第84回 痛いって何だ?
森を駆ける二つの足音。
一つは重量感のある荒々しい足音で、もう一つは爽快感のある静かで軽快な足音。
前方を行くのは前者の足音で、後者の足音をかき消す程の大きな音だった。
巨体を揺らす茶色の毛皮の猪の様な獣は、前を向く大きな鼻からムフゥーンと大きく息を吐き出した。
その息により土煙が舞い上がる。
鼻の両脇には下顎から強靭な牙が二本飛び出していた。
大きな鋭い眼をギョロリと動かしながらも、背後から迫る存在に注意を払っていた。
しかし、その注意が仇となる。前方に気配無く現れた一人の少年へ、反応が遅れたのだ。
直進する足はもう止める事は出来ず、構わず少年へと突っ込む。
黒髪を靡かせる少年は、静かに息を吐き出すと、肩幅に足を開き腰を落とした。
そして、その腰にぶら下げた剣の鞘を左手で握り、右手で柄を握り締める。抜刀の構えに巨体の獣も危険を感じたのか、勢いを殺すように前足で強く地を蹴り、その体を大きく持ち上げた。
「もう遅い!」
少年がそう呟くと、すり足で右足を前へと出し、左手の親指で鍔を押し出し、右手で剣を素早く抜いた。
風を切る鋭い音が僅かに聞こえ、閃光が駆ける。
一瞬の後に振り切られた少年の右手に握り締めた剣は、切っ先から僅かな鮮血を滴らせた。
直後、後ろ足で立つ巨体の獣が大口を開き野太い声を轟かせる。
“ブオオオオオオッ!”
悲鳴の様な声が大地を揺るがし、やがてその振動により巨体の獣の後ろ足から鮮血が噴き出す。
そして、巨体が地面へと崩れ落ちる。重量感のある重々しい音が轟き、土煙が派手に舞う。
土煙を受けながら、少年は振り抜いた剣を手首のスナップを利かせ軽く振り、刃に付着した血を払うとそれを鞘へと納めた。
だが、巨体の獣もそこで諦めず、最後のあがきを見せる。鼻息を荒げ、両足を震わせ立ち上がった。
しかし、少年は冷めた眼差しを獣へと向け、鼻から息を吐き出すと静かに呟く。
「大人しく寝てろ。出ないと――」
「カイーン!」
後方から幼さの残る声が響き、その直後に太い木の枝が大きくしなった。
葉が擦れ合う音が響き渡り、空へと一つの小柄な影が跳躍した。
金色の髪を激しく乱す幼い顔付きのカインは、相変わらず無表情で右拳を大きく振りかぶる。
刹那、金色の髪から白煙が噴き、根元から朱色に染まっていく。
そして、握り締めた手の平に爪が食い込み、滲み出た血が発火しその拳を紅蓮の炎で包み込む。
「なっ! か、カイン! す、スト――」
後方から響く幼い声。だが、カインの動きは止まらず、立ち上がろうとする巨体の獣の背中へと、炎に包まれた右拳を振り下ろした。
硬く刺々しい茶色の毛を炎が燃やし、拳は柔らかなその肉へと食い込む。衝撃が巨体の獣の肉へと波紋を広げ、遅れて獣の体を地面へと叩きつけた。
大きく地面が陥没し、激しい突風と共に土煙が空へと舞い上がる。
剣を鞘へと納めた少年は、黒髪を右手で掻き揚げ、呆れた様な眼差しを向け、後からかけてきた茶色の髪を揺らす少年は立ち止まり膝に両手を置き俯いた。
土煙は次第に薄れていき、毛が焼かれ、丸焼きになった巨体の獣と金色の髪を爽やかに揺らすカインの姿が浮かぶ。
ジト目を向ける黒髪の少年は、後方で俯く茶色の髪の少年へと声を上げる。
「フォン! どうするんだ! これで、三度目だぞ!」
苛立ちを隠せないその声に、俯くフォンは半笑いで顔を挙げ、右手で頭を掻いた。
「お、落ち着け! リオン! カインはまだ慣れてないんだ! うん。だから、もう少し――」
「もう少しじゃないだろ! 三度目だぞ! 三度目! 追い込みをさせれば、森を焼き! 足止めをさせれば、獣を焼き! 止めを任せたら、これまた獣を焼き払ったぞ!」
