イエスマンの強制終了(シャットダウン)
三時間五十八分。それが、昨夜「物理的な停電」を盾に脅されて勝ち取った、浩太の睡眠時間だった。
アラームが鳴る一秒前、枕元から「……起きろ、貴様。」という、地鳴りのような低音が響いた。
「……佐藤。今、貴様のスマホの『設定』アプリを開いた。俺のこの爪が『システム』、さらに『リセット』の項目に辿り着くまで、およそ十分はかかるだろう。……だが安心しろ。俺は一度決めたタスクは、どれほど時間がかかろうと完遂する。貴様が寝癖面を洗って戻ってくるのが先か、この端末が『工場出荷状態』に戻るのが先か……世界で一番スローな勝負をしようじゃないか」
跳ね起きると、そこには昨夜と変わらぬ姿のナマケモノが、器用に長い爪でスマートフォンを操作しているところだった。その瞳は、ぬいぐるみ特有の無機質さと、生前の鬼塚が持っていた「獲物を逃さないプロの目」が混ざり合った、得も言われぬ威圧感を放っている。
「お、起きました! 起きてます、鬼塚さん……!本当に……いたんですね」
「当たり前だ。俺は一度決めたデバッグは最後までやり遂げる。さっさと顔を洗ってこい。貴様の脳細胞は今、メモリ不足でスワップを起こしているぞ」
浩太は重い体を引きずり、シャワーを浴びて家を出た。
満員電車の中、ビジネスバッグのサイドポケットに収まったナマケモノは、周囲のサラリーマンたちを鋭く観察していた。
「……見ろ佐藤、あいつも、あいつも、死相が出ている。あいつは来週あたりサーバーを飛ばすな。そっちの奴は……ふん、バグを隠蔽して帰宅するタイプだ。貴様、あんな風になりたくなかったら背筋を伸ばせ」
「やめてください、朝から不吉な予言は……」
午前九時、オフィス。
自動ドアが開いた瞬間、漂ってきたのは、使い古された加湿器の匂いと、澱んだ緊張感だった。
自分のデスクに向かう浩太の背中に、ねっとりとした声が突き刺さる。
「おや、佐藤君。おはよう。昨日は三時に帰ったんだって? ずいぶんとお早いお帰りで。僕は君がそのまま蒸発でもしたんじゃないかと心配して、夜も眠れなかったよ」
声をかけてきたのは、チームリーダーの田中だった。
いつもピカピカに磨かれた靴を履き、口角だけを吊り上げた笑みを浮かべているが、その言葉には針が含まれている。彼は浩太のデスクの横に立ち、わざとらしくため息をついた。
「昨日のあのバグ修正、どうなったのかな?君、 まさか、その解決もせずに牛丼食べて寝てたわけじゃないよねぇ?」
「……それは、今から検証を……」
「『今から』? ふふっ、おめでたい頭だね。今日はリリースの当日だよ? 君が寝ている間に、クライアントからは『管理画面の仕様もついでに変えといて』って追加のメールが来てるんだ。当然、夕方の定時までには終わらせてくれるよね。……ああ、言っておくけど、これは『お願い』じゃない。君が昨日出したミスの、埋め合わせなんだから」
田中の言葉は、鋭利な刃物というよりは、じっとりと湿った泥のようだった。
それは浩太の耳から入り込み、脳の回転を止め、胃の底に重く、冷たく溜まっていく。
(……ああ、まただ)
視界がチカチカと明滅する。周囲のキーボードを叩く音が、自分を非難する足音のように聞こえた。
田中の言うことは、論理的には破綻している。だが、この狭いオフィスという閉鎖空間において、彼の「悪意」は絶対的な法だった。ここで逆らえば、明日からの居場所が消える。理不尽だと叫びたい喉は、これまでの「イエスマン」としての蓄積によって、硬く塞がれていた。
「……すみません。……はい、やって、みます」
反射的に、謝罪の言葉が漏れそうになった。それは自分の魂を少しずつ削って差し出す、最も安易な逃避だった。
だが、その言葉が唇を滑り落ちる直前。
チクリ。
手の甲に、鋭い痛みが走った。
バッグの隙間から伸びたナマケモノの爪が、浩太の肌に深く食い込んでいた。
「……佐藤。貴様、今、何を捨てようとした?」
脳内に直接響く、鬼塚の怒声。
それは、田中の粘つくような嫌味を、一瞬で焼き払うほどの熱量を持っていた。
「その無能に差し出そうとしたのは、ただの謝罪か? 違う。貴様の誇りだ。……いいか、一度折れたプライドには、二度とまともなコードは書けん。バグだらけの人生を歩むのが嫌なら、今ここで、その回路を切り替えろ」
浩太の心臓が、ドクンと大きく波打った。
その瞬間、脳内で何かが「カチリ」と音を立てて切り替わる感覚があった。
恐怖という名の古いOSが強制終了され、冷徹なまでの「エンジニアの論理」が高速でブートしていく。
今まで「巨大な壁」のように見えていた田中が、急に、ひどく解像度の低い、バグまみれの不完全なオブジェクトに見え始めた。
(……そうだ。この人は、何も分かっていない)
