第70回 生きてきた時代の差
衣服の腹部が裂け、僅かな鮮血が青い刃を包む激しい水飛沫と混ざり合う。
「くっ!」
表情を歪めるリオンはバックステップで距離を取り、左手で傷口を押さえた。膝を着かなかったのは、その傷が然程深いものではなかったからだ。
裂けた黒衣は僅かに黒ずみ、傷口を押さえる左手は赤く染まる。指と指の合間から流れ出た血は、やがて雫となり地面へと零れ落ちた。
(どうなってるんだ……傷は浅いはずなのに……)
奥歯を噛み締め、険しい表情を見せるリオンに、剣を振り抜いた男は「くくくっ」と静かに笑う。
「何がおかしい!」
表情を引きつらせ、リオンがそう怒鳴る。すると、男は短い金髪を左手で掻き揚げ、鋭い眼差しをリオンへと向けた。
瑠璃色の瞳は美しく輝くが、それとは裏腹に彼の表情はとても狡猾な笑みを浮かべていた。
「お前……今の一撃をかわせなかったのは、痛恨のミスだ」
「何が……ぐっ……がっ……」
膝が震え、やがて地に落ちる。そこで、リオンは一つの答えを導く。
(毒……か……くそっ……)
そう考えるリオンに対し、男は金色の細い眉を右手で撫で、小刻みに肩を揺らした。
「今、毒だと思っただろ? 残念だが、俺は毒なんて使わない」
(くっ……じゃあ、一体……)
呼吸を乱すリオンは眉間にシワを寄せる。体が重く、意識が遠退く。だが、それを制する為に、リオンは手にしていた剣で左の太股を突き刺した。
「ぐっ!」
激痛で、意識は辛うじて保ち、歪んだ表情で真っ赤な鎧を着た男を見据える。
リオンのその行動を馬鹿にする様に、男は小さく口笛を吹いた。そして、右手に持った淡い青色の剣を肩へと担ぎ、左手に持った朱色の剣は下ろし、切っ先を地面へと向ける。
「お前、その状況でもまだやる気か? 大人しく、俺に殺された方が身の為だぞ」
「だま……れ……」
震える膝へと力を込め、リオンは立ち上がる。右手が僅かに震え、切っ先が揺れた。その為、リオンは血に塗れた左手を柄へと伸ばした。両手で確りと柄を握り、ようやく切っ先の揺れが止まる。しかし、視点は定まらず、足元はふらついてた。
「まぁ、お前の気迫に免じて、教えておいてやるぜ。お前の体に起こった現象をな」
男はそう言うと肩に担いでいた青色の剣の切っ先をリオンの方へと向け、腕を伸ばす。
「コイツは、水龍。水をまとう特殊な剣だ。コイツが一太刀でも相手を傷つければ、そこからコイツは血管へと侵入し、相手の自由を奪う」
(そ、そう言う事か……この傷の血が止まらなくなったのは……)
「そうだ。貴様の出血が止まらないのは、水龍が止まらない様に作用しているからだ」
リオンの心を見透かした様に男はそう言うと、不適に笑う。
周囲を囲う男の手下達の視線がリオンへと向けられる。皆、薄気味悪い笑みを浮かべていた。その笑みにリオンは俯き奥歯を噛み締める。
悔しげなリオンの姿に、赤い鎧をまとった男は金色の短い髪を揺らし、同情するような眼差しを向けた。
「諦めろ。テメェと俺とでは、地力が違いすぎる。これが、格の違いって奴だ」
堂々と勝ち誇った表情を浮かべる男に、リオンは目を細めた。実力差があるのは歴然だった。それでも、リオンは引き下がるわけには行かず、ジリッと右足を前へ出した。
静寂が包み込み、唐突に空気は張り詰める。リオンの額に浮かぶ汗が頬を伝い零れ落ちる。先程まで勝ち誇った表情を浮かべていたはずの男は、いつしか真剣な表情でリオンを見据えていた。
これが、平和な時代で育ったリオンと、最も危険な時代で育ったこの男との差だった。
「俺の仲間を殺した罪はオメェーぞ!」
赤い鎧をまとった男が地面を蹴る。僅かに土埃が舞い、二本の剣が後方へと大きく振りかぶられた。
(どっちが最初に振り抜かれる!)
息を呑んだリオンは意識を集中し、男の動きの一部始終を目で追う。だが、全く動きが読めず、気付いた時にはすでに男が間合いへと入っていた。
「くっ!」
「反応がおっせーぞ!」
雄々しい声が轟き、男の右足が踏み込まれる。その踏み込みと肩の動きから、リオンは判断する。
(右か!)
