第102回 時見の姫
その日、彼女は目を覚ました。
一週間ぶりの起床だった。
眠りに就いた時から大分体重も落ち、薄らと頬もこけた少女は、美しい空色の髪を揺らし、ベッドから立ち上がる。
飲まず食わずだった彼女の足には力が入らず、床に倒れ込んだ。憔悴しきったその顔。唇や肌、髪は潤っている事から、誰かが寝ている彼女をずっと手入れしていたのだけは分かる。
力強い眼の奥には透き通るような空色の瞳。彼女は見据えていた。この先に起こるであろう出来事。
一週間と言う長い眠りの中で見てきた、何十年、何百年もの未来。とても一週間では短すぎ、断片的にしか記憶には残っていない。
それでも、この先、自分が何をしなければ行けないのか、それだけは理解していた。
だからこそ、彼女は這いながらも移動する。
そんな折、部屋がノックされ、
「失礼します」
と、一人の召使がドアを開いた。
そして、第一声に、
「く、クリス様! な、何をなさっているんですか!」
と、声を上げた。当然だ。
床に這い蹲る彼女こそ、ここニルフラント王国のトップであり、最も優れた未来を見る力を持つ時見族のクリスだった。
まだ時見族の純血が多いこの時代でも、群を抜き、彼女の予言は必ず当たる。
「兵を……集めなさい……今すぐ、に……」
掠れた彼女の言葉に、召使は息を呑む。
だが、やがて彼女の言葉の重大性に気付き、
「は、はい! 今、すぐに皆様に連絡します!」
と、部屋を飛び出した。
クリスの兵を集めなさい。それは、これから、ここで戦いが起こる。そうクリスが予言したと言う事だった。
――同時刻。
南の大陸ニルフラント。その王都に、フォン達一行は到着した。
高い外壁に囲まれた長径百キロ程の円形の街。中央は小高くなっており、そこに堂々と城が佇んでいた。
石畳の街路。やけに凝った形の街灯。露店やら何やらで、王都は活気に溢れていた。間近に迫る襲撃など知る由もなく。
そんな活気溢れる街路を一台の馬車がゆっくりと進む。
荷台から身を乗り出すフォンは、そんな町並みに感嘆の声を上げる。
「うおおっ! すげぇー!」
フォンの時代の王都とは全然違う町並みがそこにはあった。
目を輝かせるフォンは、酔い等忘れ興奮気味に両腕を振るう。
銀髪を揺らすメリーナは穏やかに微笑し、フォンを見据えていた。
フォーストでは調子の悪かったカインも、ここに来てからは調子が戻ってきたようで、大分落ち着いていた。
金色の髪を右手で弄りながら、荷台から外を眺めるカインは深く息を吐き目を細めた。
「人が多い……」
「何だ? 人が多いのは嫌いなのか?」
カインの呟きに、フォンは振り返り尋ねる。すると、カインは小さく首を振り、眉間にシワを寄せた。
「ここで、戦いが起きたら、多くの人が死ぬ……」
「んっ? うん……そうだな。でも、何で急にそんな事言うんだ?」
「それは、時期、ココが戦場になるからじゃないか?」
手綱を握る天賦族ブライドは、黒髪を正面を見たままそう答えた。
ブライドの言葉に訝しげな表情を浮かべるフォンは首を傾げ、メリーナは不安そうな眼差しを向ける。
「どう言う事ですか? それって……」
フォンよりも先にメリーナがそう訪ねる。すると、ブライドは鼻から息を吐く。
「それに関しては、俺よりも時見族の彼女に聞くべきだろ」
そう言い、ブライドは街の中心に佇む城を見据えた。
ブライドは何を知っているのかフォン達には分からない。だが、確実にブライドは今後ここで何が起こるのかを知っている。それだけは理解した。
浮かれていたフォンは、気を引き締め息を呑んだ。
真剣な表情で町並みを見据えるフォンは、眉間にシワを寄せる。この平穏な日常を送る人達の生活を、絶対に守らなければならない。
そう強く思っていた。
馬車を走らせる事、二時間。ようやく、目的地である城の前まで到着していた。
遠めから見ても結構な見た目だったが、近くで見ると更に迫力があった。
大きな城門の前に佇み、城を見上げるフォンは、
「ほへぇぇぇ……」
と、間抜けな声を上げる。
そんなフォンの声に、メリーナはクスクスっと笑った。あまりにもフォンの驚き方が面白かったのだ。
馬車から降りたカインは、ボーッと空を見上げていた。そよ風が金色の髪を揺らし、カインは目を細めフォンの方へと顔を向ける。
「この城は、何か嫌だ。何かいる」
「な、何かって……そりゃ、沢山人が居るだろうけど……」
「そうじゃない。何か嫌な感じがする」
険しい表情を浮かべるカインに、フォンは怪訝そうな表情をする。カインは何処か人とは違う感覚をしている。故に、何かを悟っているのかもしれない。
そう考え、フォンは周囲を見回す。特に目立った気配はない。
