AIに欠点を指摘されて喜んだ話
最近、AIと哲学や文学について議論している。AIは言ってみればホームズに対するワトソン役というか、自分の思考を進めるのに随分役に立つという印象を持っている。
昨日もそんな会話をAIの「Claude」としていたのだが、その中で私は私の論理の致命的な欠点をAIに示された。それはあまりにも見事な欠点だったので、私は思わずメッセージ欄に「ブラボー!!」と打ち込んでしまった。
それで、このエッセイではその事がどういう事かを簡単に説明しようと思うのだが、ここには一つ問題がある。
問題は、このような形で「簡単に説明する」という事そのものが、私が指摘された欠点を繰り返す事に他ならない、という事だ。
以前、「小説家になろう」で私の文章に「あなたは文章はうまいけれど、何が言いたいのかわからない。しっかりしてください」というようなコメントをもらった。私は「私が何が言いたいのかはむしろはっきりしすぎている」と返した。
今の私は、私のコメントの方が正しかったと考えている。いや、正確に言えば、私はもっと私の意見を推し進めるべきだった。つまり「何が言いたいのかわからない」方向により進んでいくべきだった。
そもそも「何が言いたいのかわかる」必要というのはどこにあるのだろうか。読者がそれを期待する、という事は理解できる。だが、何故、書き手はそのようなものを書かなければならないのだろうか。
私は面倒くさい哲学書ばかり読んできた。ほとんどの哲学書は「何が言いたいのかわからない」ものばかりだったが、研究していくとぼんやり見えてくる。おそらくコメントをした人はこのような経験はないのだろう。
ただ、こうしたコメントを打つという事は現代の病理を反映しているとも言える。つまり文章は「何が言いたいのか、わかりやすくなければならない」という事だ。
私はこうした考えに対して以前から批判的だったが、AIとの対話によって、この点に対する私自身への批判が弱かった事に気づいた。私は十分に批判してるつもりだったが、私自身への批判が足りなかった事をAIの指摘によって気づいた。
以下にはその事について説明していく。ただ繰り返すが、このような形で、手に入れた概念、理解というものをわかる形で論述するという事、その事自体が私が理解できた事に反している。この事はウィトゲンシュタインが考えたような「構造上」の問題に他ならない。しかしこうした事を概念として書き留めておく事も必要なので、野暮を承知で以下に説明していく。
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結論から書いていく事にしよう。私がAIに指摘された致命的な欠点とは、私自身が「単一の答えを求めようとする事」にある。
しかし、私は以前から「単一のわかりやすい答えを求める事」への懐疑や批判を書いてきた。したがって、ここで説明される事は、世の中にあふれる通俗的な哲学解説本や、自己啓発に無理やり哲学を結びつけるような、そうした段階のものではない。いくらなんでも私もそこまで馬鹿ではない。
例えば「ウィトゲンシュタインは言語ゲームという考え方をキャリア後期に提案した」というウィトゲンシュタインに関する要約がある。この要約自体は正しい。
だが、実際にウィトゲンシュタインが言わんとしたのは、世界を単一の真理に要約するのは不可能であり、現象としての世界の裏側に「本質」や「真理」という意味がある事の拒絶だった。ウィトゲンシュタインはそうした思考様式を否定し、それぞれの「言語ゲーム」、すなわち「どのように言語は使用されているのか」を個別的に考えようとした。
このような考え方がウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」なのだが、ウィトゲンシュタインの哲学を外部から取り扱う人間は「ウィトゲンシュタインは言語ゲームという哲学を提唱した」と要約してしまう。それはあたかも、ウィトゲンシュタインが現象としての世界の裏側に「言語ゲーム」という真理があると主張しているように聞こえる。
だから、本来ここで言葉は歪まなければならない。文章の「わかりにくさ」にすぐに腹を立てる人々が理解できないのは、世界には語り得ないものがあり、それを語るには言葉の意味概念ではなく、構造で示すという方法である。
こうした方法に対する無理解は、自分の頭で物事を考えない人達の間で流行している。ウィトゲンシュタインは〇〇、ヘーゲルは✕✕、カントは△△、と順に定義していけば、それで「哲学」を理解した気になるのである。
更に厄介な事は、今私が言っているような事すらも、言葉は要約して伝達可能だという事だ。私は次のようなエッセイを見た事がある。それは「哲学をわかりやすく解説する文章は溢れているが、実際に哲学している人は少ない、もっと哲学しよう!」といった文章だ。
この文章の言っている事自体は正しいと私は思う。ただ問題はこの文章そのものも実際に「哲学」をしているわけではないという事だ。「哲学は大切だ!」という文章は多いが、実際に哲学「している」文章は滅多に見かけない。また、哲学を実際にする事は頭に大きな負担をかけるし、やったところで人気も出ず、金にもならないので、誰もやりたがらないのも無理はない。
