いた。途端、豪雨が襲った。
教室は慌ただしくなった。
「こりゃ帰れないぞ」
「学校に寝泊まりか?」
「きゃー、まじ?」
……雨が止まる瞬間を見た。顔は窓に向けたまま、鞄のキーホルダーを弾く。小さく「何だ……」と声がした。
使えない。幸奈は苛立って、鞄ごと彼を廊下に連れ出した。
「探知して」
むにゃむにゃと返事をするクラーク。はっと目を開いた。
「現れた」
「ちょっと。わたしが気づかなかったらどうなって……」
人気のない場所を探して早足で歩く。階段を上って、最上階の物置スペースへ。幸い誰もいない。クラークに命じて、次元移動を行う。
「って……」
豪雨の音に、その先の幸奈の悲鳴はかき消された。学校そばの緑川は荒れ狂っていた。土手に立った幸奈は、急いで変身を行う。
雨滴が弾けた。魔法少女ユキナの周囲だけ霧が生まれた。しかしすぐずぶ濡れになる。
わたわたとして、でももう魔法服も下着もぐっしょりになってしまったので諦めた、その頭上で、雨空が切り開かれる。
「不思議だね」
青髪の少年が顔を出した。
「兆候があるのか? 僕が行動しようとすると。……このどしゃ降りは僕のせい?」
彼を見つめつつ、ユキナは答えない。鋭い光が手の中ではじけ、鉄の銃が現れる。
イソラは微笑する。
「ま、なんでもいいか。君と戦うのが目的だし」ひょいと体を乗り出し、土手に着地した。
ユキナは計算している。この青髪を今回で倒す方法を。
命がけの戦いである。メランコリアやアメンチアなどの単細胞系ならいいが、敵は知能を持った人型だ。長引く程に不利になると想定される。多少無茶をしてでも、仕留める。そのための、魔法少女ユキナなのだ。
「……」
――決定した。有効な戦術をユキナは試行する。彼を見据えたまま、何食わぬ顔で、ぶら下げた銃のトリガーを引いた。土手が爆発した。
舞い上がる泥と草根の中で変身を解く。再度コード詠唱――、
「!」
周囲を切り刻む異次元の傷を見た。咄嗟に判断を変える。赤色めいた光が弾ける。剣を手にしたユキナは、盲目的に薙ぎ払った。針金のような体の生物が三体、悲鳴を上げて消え去った。
「すごいね。用心して正解だった」
イソラは手をかざす。五本の指がバラバラの方向に動いたと思うと、ユキナの周囲にまた切れ目が入る。そこから五体の異次元生命体が生まれる。
「いけ、マニック」
針金生物が飛びかかる。上、下、横から。それをユキナは捌いていく。残った二体の同時攻撃が、赤の残像を貫く。捉えることすらできていない。空中からの剣戟により、マニックの首は飛ぶ。
イソラの細い目は見開かれる。
「狂躁の異次元生命体……。速さが取り柄なのに、それを上回るんだ。その為の武装変更か」
「喋ってないでこいよ。もやし」
剣が振り上げられた。土手の土がイソラを襲う。彼はひらりと次元路に身を落とした。同時にユキナの背後から、その半身が現れる。指が空を切る。
空間の裂け目が降りかかる。ユキナは剣で弾いた。
「もしかして、飛び道具、ないのか?」
異空の斬撃が繰り出される。それをユキナは更に切断する。雨滴は次元移動により、横に降る。または上昇する。
イソラは笑った。
「じゃあ、これを繰り返せば勝てちゃうな。面白みはないけど、君は手強いと認めて、そうさせてもらうよ」
斬撃が増える。ユキナの対処に限界が見え始める。一瞬、身が傾く。掘り返され不安定な土に、足を飲まれたのだ。赤鉄の魔法少女は、やけくそとばかりに剣を振った。大量の土砂が、空を舞った。
「それしかないのかよ――」
