第52回 罠
作戦が実行される。
闇に潜むクレアによって。
橋の前に陣取る兵士達。数にして十人程。その一人一人を丁寧に、そして、確実に気絶させる。声をあげる暇も与えず、迅速に。その間、モノの数分。ようやく、残り一人。
だが、そこがクレアの限界だった。呼吸の乱れ、額から噴出す汗。モウロウとする意識。久しぶりにここまで神経を研ぎ澄ませた。必要以上に体力を消費し、これ以上は無理だと首を振る。
その合図に、まずフォンが飛び出す。草が揺れ、足音が僅かに響く。その音に兵士が気付く。
「なにも――」
鈍い打撃音。クレアの様には行かないが、ギリギリその兵士の意識を断つ。腹部へと減り込む拳。その力を抜き、ゆっくりと兵士を地面に横たえる。
「上手く行ったか?」
茂みからゆっくりと姿を見せるリオン。そんな彼に振り返り、フォンはニッと笑う。
「ああ。なんとかな」
「で、でも……こ、ここからが……」
「喋らなくていいぞ。今は体を休めろ」
途切れ途切れの苦しそうな声に、フォンがそう優しく告げる。その言葉にクレアは小さく頷き、静かな呼吸を繰り返す。桜色の髪が闇の中で揺れる。大きく上下する彼女の肩と胸。その様子から相当疲労しているのが分かった。
橋の前で身を屈めるフォンとリオン。二人は気絶した兵士の武器を外し、ロープで締め上げる。
「とりあえず、ここはこの程度でいいか?」
「そう、ですね……」
大分呼吸も整ったクレアが、静かにフォンへと答えた。橋の柱に隠れ、向こう側を窺うリオン。彼が、左腕を大きく上下に振る。屈め。そう言う合図だった。身を屈め、彼の方へと身を寄せる。
「どうかしたか?」
フォンが尋ねる。渋い表情を浮かべるリオン。彼の目が静かに橋の向こうへと動く。その視線に促され、二人も視線を向こう側へと向ける。薄らと見える。複数の火。それが、ゾロゾロと動き出し、橋を横断する。この瞬間、三人は悟った。すでに罠に陥ったと。
一体、いつから。奥歯を噛み締めるリオン。拳を握るフォン。険しく表情を歪めるクレア。
「隊長。一体、いつから気付いてたんスか?」
橋を渡る兵士達。その一人が後ろを振り返り尋ねる。兜をせず、黒髪を夜風に揺らし。若い男に小さく鼻を鳴らすのは、最後尾を歩む重装備の男。この騎士団団長、グォーバー。元ニルフラント王国、第七部隊の隊長。現在、この隊を統率する男。
隊長だけが装備する事が許された漆黒の鎧。それをまとうグォーバーは、茶色の瞳をギラつかせ橋の向こうを見据える。
「くっくっくっ。あめぇーんだよ。ガキ共。この俺様を相手にんな奇襲が通じると思うなよ」
不適な笑い。それが、闇に消える。その不気味な笑い声に、先程の若い男が頭の後ろで手を組む。
「おーっ。こわっ! 絶対、隊長は敵に回したくないッスね」
おどける若い男。この隊のナンバーツー。そして、切り込み隊長。体つきは他の兵よりも細く、装備も軽装。腰には二本の剣をぶら下げていた。穏やかなその表情。他の兵士達と違いこの状況を楽しんでいる様だった。
そんな彼へと不適な笑みを見せる。
「俺も、テメェーだけは絶対に敵に回したくねぇーよ。リング」
彼の言葉に「まーたまた」とおどける。この二人だけが、この隊の中で最も異様な空気を漂わせる。間違いなく強者。
息を呑む三人。すでに火の玉が橋の中間まで来ていた。三人も感じていた。異様な空気を。重々しく体へとへばり付く感覚。足が自然と震える。
「な、何だこの殺気……」
フォンが奥歯を噛み締める。息を殺すクレアもまた瞳孔を広げていた。感じた事の無い恐ろしい殺意。これは、暗殺部隊に居た頃にすら感じた事の無い感覚。震え、静かにその視線がリオンへと向く。
「だ、ダメです! このままじゃ、死んじゃいます!」
「くっ! なら、仕方ない――」
リオンが立ち上がる。その手に剣を抜き。何をするつもりなのか。フォンとクレアの眼差しが彼を見据える。闇夜に輝く刃。悟る。リオンがしようとしている事を。
「ま、待て! リオン! お前――」
「全員落ちろ!」
振り上げた刃が落ちる。橋を支えるロープに向かって。だが、その刃は届かない。闇を駆ける一人の男。その男が放った一撃が、その刃を弾いた。
「くっ!」
「リオン!」
リオンが声を漏らし、フォンが声をあげる。視界に飛び込む若い男。その男が不適な笑みを浮かべ囁く。
「若いねぇー。考えが甘いよ!」
リングの穏やかな声。その声に三人は寒気を感じる。弾かれたリオンが地面を両足で滑り、体勢を整える。すぐに距離を取るフォンとクレア。三人でリングを囲う。武器を構えて。
静寂。その中で音もなく吹き抜ける風。囁く木々。三人は呼吸を乱し、ただ目の前の男を見据える。
「ふふっ。隊長の言った通り、ガキだね。考え方も浅はか。橋を落とそうなんて、させるわけないじゃん」
穏やかに笑みを浮かべ、右手に握った剣を軽く回す。幼く見える顔つき。細い目。緩んだ口元の奥に見える白い歯。穏やかな表情なのに、とても恐ろしく見えた。
そんな男と正面から対峙するリオン。表情を歪め、左足をゆっくりと踏み出す。覚悟を決めるしかない。戦う覚悟を。
――刹那。無数の足音が響く。橋を駆けるその足音に、フォンは叫ぶ。
「リオン!」
「コイツは俺が――」
「いえ! 彼は私が相手をします!
