残花の香り 1
林泉寺は、春日山城から目と鼻の先にある。
「今宵、急用の儀あり。林泉寺へ使者を遣わさねばならぬ」
上杉謙信は、居並ぶ近習を見渡しながら言った。
昨今、林泉寺の大門通りに産女の妖怪が出るという噂が、まことしやかに城内で囁かれていた。
もうすでに日は落ち、あたりは闇に包まれている。
主の命にもかかわらず、近習の誰もが名乗りをあげようとはしなかった。
「某、御使者相勤めまする」
周囲が黙する中、ただ一人大声で名乗りを挙げた者がいた。
五十公野源太治長である。
源太は、妖怪がなんだ、ただの噂にすぎぬではないか、万が一に出てきても恐れるものでもないわ、と鼻白んでいた。
心の内で、主の命と恐怖の念とを天秤にかけている他の近習を蔑みながら、膝を前に進ませた。
新発田綱貞の次男として生まれた源太は、親類にあたる五十公野弘家に嫡子ができなかったため、幼い頃に五十公野家の養子となり、五十公野源太治長と名乗っていた。
十三になる源太は、謙信の近習として春日山に滞在していたのである。
源太に対し謙信は、
「昼間でさえ物の怪を恐れて往来する者がないと聞く。源太、恐れを知らぬその心意気、見事である。おぬしに使者を申し付ける」
林泉寺の住職に宛てた書状を手渡しながら、満足げに告げた。
城下は小雨がしとしとと降り注ぎ、湿った海風が肌にまとわりついた。
雨に濡れるのも気にとめず、源太は軽い足取りで林泉寺へと向かった。
大門に差し掛かった時、見計らったかのように雨がやみ、雲間から三日月が顔を覗かせた。
参道の傍らに咲く菖蒲の清々しい香りが、しっとりとした夜風に乗って漂ってくる。その香りが源太を心地よい気分にさせた。
境内の半ばまできたときである。
ふと前方に視線を向けると、灯篭の脇に一つの人影が浮かび上がっているのが、源太の視界に入った。
一瞬、源太は足を止めた。しかし、恐怖心よりも、この夜更けに参道に佇む者が何者であるかという好奇が心を占めた。
再び足を踏み出し、影の正体を確かめる。
女だった。
二十歳ばかりに見えるその女は、腕の中に幼子を抱いて物悲し気に茫然と立ち尽くしているのである。
「不審なり。如何なるわけでそこに立っている」
源太はその女に問うた。
女はゆっくりとこちらに視線を寄こす。その瞳は月光に反射して潤んでいた。
女の顔を覗き込んだ源太は、ふとどこかで会ったかのような懐かしさと愛おしさとを同時に覚えた。しかし、記憶を探っても目の前の女に心当たりはない。
「私はこの世の者ではありません」
源太は、はっとした。
なぜだか胸の芯に迫るような美しくも切ない女の声が源太を慄かせた。それは決して恐怖などではなかった。
「私はこの子を捨てるところとてなく、抱いて六道四生の内をさまよっている者にございます。どうかこの子を抱きとって、私をお助けください」
女は潤んだ目でこう懇願した。
源太は、迷った。
得も言われぬ使命感のようなものが、胸の内から沸々と湧いてきて、この女を救わねばならぬという衝動に駆られたのである。天上に妖しく照る月とあたりに咲く花の香りが、源太をそのような不可思議な想いにさせたのかもしれない。
しかし、主命をおびた身である。
茫とした頭で僅かな間、思考してから、
「主人の命によって、これからやらねばならぬことがある。そなたの願い、叶えてやりたいが、命を遂げてからにいたす」
源太はそう言った。
「それでは、あなた様のお帰りをお待ちいたしております」
その言葉を残して、まるではじめからいなかったかのように、女は闇の中へすうっと消え失せてしまった。
月明かりの下に取り残された源太の前には、沈黙の漆黒が広がるのみであった。