次の瞬間、彼女は高空にいる。イソラは僅かに遅れて気づく。ぬかるんだ地面は全て廃され、一メートル深くに固い地層がむき出しだった。ユキナはそれを用い、跳躍したのだ。
黄の光が空に散った。ドンと音がして、何かが地上へ放たれた。「!」イソラが異空に逃げ込んだ直後、土手を炎が包んだ。
――熱探知。後方十メートル。
黄鉄色の魔法少女は、巨大なミサイルウエポンを向ける。「なんだよ今の……」切れ目から顔を出した青髪に、発射。対処の間もなく、イソラは爆風に包まれる。
「……!」
蚊のように落ちる彼を、更に複数のミサイルが追う。咄嗟に次元を開き、その中へと消失させるが、背後からも別種の誘導弾が近づいている。
空の爆発は連鎖した。ユキナは機雷も放っていたのだ。ゴーグル越しに爆風内の標的の姿を捉える。誘導魔力兵器スラーターボムを発射する。
身を焼かれ、逃げる余裕もなくなったイソラに、無数のミサイルが撃ち込まれる。寸前、雷光が彼を攫った。
ターゲット消失。スラーターフォームのシステムが戦闘の中止を告げた。雨は際限なく身体を濡らしていた。
「イソラ……。イソラぁ!」
色のない空間に横たえられた少年。黒焦げである。カイリは彼の僅かな声を聞き取る。
「三形態、に、変身した……」
「そんなこといいから!」カイリは涙を流した。「ねぇ、ネガ。どうすればいいの……。イソラが死んじゃうよ……」
後ろに立つネガは、険しい顔をして言った。
「キスをすれば……」
「ふざけないでよぉ!」
泣きじゃくって、イソラの肩を揺する。力ない反応が返ってくる。
「そ、うだ、カイリ……。キスを……」
「えっ……!?」
「奇跡を起こすのは、愛する者からの口づけ」うしろからネガの声。「それが、無意味だとしても……」
カイリは言葉が詰まった。イソラの息は小さくなっていく。ぼろぼろと涙して、きゅっと口を結んだ。
彼を抱くようにして、顔を近づける。
二人の唇が重なる。瞬間、イソラは、ひょっとこのような顔をした。
キス写真がネガによって無音撮影される。
顔を離していく。カイリが涙をこぼす。笑顔のイソラの頬が濡れる。
「僕なんかのために、泣いてくれるんだね……。こんな、僕のために……」
ぶひっ! ネガは笑いを堪えきれない。
「そんなこと、言わないでよぉ……」
深く俯いて、涙を拭うカイリ。イソラは鼻くそをほじり、その成果に瞠目する。
「僕の、かわいいカイリ……。強く……生きるんだ」
赤髪を何度も撫でた。イソラは安らかに、目を閉じた。
カイリはしゃくりあげる。動かなくなった彼に、覆いかぶさった。
「イソラぁぁあーーーー!!」
仕留めそこなった。ユキナは舌打ちした。
雨の中、変身を解いた。キーホルダーのクラークが喋り出す。
「変身に巻き込まれた……」
「外にいるよりは安全でしょ」
「宇宙が見えた……」
「えっ」
言わば彼は魔法少女の体内に取り込まれた形である。一体何を見られたのか、激しく気になった。
高架下へと移動し、鞄の中身を確認する。携帯は無事だ。防水でよかった。別に壊れても困らないけど。
ノートがいくつか濡れた。これも困らない。
「なんで、来てほしくない時に来るんだろ」
「何だってそういうものだろう」
「……だよね」
どうしようもないどしゃ降りと、荒れた川と、濡れた制服。心地よい眠気。
「帰って、お風呂入ってから寝るの……めんどい」
幸奈はちょっと裏技を使った。魔法少女に変身をして身体の水分を飛ばすと、そのまま柱に背をつけて、目を閉じたのだ。クラークは何も言わない。彼もまた眠いから。
一仕事終え、学校も正当な理由でさぼった。
月曜の正午、魔法少女の惰眠。




