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深夜三時の奇跡と、リアルすぎるナマケモノ

初投稿作品です。よろしくお願いします。

 IT業界には「深夜三時の奇跡」という、少し切ない都市伝説がある。

 極限まで疲労が溜まった午前三時、ふとモニターから目を離すと、バグが消えていたり、死んだはずのエンジニアが背後でコードを直してくれていたりするという、一種の職業病が見せる幻覚の話だ。


「……はは、僕のところにも、ついに来たか」

 

 佐藤浩太(二十六歳)は、乾いた笑いを漏らした。

 誰もいないフロア。エアコンの稼働音だけが虚しく響く中、浩太のデスクの横で、何かがガサリと音を立てた。

 

 視線を向けると、そこには先日、実家の母が「あんた、これに似てるわよ」と送ってきた、リアルすぎるナマケモノのぬいぐるみキーホルダーがあった。ビジネスバッグの横で揺れているはずのそれが、今、ゆっくりと首をこちらへ向けていた。


「……おい、佐藤。貴様、今の時刻が読み上げられないほど脳が腐ったか?」

 

 その声を聞いた瞬間、浩太の背筋に氷水が流れた。

 野太く、地鳴りのような低音。鼓膜を震わせる独特の威圧感。

 それは、三年前の新人研修で、泣き出す新入社員を「涙を流す暇があるならコードを流せ!」と一喝した伝説の男――鬼塚勝也のそれだった。

 鬼塚は、浩太を一人前のエンジニアに叩き込んでくれた恩人であり、そして半年前に過労による心不全でこの世を去った、かつての「鬼上司」だ。


「え、あ……お、鬼塚さん……? なんで……?」

「死神に連れて行かれる途中で、貴様の醜態が見えたんだよ。貴様、そのコード、何時間弄っている?」

 

 キーホルダーのナマケモノが、短い手足でもぞもぞとカバンから這い出し、デスクの上に這い上がってきた。つぶらな瞳、毛足の長い茶色の体。見た目はどう見ても愛らしいぬいぐるみだが、口調は生前の鬼塚そのものだ。


「えっと……昨日の朝から、ずっと……。でも、これ明日のリリース用なんです! 今夜中に直さないと、クライアントに殺される……!」

「殺される? 笑わせるな! 貴様が今死んだら、そのクライアントは次の奴を代わりにするだけだ。だがな、佐藤……俺はもう、部下が葬式に出るのを見たくないんだよ」

 

 ナマケモノの短い爪が、カチリ、とキーボードの『ESC』キーを叩いた。


「お、鬼塚さん、何するんですか! やめて、それまだ保存して……!」

「黙れッ! この三時間の貴様のタイピングミス率は三〇%を超えている。効率の悪い労働は、もはや罪悪だ。……いいか佐藤、今の俺はあの世の『働き方改革推進委員会』の回し者だ。二十四時以降に働く奴を見かけたら、強制的にシャットダウンさせる権利があるんだよ」

「そんなバカな……! それに、なんでナマケモノなんですか!」

 

 浩太が叫ぶと、ナマケモノ(鬼塚)はデスクの上で大あくびをしてみせた。


「……これがあの世のルールだ。現世で『馬車馬のように働いた』人間は、次のステージでは『もっとも働かない動物』に転生して、一から休むことを学ばされるらしい。……ああ、喋るだけでエネルギーを使い果たした。五分後に、このフロアの電源を物理的に落とすぞ」

「物理的に!? ちょっと待って、せめて保存だけ――」

「あと、四分三十秒……」

 

 ナマケモノが、じりじりと電源ボタンに向かって進んでいく。その速度は驚くほど遅いのだが、浩太にはそれが死神の鎌が迫るよりも恐ろしい光景に見えた。


「わ、わかりました! 帰ります、帰りますから!」


 浩太は半泣きでファイルを保存し、震える手でパソコンをシャットダウンした。

 カバンをひっ掴み、ナマケモノを強引にポケットに押し込んで、逃げるようにエレベーターに飛び込む。

 午前三時過ぎ。オフィスビルの外に出ると、ひんやりとした夜風が頬を打った。

 街灯の下、ポケットの中のナマケモノが、小さく鼻を鳴らした。


「……佐藤。帰りに牛めしでも食え。そして、四時間は寝ろ。それ以上起きていたら、明日の朝、貴様のスマホのデータを全部吹き飛ばすぞ」

「それ、守護霊のセリフじゃないですよ……」

 