フォンさん! リオンさん! 二人で、向こうから来る人をお願いします!」
突如、声をあげるクレア。その声に、「へぇーっ」とリングは顔を彼女へと向ける。先程までと違う冷めた目。冷たく、殺意の込められたその眼差しにクレアは僅かに右足を引く。
「キミが、僕の相手? ふふっ。言っとくけど、女だからって容赦しないよ」
冷ややかな声。そして、向けられる剣の切っ先。その刃が不気味に輝く。
額から汗が零れ落ちる。深く息を吐き出し、当時を思い出す。自分が暗殺部隊の隊長を務めていた時の感覚を。そうしなければならないと、直感的に分かっていた。
閉じられた瞼。吐き出される息。ゆっくりと、開かれる。冷めた目が。蒼く透き通る瞳が、彼を見据える。その眼差しに彼は静かに笑みを浮かべた。
「へぇーっ……なるほどねぇ。キミが、この中で最も強い。そう言う事か」
「フォンさん。リオンさん。後の事、お任せします」
静かな声に、フォンは頷きリオンを見据える。その視線にリオンも頷き走り出す。二人が橋へと向かったのを、横目で確認。そして、視線をリングへと向ける。冷たい風が吹き抜けた。
刹那。クレアが姿を消す。僅かに土煙を残して。不適に笑みを浮かべるリング。彼が左手で剣を抜く。重い金属音。背中沿うよう左手の剣が真っ直ぐに天を向く。その刃が、クレアの剣を防ぐ。
「ぐっ!」
「早いねぇー。自分より早い奴を見るのは、結構久しぶりかも」
彼が反転し、右手の剣を振り抜く。音も無く飛び退き、刃をかわす。激しく足元へと土煙を巻き上げ。空を切ったリングの刃。太刀風が激しくクレアの桜色の髪を揺らす。
地に左膝を落とす彼女は、表情を歪める。疲労が足を重くしていた。半開きの口から吐き出される荒い呼吸。熱を帯びたその吐息が、冷たい夜の空気に触れ白く染まる。
橋に向かったフォンとリオン。松明を持つ兵士が次々と襲い掛かる。それを、谷へと落とす。なるべくなら傷つけたくない。その気持ちが無意識にそうさせたのだ。
右側にフォン。左側にリオン。息を合わせた様な見事な動き。だが、流石に城に仕えていた兵士達。二人は徐々に押しやられていく。元々アカデミアの生徒だった二人でどうにかできる相手ではなかった。
やがて、二人は囲まれる。橋の上で。背中合わせに立つ。呼吸は乱れ、額から汗が滲む。兵士達の薄ら笑い。奇妙だった。そして、体が震えた。恐怖が迫っていた。重々しい足音に、鉄の擦れる音が混ざって。橋の向こう。闇の中から。
(空気が……重い……)
額から汗を滲ますリオンが、視線を向ける。渦巻く黒いオーラが渦巻く。刺す様なそのオーラに、リオンは奥歯を噛み締める。圧倒的な力を感じていた。
そして、現れる。闇の中から。橋を揺らし、重々しい鎧をぶつけ合い。静かにゆっくりとした足取りで。光沢の良い漆黒の鎧。闇夜でも僅かな光を反射し不気味に輝く。兜の下から覗く青白い顔。狐の様な目が二人を見据え、その腰の剣を静かに抜く。
「くっくっくっ……。お前ら、下がれ。この俺様が直々に死の鉄槌を下す」
不適な笑みを浮かべ、一歩また一歩とゆっくりと足を進める。周囲を囲う兵士達は彼の指示で後ろへと下がった。
背中合わせに立つフォンとリオン。二人は、ゆっくりとその体をその男へと向けた。
足元で木造の橋が軋む。谷の下から吹き抜ける突風。それにより、大きく端は揺れる。だが、誰一人バランスを崩す事無く、ただ揺れが治まるのを待つ。
静かで重々しい空気。その中で息を呑むフォンとリオンは、自然と足を退く。男の放つ殺意と威圧感に。




