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残花の香り 4

 新発田城は幾重にも敵勢に包囲され、鼠も這い出る隙間もないように思われた。

 南東に位置する支城の五十公野城も昨日ついに陥落。

 もはや新発田方の城はここを残すのみとなった。


 本丸の天守に集った新発田家の家臣たちは、最期の戦を前に盃を盛り交わしていた。

 源太が呼び集めて、この世に未練を残すまいと宴会を催したのである。

 悲痛な雰囲気は少しもなく、らんらんと血走る眼を家臣のひとりひとりがぎらつかせて、それぞれがこの世との別れを惜しんでいた。


「そもそも景勝は、これまでの殿の武功を軽んじすぎたのだ」


 突然、一人の男が立ち上がると大声で喚いた。

 それに対し周りの者達も、そうだそうだと同意する。


「ほう。わしの武功とは如何なるものだ」


 上座に座る源太は、口元を緩ませて問うた。


「一つは、謙信公に従って関東へ出兵した際、相模の小田原城を囲んで攻めたその帰りのこと。殿は上杉軍のしんがりをお勤めなさった。追い討ちをかけてくる敵に勇敢に立ち向かわれ、見事これを撃退。お味方を越後まで無事に帰還させたことにございます」


 先ほど立ち上がった男とは別の家臣が、顔を真っ赤にさせながら叫んだ。


「うむ」


 源太は大きく頷く。


 謙信は、関東へ幾度か兵を率いて赴いたことがあったが、北条家の本城である小田原城を取り囲んだのは、永禄三年(1560)十月の一度だけであった。源太が十六の時のことである。

 十万以上ともいわれた越後、関東諸将を率いて、謙信は北条の小田原城を囲んだが、貝のように城に籠った敵を前に、なかなか城を落とすことができないでいた。

 歳も暮れ、翌永禄四年(1561)春になると、北条と同盟を結んでいた甲斐の武田が、越後との国境近くにまで兵を進めているという報が関東に滞在する上杉軍の元にまで届いた。

 諸将の諫めもあり、謙信は軍を退くことを決意。

 その時、しんがりを名乗り出たのが源太であった。


「若輩者が。控えよ」


 謙信はこれを窘めたが、


「然らば暇を賜り、(それがし)が北条の兵を率いて、主君の兵を背後より破ってみせまする」


 源太は食い下がった。

 謙信は呆れて苦笑いを浮かべると、源太にしんがりを任せることにしたのである。

 源太は、その役目を全うし、敵に反撃の余地を与えなかった。

 このことはいまでも、新発田家の家臣たちの間で、語り草となっているのである。


 ちびりと盃を舐めながら初陣に思いを馳せていると、別の誰かが声を荒らげながら立ち上がった。


「もう一つは、信州川中島、甲斐の武田との激戦の折のことにございます。武田の重臣、諸角(もろずみ)豊後守(ぶんごのかみ)の首を討ち取ってございます。血が降るような戦場を縦横無尽に駆け回る殿のお姿、今でも目に焼きついておりまする」


 そう言うと、男はぐいと杯を干した。


「うむ」


 源太は、再び頷く。


 あれは、関東から帰陣して間もなくの、永禄四年(1561)九月のことであった。

 武田と雌雄を決っせんと、北信濃へ出陣し善光寺に着陣した上杉軍は、武田が新たに築城した海津城に向けて進軍した。

 しかし、海津城を横目に見ながらさらに南下。すぐ南に位置する妻女山に上杉軍は布陣したのである。

 川中島に遅れて到着した二万あまりの武田軍は、平野を挟んで向かいにある茶臼山に陣を敷いたが、数日後、妻女山に籠る上杉軍を挑発するかのように千曲川を横断すると海津城へと入城を果たす。

 九月十日の早朝、川中島平は十間先も見通せないほどの濃霧に包まれた。

 敵が動くならこの時しかない。

 謙信もそう思ったのだろう。海津城に不穏な動きがあると報告を受けた謙信は、決断を下した。

 妻女山から密かに平野へ降り、海津城から出てくると思われる武田軍を急襲せんと、これを待ち構えたのである。

 やはり、霧の晴れた先に敵はいた。

 敵の数は先日、茶臼山から海津城へと入っていく兵数よりもかなり少ないように見えた。城に残してきたか、あるいは先ほどまで上杉軍が陣取っていた妻女山に奇襲を仕掛けさせたか、であろう。

 どちらにせよ、「風林火山」の武田本陣旗は、風に流されて晴れゆく霧の向こうにあった。

 突撃の合図とともに源太は、駆けに駆けた。

 本陣を守る敵勢を手当たり次第に手槍で貫き、手槍が折れると刀で薙ぎ殺した。戦場は瞬く間に修羅場へと変貌した。


 喉を鳴らし、この世で味わう最後の酒を味わいながら、源太は川中島平に響き渡っていた喚声を脳裏に蘇らせていた。

 あの時の己が、人生の中で最も輝いていた。

 謙信公の下で戦場を思うままに駆け回っていた瞬間が、生きているという実感を味わえた唯一のひと時であった。


「まだありまするぞ」


 甲冑の緒がはち切れんばかりの体躯の男が、床を震わせるような低い声で言い放つ。


「謙信公亡き後、後継者を巡る争いにおいて景勝にお味方した殿は、景虎方についた加地秀綱(かじひでつな)神余親綱(かなまりちかつな)を退けましてございます。それだけにとどまらず、越後国内を脅かそうとしていた蘆名、伊達の軍勢を見事に追い払われたのも殿にございます」