 浩太は力なく笑った。

 半年ぶりに聞いた鬼塚の怒声。怖くて、理不尽で、でも――誰よりも自分を心配してくれていた、あの温度。

 浩太は、数年ぶりに「定時(を大幅に過ぎたけれど)」で仕事を終えた解放感に包まれながら、駅前の牛屋へと足を向けた。


牛屋の自動ドアが開くと、牛丼のたれと紅生姜の混ざった、暴力的なまでに食欲をそそる香りが鼻を突いた。

 深夜三時の店内は、深夜作業明けと思われる作業服の男と、始発を待つのか机に突っ伏して眠る若者が一人いるだけで、静まり返っている。

 浩太は券売機で「牛めし・並」のボタンを押し、一番端のカウンター席に腰を下ろした。


「……おい、佐藤。貴様、なぜ『並』だ。そこは大盛りに半熟卵だろうが。栄養の計算もできんのか」

 

 ビジネスバッグのポケットから、くぐもった、しかし威圧感たっぷりの声が響く。浩太は周囲を気にしながら、慌ててナマケモノを机の上に引っ張り出した。

 蛍光灯の白い光に照らされると、そのぬいぐるみ感はいっそう際立つ。毛足の長い茶色の体、とぼけたような目元。それが、机に爪を立てて「シャキッ」と(動きは極限まで遅いが)背筋を伸ばしている姿は、あまりにもシュールだった。


「そんなに食べられませんよ……胃が受け付けないんです」

「貴様の胃が甘えているだけだ。……いいか、食うことは生きることだ。生きることは、明日のコードを打つためのマシンスペックを維持することに他ならん。食え、死ぬ気で食え」

「死なないために食えって言ったり、死ぬ気で食えって言ったり……鬼塚さん、矛盾してますよ」

 

 浩太が力なく笑うと、店員がどんぶりを運んできた。

 店員は、机の上に置かれた「やけにリアルなナマケモノのぬいぐるみ」を一瞬二度見したが、極限の深夜労働に従事する者同士の暗黙の了解か、何も言わずに去っていった。


「ほら、来たぞ。まずは紅生姜を山盛りにしろ。血液を循環させろ」

「……はいはい」

 

 浩太が言われるがままに紅生姜を盛っていると、ナマケモノがじりじりと、本当に一ミリずつ、どんぶりの縁に爪をかけた。


「……鬼塚さん? まさか食べたいんですか?」

「馬鹿を言え。俺のこの今の消化器官は、葉っぱ一枚を消化するのに二週間かかる仕様だ。牛など食ってみろ、俺の転生ライフが即座に詰む。俺はただ、その湯気を吸って『食った気』になっているだけだ」

 

 ナマケモノは、どんぶりから立ち上る湯気に鼻を近づけ、深く、満足そうに息を吸い込んだ。その姿は、かつて徹夜明けに「これがないと一日が終わらん」と言って牛丼をかき込んでいた、生前の鬼塚の姿と重なった。


「……ねえ、鬼塚さん」

「なんだ」

「なんで、僕のところに来たんですか。他にも、もっと優秀な部下はいたじゃないですか。出世した奴とか」

 

 浩太が割り箸を割りながら尋ねると、ナマケモノは動きを止めた。長い沈黙が流れる。ナマケモノの特性上、それが「考えている間」なのか、単に「止まっているだけ」なのか判別がつかない。

 やがて、鬼塚ナマケモノはゆっくりと瞬きをした。


「……あいつらは、放っておいても勝手に生き残る。だが貴様は、放っておくと勝手に消えそうだからだ。バグだらけの人生を、デバッグもせずに強制終了させるような真似は、俺が許さん」

 

 その声は、今までで一番低く、そして静かだった。

 浩太は何も言えず、熱い牛めしを口に運んだ。甘辛いタレの味が、痺れた脳にじわじわと染み渡っていく。

 

「……よし。食ったら即座に帰宅し、泥のように眠れ。いいか、佐藤。四時間だ。四時間以内に起床してログインしてみろ。貴様の家のブレーカーを、俺がこの爪で『物理的に』落としてやるからな」

「……ナマケモノの足で、うちの壁を登るつもりですか?」

「三時間はかかるだろうな。だが、俺の意志の力(殺意)を舐めるなよ」

 

 浩太は小さく吹き出した。

 深夜三時半。世界で一番スローな守護霊をポケットにねじ込み、浩太は店を出た。

 明日も、仕事はある。バグも消えてはいないだろう。

 けれど、自分の背中には(ぬいぐるみサイズの)鬼の重みがある。

 

「……明日は、定時で上がれるかな」

「……貴様が上げるんだよ、ボケ」

 

 夜明け前の東京。眠らない街の片隅で、一人と一匹の奇妙な共生生活が始まった。


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