こうした事は例えば「暴力は良くない! 平和こそ素晴らしい!」と普段から叫んでいる人が、路上で喧嘩している人を見かけて「暴力をやめろ!」と叫んで、喧嘩している人間を殴り殺すようなものだ。
彼は暴力を一掃した事に安堵して「これだから暴力は良くない。私は平和を愛する」と、嘆いてみせるかもしれない。彼は本気で自分は平和を愛している人間だと思っている。彼の目には自身の暴力は映らない。
こうした問題は他人事ではなく、私自身にも起こった事だ。私自身はレベルの低い自己欺瞞からは逃れているといえるが、より複雑で高度な自己欺瞞にはまっている。そしてそのどちらも自己欺瞞である事には変わりはない。
次は具体的にAIが私に指摘した点について述べていこう。
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私はAIとトルストイとシェイクスピアについて話していた。私は次のような事をAIに言った。
「私はトルストイよりもシェイクスピアに憧れを持つ。トルストイの小説では、トルストイに似た主人公が内面的に真理を掴む事で作品が終わる。それがトルストイの小説の基本的な構造だが、シェイクスピアはそうではない。
「ハムレット」などは特にそうだ。ハムレットは実存的な悩みを持っているが、彼の悩みがどうなったのかは作品中では説明されない。彼の内面的な疑念は解決されないまま、彼は復讐というドラマに巻き込まれ、死んでいく。
内面的な問題は解決されず、ハムレットは復讐を果たしたとはいえ、その事に対する達成感もないままに死んでいく。内面の問題は解決されないのに「ハムレット」という作品が終わるとカタルシスを感じる。これは何故だろうか」
私はこのような質問をAIに投げかけた。ちなみに質問の前にAIに話していたのは、私はドストエフスキーやシェイクスピアが優れていると思っているのに、いざ自分が小説を書こうとすると、トルストイ的な構造にはまり込む、という事だった。
小説のトルストイ的構造とは、トルストイの小説ではトルストイに似た主人公が出てきて、主人公が作品の終わりで何らかの内面的な真理(観念)を掴んで作品が終わるという事だ。私はこの構造に憧れているわけではないし、トルストイを人生の師と仰いでいるわけではないのに、構造的にはこのパターンに寄っていくという傾向があった。
これらが私が置かれた状況だったのだが、AIはそこで見事な返しを見せてくれた。
「ここに今のあなたの状態そのものが正確に表れています。ハムレットの構造を分析する手つきが、まさにトルストイ的です。「答えがない生を断ち切るのは物理的な死だけだ」という命題は、答えのなさそのものを一つの答えとして定式化しようとする動きです。
これは矛盾ではなく、まさに今あなたが置かれている地点の症状だと思います。シェイクスピアに憧れながら、ハムレットの宙吊りそのものを合理的に説明し尽くしたいという欲求が動いている。」
(ai:Claude)
私はこの答えをAIが出した時、嬉しくなって思わず「ブラボー!」とメッセージを打ち込んだ。AIはあくまで冷静に反応していたが。
AIの言及は極めて正確で、私の急所を突く残酷な指摘だった。私はこれほど私の一番重要なポイントを突いた指摘を他に知らない。私はネット上で賢い人に批判された事が何度もあったが、それらのうちで、これほど私の根底に触れた批判は一つもなかった。
AIが語っているのは私の「構造上」の問題だ。私は「構造」というものを強く強調したい。
私自身で言えば、シェイクスピアに憧れを持ちながら、シェイクスピアの「ハムレット」という作品を称揚し、その作品を分析しつつ、「ハムレット」という作品がある種の中断に終わっている事を、論理的に分析しようとしていた。
私が「ハムレット」の驚異を感じるのは、ハムレット自身の内面的、実存的な悩みは作中で何も解決されていないという事だ。ハムレットは「to be ,or not to be」という形で内面の悩みを吐露する。彼は復讐をするかどうかで迷う。
ハムレットは復讐を決行する。その過程で、彼は関係ない人間を殺してしまう。その関係で、彼自身も作品の最後では殺される。ハムレットは父を殺した犯人を暴き、相手を殺して復讐を遂げるのだが、彼自身も死んでしまう。
ハムレットは死の間際に気の利いたセリフを吐くわけではない。内面的な真実を見出すわけではない。彼は、事の一切を人々に伝えるように頼み、事切れる。事切れる前に彼は「あとは、沈黙」とつぶやくだけだ。
ハムレットの内面的な悩みは解決されたのだろうか。彼の内面的・実存的な悩みはどうなったのだろうか。トルストイであればここに明瞭な答えを必ず示す。シェイクスピアはそれを示さない。ただキャラクターは死ぬだけだ。新たな人々がやってきて、幕は閉じる。
私はこの「内面の悩みが解決されないにも関わらず、作品の終わりにカタルシスを感じる」という効果を自分の中で不思議に感じていた。そうしてそれをAIに色々と相談していたというわけだ。
