残花の香り 5
城門から配下の者が次々と飛び出していく。
源太が馬の手綱を引きながら門前まで来たとき、不意に何者かに袖を引かれた。
振り返るとそこには、俯いたままぎゅっと己の袖を掴む香織がいた。
「置いて、いかれるのですね」
潤んだ声で、香織は消え入りそうに問う。
源太は僅か、苛立った。
これから死花を咲かそうという男を引き留める女がどこにいるだろうか。武士の妻として、恥ずべき行為である。このようなことをされては、臣下の者に示しがつかない。
源太は黙したまま、無理にその手を引き剥がそうとした。
しかし、想像以上にその手は強く握られており、容易に離れようとしない。
香織は、伏せていた顔をこちらに向けると、源太を睨みつけた。
「あなたが置いて行かれるのは、私だけではありません」
鋭く言い放つと、香織は視線を自らの下腹に落とし、そこを優しく撫で下ろした。
「……まさか」
「あなた様のお子にございます」
それを聞いた源太は深い長い溜息を吐くと、星空を見上げた。
「すまぬ」
それ以上に発する言葉が見当たらなかった。
宿った直後に消える命を現世に残していく。天を仰いだ源太は、僅かの間、我が子が生まれる未来を思い描いてしまった。
「なぜ、これまで黙っていた」
「迷っていたのです。死地に赴かれるあなた様に、お伝えするかどうか」
「それでも、告げた」
香織の顔に視線を移すと、そこには曇りのない真っすぐな瞳があった。
「最期になるからこそ、お伝えせねばと思いました。この子の為にも」
香織は再び下腹部を撫でると、みるみる顔を歪めて絞り出すような声で続けた。
「生きて……。どうか、生き永らえてください。お願いです。一国の主としてでなく、父として。そしてこの子を抱いてやってほしいのです」
そう言うと、香織は握っていた源太の袖を離さぬまま、膝から崩れ落ちるように地べたに蹲って、苦し気に咽び泣いた。
源太はただ、茫然とその姿を眺めていることしかできなかった。
城外では猛り狂った男たちの喚声や、火縄銃が放つ銃声、馬蹄の轟きが鳴り響いていた。
ふと、源太は不思議な感覚に陥った。
城外の音はどこか遠くで起こっている出来事であり、香織と子供の三人で仲睦まじく暮らしていく。それこそがこれから先、当然起こり得る、当たり前のような気がしたのである。
逃げてしまおうか。
源太は、袖に縋りつく手にそっと触れた。
何も兄の復讐を果たし野望を叶えることに力を注ぐことだけが、己の人生ではなかったのではなかろうか。
手綱を握る右手の力を緩めそうになった時である。
耳の奥から、主の声が聞こえた。
「源太、おぬしが継げ」
あの晩の光景が、まざまざと思い出された。
「四十九年、一睡の夢……か」
源太は呟くと、弾かれたように香織の手を振りほどき、陣羽織を翻しながら馬上の人となった。
「必ず、戻る」
源太は静かに言い残すと、未来への誘惑を断ち切って、門外に駆け出していった。