体を後方へと引き、男の右手に握られた青い剣へと視線を向ける。だが、次の瞬間、目の前を朱色の刃が右斜め下から視界へと侵入する。
「あめぇーよ!」
「なっ!」
男の囁く様な声が聞こえ、遅れて鮮血が迸る。深く右腕を切り付けられ、手に握られていた剣は宙へと舞った。左方向からの攻撃に備え、体を僅かに左に向けたのが災いした。
完全に筋を切られ、宙ぶらりんの右手の先からポツリポツリと赤い雫が零れ落ちる。しかも、朱色の刃で切りつけられた所為だろうか、傷口は尋常でない程の熱を帯、まるで腕を焼き切られた様な感覚だった。
「うぐっ……があっ……」
激痛に表情を歪めたリオンは、左手で右腕の傷口を押さえ、後方へとよろめいた。直後、その喉元へと青い剣の切っ先が向けられる。
「ジ・エンドだ」
静かに呟き、喉元に向けた刃を振り上げた。
その直後だ。突然、殺気が場を支配し、同時に後方に控えていた男の手下達が次々と意識を失い、崩れ落ちた。瞬時にその場を飛び退いた男は、後方を気にしながらも視線はリオンから切る事が出来なかった。
それは、直感だった。コイツは危険だと言う長年の勘がそう告げていたのだ。
「お前……何者だ?」
鋭い眼光を向けると、リオンは静かに顔を上げる。その瞬間、周囲はざわめく。
「な、何だ! テメェ! その目は!」
リオンの赤く染まった瞳に男が叫ぶ。だが、リオンは何も答えず、静かに息を吐き出す。
明らかに先程までとは違う雰囲気に、男は警戒し剣を構えなおした。熱を帯びたリオンの吐息が僅かに白く染まる。
そして、その唇の合間から小さな牙が覗いていた。
いつしか、出血は止まり、傷口は完全に塞がっている。一体、この男に何が起こっているんだと、言う眼差しを向ける赤い鎧の男は、金色の短髪を右手で掻き揚げ、息を呑んだ。
「おもしれぇ……。俺の全力で相手を――」
不適に笑みを浮かべ、宣言しようとした男の顔面を血塗れのリオンの右手が完全に覆い尽くす。何が起こったのか分からぬまま、男の視界は真っ暗になり、次の瞬間、男は後頭部から地面へと叩きつけられていた。
地面が砕ける音が地響きと共に広がり、男の頭は地面へと減り込む。大きく両足、両腕が跳ね、男の体は動かなくなる。一瞬だった。その為、男の手下達も何が起こったのか理解できず、呆然としていた。
静かに男の顔からリオンの手が離れる。男の金色の髪と眉が血で赤く染まり、瞼は閉じられていた。
微動だにしない男の姿に、ようやくその手下達が声をあげる。
「き、貴様!」
「お頭!」
手下の何人かが走り出す。だが、その瞬間にリオンの拳が動き出した男達を殴りつける。一人は顔面へと右拳を減り込ませ、一人は腹部、一人は髪を掴まれ投げられる。
容赦のないその一撃一撃には、間違いなく殺気が込められていた。
次々と手下達を一撃で平伏させるリオンの周りには、いつしか蹲る男達で埋め尽くされていた。
仁王立ちするリオンは、腹の底から息を吐き出し、握り締めた拳の力を抜く。
だが、その時、後頭部を地面に打ち付け意識を失っていた赤い鎧の男の指先が僅かに動いた。そして、両手の剣の柄を握り締め、男の体がゆっくりと起き上がる。
「ぐっ……ううっ……て、テメェ……」
右手で頭を押さえ男は立ち上がる。まだ意識はモウロウとしているが、それでも男は振り返り、自らの手下達の蹲る様に額に青筋を浮かべた。
僅かに上体をふら付かせる男は、仁王立ちするリオンの背へと鋭い眼光を向ける。その背に感じる異様な気配。それは、今までに感じたことのない獣の様な殺気だった。
息を静かに吐き出し、両手に力を込める。そして、押し殺した様な声で告げる。
「テメェは……一体、何者だ?」
「俺は……俺だ……」
男の問いに、リオンは静かにそう答え、振り向いた。すると、その背に突如漆黒の翼が広がる。
何が起こったのか、何が起きているのか分からず、男は驚愕し、瞳孔を広げた。