恐らくフォンには感じない程の僅かな気配をカインは感じ取っているのだ。
訝しげに首を傾げるフォンに、メリーナはトンと背を叩く。
「行きますよ? クリスさんが待ってますから」
「えっ? ああ……うん」
フォンは小さく頷き、足を進める。ブライドはそんなフォンに目を向けた後に、静かにカインを見た。
怪訝そうな眼差しをカインに向けるブライドは、後に空を見上げ腰にぶら下げたボックスに手を掛けた。
「嫌な……感じ、か」
ボソリと呟くブライドは、鼻から息を吐くと瞼を閉じ、フォンとメリーナの後に続いた。
城内は非常に騒然としていた。
物々しい空気が漂い、兵達は武装し殺気立っていた。
その様子にブライドは僅かに表情をしかめる。すぐに理解したのだ。彼らが殺気立っている理由が、この街で近々大きな戦いが起こる事を知らされたからだと。
険しい表情を窺わせるブライドは軽く下唇を噛むと、腰にぶら下げたボックスに右手を添えた。
「急ごう」
低音ボイスでブライドはそう言い、メリーナへと目を向けた。
あまりのブライドの声色に一瞬たじろぐメリーナは、瞳を右往左往とさせ、
「そ、そうですね」
と、慌ただしく歩を進める。
キョトンとした顔のフォンは小さく首を傾げた。その隣では明らかに挙動不審のカインが、鋭い眼光で辺りを見回していた。
何かを警戒しているようにも見えるが、その動きは明らかに怪しく、この殺気立った中では否が応でも目立っていた。そして、それは起きる。
「貴様! さっきから何をしている!」
唐突に怒声が轟き、武装した兵たちがカインを囲う。当然だが、カインの隣にいたフォンも一緒に取り囲まれた。
突然の事に困惑するフォンは、「はぁ? へっ? な、なんだ?」と両手を顔の横まで上げ、周囲を囲う兵たちを見回す。
殺気立った兵達はすでに武器に手を伸ばし、臨戦態勢だった。
先に行ってしまったメリーナとブライドがその事に気付いたのは、すでに人集りが出来た後だった。
「何事でしょうか?」
長い金色の髪を揺らし、振り返るメリーナ。
「些細な諍いだろ」
呆れたように息を吐き、ブライドも振り向く。そして、そこにフォンとカインの二人がいない事に数秒の間を空け気付く。
「あの二人は何処だ?」
「えっ? あっ……ホントですね。どちらに……行かれ……た――」
歯切れの悪いメリーナの視線は、人集りの向こうにいるフォンとカインの二人を捉えた。
「い、いいい、いました! そ、そこに――」
「なっ! まさか、あの人集りはアイツらか……」
呆れたような声を上げたブライドは、右手で頭を抱え肩をガックリと落とした。
その横でアワアワと狼狽するメリーナはどうすればいいのか分からず、右往左往していた。
「全く……何をしているのかと思えば……」
吐息混じりの凛とした声に、ビクッとメリーナの肩が跳ねた。背筋を伸ばし、緊張した様子のメリーナにブライドは気付き、瞬時に声の主へと体を向ける。
「何をしているのですか!」
高らかと響く通るような澄んだ声に、フォンとカインを囲っていた兵達はすぐに体をその声の主へと向け、小さく頭を下げる。
「も、申し上げます! 姫。彼の者は挙動が怪しく――」
一番手前にいた雄々しい兵がそう声を上げると、姫と呼ばれた声の主は、美しい空色の髪を揺らし、
「彼らは私の客人です」
と、力強く口にする。だが、兵士は「しかし――」と、カインにチラリと目をやり、反論しようとするが、それを声の主は許さない。
「この殺気立った空気では、彼の者が挙動不審になるのも致し方ありません。緊張感を持つ事も大切ですが、もう少し冷静な判断をお願いします」
堂々とした声に、兵士は「申し訳ありません」と深々と頭を下げた。
そして、振り返り、右手を軽く上げると、それを合図にフォンとカインを囲っていた兵達は散開した。
呆然とするフォン。その隣では相変わらず挙動不審のカイン。
そして、ブライドは目の前にいる少女にただただ驚愕していた。
「全く……あなたと言う人は……」
「す、すみません……」
「忠告したはずですよ。外に出る際は地味な服装でと……」
「えっ? こ、これが一番地味な服装なんですけど……」
「はぁ……。だから、私のを貸すと言ったのに……」
「い、いえ……クリス様のは、私には胸がキツくて――」
「………何か言いましたか?」
「い、いえっ! な、なんでもないです!」
メリーナが慌てた様子でそう声を上げた。
そんなメリーナが話していた相手――時見の姫、クリス。頬は痩け、薄汚れた衣服に身を包んだ彼女の姿に――
(えぇーっ! 思ってたイメージと違う!)
と、ブライドは衝撃を受けていた。