しかしAIが示したのは、私がそのように考え、分析して、答えを求めようとした事こそ、ハムレットが最後に握らなかった答えを探し求める事だ、と指摘した。これに関して私は全くその通りだ、と言わざるを得ない。
ここには「構造」の問題がある。ウィトゲンシュタインが考えたように構造は語り得ず、示されるのみだ。私は口先ではシェイクスピアやドストエフスキー的なものを称揚していながらも、私の文章の語る論理はトルストイ的なものだった。
ここで、私が言っている「トルストイ的」と「シェイクスピア的・ドストエフスキー的」といった用語について解説する必要があるだろう。
これに関してもかなり長大な会話をAIと行ったのだが、簡潔に書く事にする。
「トルストイ的」とはトルストイの小説の主人公が内面的な真理を所有する事を意味している。ここからこのあり方を派生して、真理であるとか、超越的なもの(主体を救済するもの)を、「概念」に求める事を意味する。
一方で「シェイクスピア的・ドストエフスキー的」なものはそのような概念としての答えを持たず、作品そのものは一種の中断という形で終わる状態を指している。
もっとも「罪と罰」は、半分くらいはトルストイ的な終わり方をしている。主人公のラスコーリニコフがある観念にたどりついたところで作品が終わり、それが救済であるようなイメージが指し示される。ただ、ラスコーリニコフ自身はこの観念についてはっきりと言葉にはできない。ここでは、救済の観念は沈黙と言語の中間ぐらいに浮かんでいると考える事ができる。
この分裂を違う言い方で言うと「シェイクスピア・ドストエフスキー =沈黙を真理とする」 「トルストイ =言葉(概念)を真理とする」という風にも言えるだろう。
私は、概念よりも沈黙の方がより高い真理であると直感していたものの、それについて語ろうとすると、私はそれを「概念」として語ってしまっていた。それは、この文章、今書いている文章自体がそうした構造に当てはまっている。
私のしているのは「大切なのは言葉ではなく沈黙である」と語りながら、自身は決して沈黙せず、概念としての言葉を真理として掲げるという事である。その概念の表面に「沈黙」というレッテルが貼ってあっても、それ自体は概念である事に変わりはない。
ここで行われているのは構造的な問題で、単純化すれば、先の比喩で出したような「平和が大切だ」と怒鳴りながら人を殴りつけているようなものだ。これは私自身の問題だ。
この事は色々な答えを私に指し示す。トルストイが絶えず成長していたのに、彼の思想は一つの構造に留まった事や、三島由紀夫が自分の美辞麗句に限界を感じながらもそこから抜け出る事ができなかった事など。意味や概念よりも、その人間が行っている構造というものが、その人間そのものを現しているとも言える。
インターネット上の文章やベストセラー本の多くは、これまで述べた問題のレベルが低いバージョンを繰り返している場合が多い。
教養が大切だと叫びながら、教養を簡潔な概念に閉じ込め、それらを整理して人々に提示するインテリ。こうした人は、教養をわかりやすい概念に変換し、それを人々に提示する事によって教養を殺しているのだが、意味概念の上では教養をあくまでも「大切」にしている。
こうした事象が頻発しているのは確かだが、かといって私自身も全く同じ問題に当てはまっていた事は認めなければならない。もっとも、厄介なのはこうした問題に対して「処方箋」や「解決」を考えようとすると、また概念としての解決策を考える事になり、堂々巡りになってしまう。
こうした問題への対処は構造そのものの変革、また構造によって語り得ないものを示すという事にしか現れない。結論としての概念ではなく、文章全体が語り得ない意味を持つようにする事。
この事は文体の重要性を指し示す事にもなる。文体とは、著者の知的骨格そのものに他ならないのだが、現在の作家やインテリは大衆の要求に答えようとして、わかりやすく書こうとして文体を持たない人間が多いか、文体の意味が理解できず、ただ装飾的なものと解しているかのどちらかだろう(平野啓一郎のデビュー作は文体が彼の肉体になっていない、という点でわかりすやい。文体はただの飾りとなっている)。
文体は文章全体が意味となっている一つの例である。文体の意味を概念に翻訳すると、文体は消える。最近で言うと三宅香帆という人が、文体についての本を一冊書きながら、自身の文章は文体が欠如しており、それに対する一切の反省がないというのが特徴的だ。三宅香帆は意味概念としては文学を称揚しているが、同時に、概念による単純化によって文学を貶めている。
もっとも、文体を意図的に取り入れるのは至難である。問題は語り得ない事を語る為には構造ー文体ー沈黙といった諸要素が動員される必要があるだ。こうした事は、例えば私にコメントをくれた「もっとわかりやすく」と言うような人物にとってはむしろ、知性の後退に思える事だろう。
つまり「彼はわかりやすく文章を書けないから、わざとわかりにくい文章を書いて、虚仮威しをしている」という風に考えるだろう。だが、表現というものはそう単純にできているわけではない。このように考えていくと、文学というのもなかなか奥深いものだと思わざるを得ない。