怒りをぶちまけるリオンが、右腕を激しく外へと払い、鋭い眼差しをフォンへと向けた。
そう、これで、三度目となる狩りだった。
最初は簡単な追い込みを任せたが、カインは森を焼き払った。その後に足止め役を任せれば、一撃で獣を燃やし、今回、止めを任せたら、この有様だった。
フォンとリオンの二人だけなら、すでに三体分の報酬がもらえるだけの仕事をしていた。
それが、全て無駄になるカインの働きだった。
しかし、カイン自身はその事を理解していないのか、焼かれた獣の上に佇み、小さく首を傾げる。
そんなカインの姿に、フォンとリオンは深くため息を吐き、肩を落とした。
結局、この日は収穫は丸焼きの肉のみとなった。
その肉を格安で売りさばき、フォンとリオンとカインは宿へと帰路に着く。
「はぁ……」
大きなため息を吐き、フォンが肩を落とす。
すると、カインはその顔を覗きこみ尋ねる。
「どうした? 悩み事か?」
相変わらず無表情のカインに、フォンは困り顔で頭を掻いた。
悩みの種がカインなのだが、本人にそう言うのは気が引け、フォンは細かく何度も頷く。
「大丈夫。大丈夫だよ。うん。悩み事なんてないよ」
「そうなのか? そうは見えない」
冷静なカインの言葉に、フォンは眉間にしわを寄せる。それから、肩を落とし鼻から息を吐き出した。
「ホント、大丈夫だよ。ちょっと、今後の事を考えないといけないな、って思ってるだけだから」
「もしかして、僕が原因なのか?」
怪訝そうな表情でそう言うカインに、フォンは戸惑いリオンへと視線を送った。
しかし、前を行くリオンはフォンの視線になど気付かず、不機嫌そうに肩を揺らしていた。
困った様子のフォンは苦笑すると、カインの右肩へと左手を置く。
「まぁ、人には失敗はつき物だ。うん」
「失敗? 僕が何か失敗を?」
「うーん……とりあえず、今度から獲物を燃やすのはやめようか?」
フォンが笑顔でそう言うが、カインは怪訝そうに首を傾げる。
「どうして? あの方が手っ取り早い。効率がいいはず」
表情は相変わらずのカインだが、口調は少々疑念を抱いた様な口調だった。
その為、フォンは腕を組むと、肩の力を抜く。
「まぁ、確かに効率はいいけど、獲物を燃やしたら、毛皮とか採れなくなるだろ?」
「確かに、毛皮は燃えてしまう」
「そうだろ? それに、カインだって血を流す事になるだろ?」
フォンがそう言うと、カインは不思議そうに首を傾げる。
「僕が血を流すと問題があるのか?」
「えっ? うーん。痛いだろ? それに、血は流しすぎると死ぬんだぞ?」
どうして、カインがそんな事を言うのか分らず、フォンは眉間にシワを寄せそう答えた。
しかし、カインはピンと来ないのか、首を捻る。そして、フォンの顔を覗きこむ。
「どうして、血を流しすぎると死ぬ? 痛いって何だ?」
「えっ? 痛いって言うのは……ほら、殴られたら――」
「殴り返す?」
「いや、そうじゃなくて、殴られたりしたら、痛いだろ?」
苦笑しフォンがそう言うと、カインは腕を組み唸り声を上げる。
「よく分からない。痛い……」
意味が分からないと言いたげにそう呟いたカインに、フォンは首を傾げる。
痛覚が無い――と言うわけでは無いはずなのだが、確かにカインには異常性があった。
斬られても平然としていたし、痛みで動きが鈍ると言う雰囲気がなかった。
その事を思い返し、フォンは思う。
(もしかして、本当に痛覚が無いのか? でも、それって生きてるって言うのか?)
疑念を抱くフォンは、唸り声を上げるカインの横顔を見据える。
一体、彼が何者なのか、自分の時代にいるカインとはどう言う関係性なのか、疑問は尽きる事がなかった。




