残花の香り 3
「どちらに、つくか」
源太は、隣に侍る女に手酌をさせると、盃の水面に反射した行燈の光を茫と眺めた。
女は香織という。
源太の正室が昨年の暮れに亡くなると、後妻として娶った女だった。
純朴な心和やかな女で、褥でも激しく求めあうようなこともなく、正妻を亡くした己にそっと寄り添ってくれるような女だった。
「あなた様は、すでにお決めになられているのではございませぬか」
香織は、源太の顔を覗き込みながら微笑んだ。
香織の言うように九割方はどちらに味方するか決めていた。
しかし、一割ほど胸内にその決断で本当によいのかと、自問する己もいたのである。
景勝か、景虎か、である。
謙信が急死したのは、天正六年(1578)三月十三日のことであった。
源太と酒を酌み交わした晩から、二月ばかりが経っていた。
その後、謙信は跡継ぎについて明言した様子はない。
このことが、二人の養子による、越後内外を巻き込んだ上杉家家督相続争いを引き起こしたのである。
天正六年三月九日、次なる遠征に向けて戦備を整えていた最中、春日山城内の厠で謙信は突如として意識をなくし、倒れた。そのまま昏睡状態となり、この世を去ったのである。
遺言もなく、突然当主を失った上杉家一同は愕然となった。
跡継ぎが定まっていない、ということである。
実は、謙信が昏睡状態にあるとき、こんなことがあったそうである。
看病していた直江景綱の妻が言うには、後継者について謙信の遺言があった、唸るような声をあげて意識を取り戻したと思われた謙信に、
「跡継ぎは景勝様でございましょうか」
と尋ねたところ、謙信が小さく頷いたというのである。
家臣一同がこのことを聞くと、信じがたい、虚言を申すなと罵る者もいた。
しかし、関東北条家と断交してからというもの、敵国の出である景虎よりかは、縁者の上田長尾家の出である景勝が上杉家を相続する方が尤もである、という者が大多数を占めた。
一時は景勝が家督を継ぎ、景虎がそれに従うかに見えた。
しかし、景虎の嫡男である道満丸を景勝が人質に取ろうとすると、状況は一変。
景虎は春日山の北東一里ばかりにある御館に立て籠り、反旗を翻したのである。
そして、越後国内の国人は、景勝、景虎の両陣営に別れて争うこととなった。
こうした情勢の中、揚北地方と呼ばれる阿賀野川のすぐ北に領土を有していた新発田長敦と五十公野源太は、いまだどちらの陣営に味方するか旗色を鮮明にしていなかったのである。
「あの晩、確かに謙信公は景勝の名を口にしていた」
源太は、盃の水面を揺らしながら呟いた。
「それでは、景勝殿にお味方なされるのですね」
香織の問いに小さく頷いた源太は、しかし、と続ける。
「兄は暫く戦況を窺ってから戦に加わると仰っていた。兄の意向に、己は従うのみよ」
源太は酒をちびりと舐めた。
新発田氏は、阿賀野川北岸一帯に割拠していた揚北衆と呼ばれる国人豪族を統括するような存在であった。
故に新発田長敦は、景勝陣営からも景虎陣営からもひっきりなしに味方に付くように誘われていた。
そして長敦の弟である源太は、兄の挙動に従おうとしていたのである。
「あなた様は、誰かの下で戦働きをすることに嫌気が差しているのではございませんか」
心臓がひとつ、大きく脈打った。
香織にも動揺が伝わったのだろう。香織は伏せた顔に微笑を浮かべていた。
源太は香織に背を向けると、盃を脇に置き、ごろりと横になった。
「いや、謙信公の下での戦は格別だった」
「もうこの世にはいらっしゃりませぬ」
香織は一体、己に何を望んでいるのだろうか。
源太は、視線を上げ香織の顔を覗こうとしたが、死角となりその表情は窺えない。
「己の周りの者が安心して暮らすことができれば、それでよいのだ。わしに野望などはない」
力のある者に従う。
それが己と己の周りの安全を図る術であるし、そうして乱世を渡っていくのは当然であった。
これまでも、謙信が越後において頂点に君臨している限り、それに従っていれば安泰であったのである。
「源太、おぬしが継げ」
謙信公は、そう言った。
上杉の武を継げという意味だと言っていたが、果たしてそれだけだろうか。
景勝、景虎にはない何かを謙信公は持っていたように思われた。
その何かが二人に欠けているということが、源太を景勝につく決断を鈍らせている正体のような気がしていた。
源太は目を閉じると、酔いに任せて眠りの中へと己を誘った。




