残花の香り 2
「四十九年、一睡の夢」
春日山に聳える物見櫓の最上階の間に、主の声は朗々と響いた。
愛用の春日杯を傾けて、謙信は喉仏を上下させる。
まこと、うまそうにお飲みになる。
源太は月明かりを浴びた主を、天界の神でも崇めるかのように眺めていた。
「一期の栄華、一盃の酒」
手の甲で口元をぬぐうと、謙信は溜息と共に零した。
睫毛の長い力の籠った主の瞳は、北海の波が押し寄せる城下の町へと注がれている。
「源太、おぬしが継げ」
「は」
何を継げ、というのだろうか。
主君の意を解せぬまま、肯定とも疑問ともつかぬ返事を返す。
謙信は、こちらを振り返ると、小さく微笑んだ。
まさか家督ではあるまい。
源太は急いで伏せた顔に苦笑いを浮かべながら思案した。
謙信は、妻を娶っていない。そのため、越後上杉家を継ぐべき嫡子がいなかった。
代わりに、二人の養子がいた。謙信の姉、仙桃院の子である上田長尾家から養子に迎えた景勝と、関東北条家との同盟の際、越後に養子としてやってきた北条氏康の七男、景虎である。
謙信は四十九となり、次の上杉家当主を定めてもよい齢にもかかわらず、いまだ家督をどちらの養子に継がせるか明らかにしていなかった。
謙信自身、決めかねているのかもしれない。
継げ、という言葉から跡継ぎのことが連想されたのは、自然なことであった。
源太は、そもそもなぜ春日山に呼ばれたのか見当がついていなかった。
加賀の手取川において織田の軍勢と対峙したのち、越後へ帰還した源太は、突如として謙信に呼びだされたのである。
何か勘気に触れてしまったのではないか。
源太は身に覚えのない不安にさいなまれながら、春日山へ登城した。
しかし、物見櫓で待っていたのは、機嫌よく手酌をする主であった。
源太は盃を手渡され、謙信自らの酌を受けたのである。
「景勝は戦の経験が浅い。それに比べ、源太、おぬしは幼き頃より何者をも恐れぬ気概を持ち、甲斐の武田や相模の北条との戦で、武勇老練の者と肩を並べて先陣に立ってきた」
謙信は、ぐいと杯を傾けてから一息つくと、さらに続けた。
「わし亡き後、上杉の武を継ぐ者は、源太、おぬししかおらぬ」
源太ははっとした。
主君に己の武勇が認められていたことに胸が躍ったのである。
一方、まるで死を目前にしたような物言いに、一抹の不安を覚えた。
「世継ぎは、景勝様に定められたのでございますね」
これまでに上杉家の跡目について明言してこなかった謙信が、いま発した名は、景勝の名であった。
視線を再び城下にやった謙信は、鼻から息を僅かに出して口元を緩めた。
「わし亡きのちの世は、毘沙門天様がお決めになられる。わしには関わりなきことよ」
なんと無責任な。
源太は、思わず口を開きかけたが、すんでのところでぐっと堪える。
謙信の父、長尾為景は、謙信の兄である晴景を跡継ぎとして定めた直後にこの世を去っている。
しかし、晴景は病弱であり意志も希薄で、敵勢力から利用されるだけの君主であったらしい。
その兄に取って代わって戦の才を発揮した謙信が、長尾家の当主となり、越後を統一したのである。
いわば、実力ひとつで今の地位を築き上げたといっても過言ではない。
己亡きのち越後を統べる者は実力をもってして決めるべきである、と主は本気で考えているのではなかろうか。
源太は先ほど謙信から受けた、縁まで満ちている盃に目を落として暫く見つめてから、一息に飲み干した。
月光を背にした謙信が、こちらを見て満足げにほほ笑んだように見えた。