「うむ」


 源太は下唇を噛み締めると、視線を盃に落とした。


 景勝と景虎が越後内外を巻き込んだ上杉家の家督相続争いを繰り広げることになったのは、謙信が世継ぎを定めなかったことが原因である。

 謙信自身もこのようになることを望んでいたのやもしれない。

 どちらに軍配が上がってもおかしくない情勢が二月あまり続いていた。

 しかし、御館に陣取っていた景虎軍が景勝の本拠である春日山の乗っ取りを謀り、軍を起こすも惨敗を喫した。

 旗色を鮮明にしてこなかった揚北地方の五十公野城主、五十公野源太と兄である新発田城主、新発田長敦とが、揃って景勝陣営につくことを決めたのは、この景勝の勝報を聞いてからのことであった。

 それまでに景勝陣営の安田顕元(やすだあきもと)から幾度も誘いを受けていたのだが、二人してのらりくらりと返事を曖昧にしてきていたのである。

 新発田氏は、阿賀野川北岸一帯に割拠していた揚北衆と呼ばれる国人豪族を統括するような存在であった。新発田氏を味方につければ、揚北衆の色部氏や鮎川氏、五十公野氏も景勝に味方してくれるに違いないと安田顕元は考えていたのである。

 景勝だけでなく、景虎も新発田長敦への勧誘に躍起になっていた。

 実際、阿賀北川北岸地域の有力国人のほとんどが、新発田長敦の景勝陣営のへの参入をみて、これに追随した。

 当然、兄に従って源太も景勝側についた。

 しかし、これで形勢が定まったわけではなかった。

 関東北条家の出である景虎は、実家の北条家だけでなく、北条家と同盟関係にあった甲斐の武田家をも味方につけており、越後内乱は泥沼の様相を呈していた。


「まずは神余親綱を攻める」


 兄の意向に沿って、源太は越後内乱の発端を引き起こした張本人ともいうべき神余親綱を難なく破ると、翌年三月、栃尾城の加地秀綱をも降伏せしめた。

 さらに阿賀野川周辺の敵を次々と降すと、源太は御館に籠る景虎を攻めるべく、景勝軍の本隊に加わった。

 源太は景勝軍の先陣に立つと、勇猛果敢に御館へと攻め寄せ、景虎を窮地に陥れたのである。

 上杉家家督相続の内乱において、源太の活躍は計り知れないほど景勝を優位に立たせることになったのである。

 このことは、自他ともに認めるところであるはずであった。


「それにもかかわらず、景勝は殿に新発田家の跡を継ぐことのみを許したのみ。恩賞など一切くれようとはしなかった。これほど理不尽なことはあるまい」


 円座の誰かが言うのに合わせて、周りの者も口々に景勝を罵り始めた。


 内乱後、正当な恩賞を与えられなかったのは源太だけではない。

 景勝方についた毛利秀広(もうりひでひろ)川田軍兵衛(かわだぐんべい)らも恩賞を与えられないことに憤りを示していた。

 彼らを味方に誘った安田顕元は、景勝に対して幾度も恩に報いるよう上申を重ねたが、ついに聞き入れられなかったのである。その後、責任を感じた安田顕元は、腹を切って果てた。

 他にも悲憤のうちに病に倒れ、死んだ者がいた。

 源太の兄、新発田長敦である。


「景勝に味方したこと、後悔しておる。源太。おぬしが新発田の家を継げ。そして、景勝に一矢報いてやるのだ」


 この言葉を最期に、兄は病の床に伏したまま、この世を去った。


 源太は己の耳朶の奥に残る兄の最期の言葉を思い出していた。兄を看取ったのち、生涯はじめての悔し涙を流した。

 景勝、許すまじ。


 兄亡き後、源太は新発田の家を継ぐと、新発田(しばた)因幡守(いなばのかみ)重家(しげいえ)と名乗ることとなったのである。

 そして天正九年(1581)六月、かつて景虎に味方していた国人たちを味方に引き入れ、新潟津を占拠。そこに城を築城すると、景勝に対して謀反を起こしたのである。


 それから六年もの間、新発田家は上杉家から独立し、揚北地域において勢力を保ってきていた。

 源太は、畿内一帯を支配下に置いていた織田信長と手を組み、東西から景勝を挟撃しようとしたこともあった。

 しかし、あと一歩のところまで景勝を追い込んだものの、畿内で事変が起きたことによって形勢は逆転することとなった。本能寺で織田信長が家臣の明智光秀に討たれたのである。

 それまで窮地に立たされていた景勝は再び息を吹き返すと、織田の勢力圏を引き継いだ羽柴秀吉と同盟を結び、勢力を盛り返した。

 これにより、源太は次第に景勝に追い詰められていったのである。

 そして昨日、五十公野城を落とされた新発田勢は、新発田城の兵を残すのみとなった。

 上杉家に対して反旗を翻したことに後悔はなかった。

 今宵が、最期となるだろう。


 源太はすっと立ち上がると、僅かに残っていた盃を干してから床に叩きつけた。

 これに続いて、いくつもの器の割れる音が新発田城に響き渡った。


「出陣じゃ!」


 源太は、あえて多くを語らなった。

 すでに宴の席で互いに心を通じさせることができたと確信したからである。

 それは、居並ぶ者の面を見れば一目瞭然であった。


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