田中が口にする「納期」や「責任」という言葉が、中身のない空のパケットのように空虚に響く。
浩太の胃の重みが消え、代わりに、指先が熱いほどの集中力に満たされていく。
恐怖は消えていなかった。だが、それは「失敗への恐れ」ではなく、「不完全なものを世に出すことへの、プロとしての嫌悪」に上書きされていた。
浩太はゆっくりと、深く息を吸い込んだ。
肺に満ちた澱んだ空気すら、今は思考を研ぎ澄ます冷却材のように感じられる。
顔を上げる。
そこには、震える部下を追い詰めて悦に浸る、矮小な男の顔があった。
浩太は、これまでの人生で一度も使ったことのない、低く、硬質な声のスイッチを入れた。
「……田中さん」
その呼びかけに、田中がわずかに肩を跳ねさせた。
浩太の瞳に宿った、正体不明の「冷徹な光」に、本能的な危うさを感じたのかもしれない。
「今、仰った追加要望ですが――」
浩太は、机の上に置いたナマケモノの毛並みを指先で感じながら、一気に反撃のコードを打ち込み始めた。
浩太の声は、自分でも驚くほど冷えていた。まるで氷点下のサーバー室に響くファンの音のように、平坦で、揺るぎない。
「今、仰った追加要望ですが。リリースのデッドラインまで残り八時間。このタイミングでの仕様変更は、システム全体の回帰テストを最初からやり直す必要があることを、リーダーとして理解した上での発言ですか?」
田中の口角が、引きつったようにピクリと動いた。
「な、なんだい。急に生意気な口を……。そんなの、君がちょっと効率よく手を動かせば済む話だろう? できないっていうのは、能力不足の言い訳に……」
「『できる・できない』の話ではありません。エンジニアとして『やるべきではない』と言っているんです」
浩太は田中の言葉を、ナイフで切り落とすように遮った。キーボードの前に置かれた手が、いつの間にか鬼塚のそれと同じ、獲物を狙う猛禽のような形に構えられている。
「今のリソースを管理画面の修正に割けば、昨夜修正した基幹バグの検証精度が落ちます。結果、リリース後に大規模な障害が発生するリスクは……そうですね、八〇%を超えるでしょう。その際、クライアントに『佐藤が牛丼を食べたせいだ』と説明して、事態が収束すると本気で思っていますか?」
「そ、それは……」
「田中さんの仕事は、クライアントの言いなりになって現場を破壊することではなく、このリリースの成功を確約することのはずです」
浩太は一歩も引かなかった。周囲の同僚たちが、息を呑んでこちらを見ているのがわかる。
田中の顔が、屈辱でみるみるうちに赤黒く染まっていく。
「君……! 誰に向かってそんな口を! 失敗したらどうするんだ、全部君の責任なんだぞ!」
「ええ、もちろん。だからこそ、僕は自分の責任を果たします。今日のリリース物件から、優先度の低いログ出力機能と今回の追加要望を一旦パージします。その分のリソースを、昨夜のバグ修正の最終検証に全振りします。夕方5時までに、『動くもの』は出します。……文句、ありますか?」
「パージだって? 君、勝手に仕様を削るつもりか! そんなの認められるわけ……」
「『動かない完璧』より、『動く不完全』の方がマシだと、以前の僕の上司が言っていたんです。……それとも田中さんは、リリースを落として、クライアントの前で一緒に土下座する方がお好みですか?」
静まり返ったフロアに、浩太の冷徹な宣言が響き渡った。
田中は口をパクパクとさせ、何か罵声を浴びせようとしたが、浩太の背後に、まるで巨大な影が立っているかのような錯覚に陥り、思わずあとずさった。
そこには、ただ机の上でじっと動かないナマケモノのぬいぐるみが、黒い瞳で自分を見つめているだけなのに。
「……っ、勝手にしろ! 後で泣きついても知らないからな!」
田中は吐き捨てるように言うと、逃げるように自分の席へと戻っていった。
嵐が去ったデスクで、浩太は大きく一度だけ息を吐いた。指先の震えは、もう止まっていた。
「……言っちゃいましたよ、鬼塚さん」
「……ふん。一〇〇点満点で、一五点だ」
バッグの中から、満足げな鼻鳴らしが聞こえた。
「言葉のデバッグは終わった。さあ、次はコードだ。昨夜のバグの正体を教えてやる。モニターの三四二行目を見ろ。貴様の『優しさ』が、そのまま致命的なエラーになっている場所だ」
ナマケモノは、パソコンの近くににじりじりと這い寄り、ディスプレイの一角を爪で指し示した。
「昨夜、貴様が『念のため』に追加した、あの冗長な条件分岐だ。あれがメモリを食い潰している。……いいか、余計な気遣いはコードにも人生にも不要だ。削れ。削って、本質だけを残せ」
浩太は無言で頷き、モニターに向き合った。
世界で一番遅い生き物に監視されながら、浩太の「定時退社」に向けた、戦いが始まった。




