表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

貸出の檻

貸出の檻 ―失われた五年と奇妙な家族― 村上 千鶴(25) 

作者: メタル

魂なき器に、確かな命を見いだした人たちへ。


「肉は何の益ももたらさない。霊こそが命を与える。」

― ヨハネによる福音書 6章63節


// ------------------------------------------------------------------

// 貸出の檻 ―失われた五年と奇妙な家族― 村上 千鶴(25) 

// ------------------------------------------------------------------

<meta

【対象者記録】


氏名="村上 千鶴"

年齢="25歳"

属性=null

職業="無職"

登録区分="レンタルボディ(美里)" />


// ====================

// 第一章 五年の空白

// ====================


―――――――――――――――

フェミナ・ライフサポート

◆返却処理室/俺

―――――――――――――――


朝イチの処理室は、吐く息が白むほど冷えきっていた。

安っぽいコーヒーをひと口含んでも、眠気は抜けない。


端末に映るカルテへ目を落とす。


――今日の作業はレンタル女の“人形化”。

レンタル用から帰ってきたボディの人格を消去し、空の器――ただの“人形”に戻す処理だ。


やがて台車の軋む音が近づき、白布をかけられた女の体が俺の前に運ばれてきた。

今はまだレンタル用の人格が書き込まれたままの状態だが、麻酔で完全に眠らされ状態の

ただ静かに横たわる“返却品”。


カルテを一瞥する。

――村上千鶴、二十五歳。


システムの対象年齢としては最年少の二十歳で貸し出され、五年の契約を終えて戻ってきたようだ。


さらに注釈欄へ視線を走らせ、思わず息を止める。

――出産経験あり、十六歳時。


意外な文字に、思わず息が漏れる。

真面目そうな名に似合わず、ずいぶんと早熟だったらしい。

一瞬、下卑た女の姿を想像する。

だが布の端から覗く姿は、それを裏切った。


整えられた髪、地味すぎず品のある服装。


どう見ても“美人奥様”のそれでしかない。

十六で子を産んだ過去など微塵も感じさせなかった。


// ==========


係員が”奥様”体を抱え、俺の作業台へ移す。

白布を剥ぐと、清楚な面影をまとった女が現れた。

肌は白く、髪は艶やかに整えられ、まるで眠れる上流夫人のように見える。


顔を近づけ、首筋から胸元にかけて鼻を滑らせる。

これが、いつもささやかな愉しみ。

大抵は石鹸の残り香か、安物の化粧品の匂い。

だが、今回は違った。


――柔らかな高級香水の香り。

安物ではない、金をかけた女の匂いだった。


ふと、口の端が吊り上がる。

返却されてきたのは、ただの“レンタル済ボディ”にすぎないはずなのに。

そこに漂うのは、上等な女の気配だった。


俺は作業台の横に立ち、形だけの口上を口にした。


「それでは――始めさせていただきます、奥様」


普段なら口にも出さない呼びかけ。

だが、この女には“奥様”という言葉が不思議と似合っていた。


作業を開始する。

まずは服を脱がすところからだ。


布地をめくった瞬間、思わず眉が動いた。

女が纏っていたのは「LOUIS VUITTON」とロゴの入ったワンピース。

足元には、光沢を帯びた上質そうなパンプス。


「……へえ、今回はずいぶん気合いを入れて仕上げてもらったらしいな」


皮肉まじりに口をつく。


俺の知る限り、返却品は量販の服ばかりだ。だが、こいつは違った。

この“奥様仕様”は、どう見ても異例だ。

制度の冷酷さの中で、妙に贅沢が浮き上がっているように思えた。


さらに下着を見た瞬間、息を呑む。

レースの繊細な刺繍。安っぽさとは無縁のランジェリー。

これが“返却品”に与えられる衣装なのか――。


――この体は驚くほど、きれいだ。


白く、滑らかで、傷ひとつない。

カルテの注釈にあった「十六歳で出産」の文字が脳裏に浮かぶ。

だが、この身体からはそんな痕跡など一片も感じられない


「……本当にこの女、十六の時にガキを産んだのか?」


呟きは独り言のように漏れた。

記録と現実の乖離。

その不自然さが、妙に神経を逆撫でした。


// ==========


バイオスキャナを起動し、細菌感染状態や身体異常の有無を確認する。

結果はすべて“異常なし”。

身体状態も奇麗なもので、擦り傷一つ残っていない。


「……五年も貸し出されて、これかよ」


思わず笑みが漏れる。

“まったく使われてません”とでも言いたげな姿。

その不自然さが、かえって下卑た興奮を呼び起こす。


ボディの状態を完璧に仕上げた後は人格の操作を行う。

プローブを脳に差し込み、人格を削除する。これで“人形化”は完了だ。


次に着せ直しの工程に入る。

“奥様仕様”のヴィトンのワンピースやパンプスも、検査が終わればすべて回収される。

(基本的に借主には返還されない。だから返却時は最低限の衣服を着せられている。)


なので、元の人格に戻す時は、センターが預かっていた本来の女が来ていた衣服になる。

この女の場合は、安物のスウェットとサンダル。

あと安物の指輪。


袖を通し、足を覆った瞬間、当初運ばれてきた時に漂っていた“奥様”の気配は跡形もなく消えた。

残されたのは、ただの村上千鶴――契約を終えた、一人の地味な女の姿だった。


この女が複雑な女関係や、とんでもない人生を送っているなんて俺は知る由もない。


// ============================================

――――――――――

◆自宅/村上 千鶴

――――――――――


――やっと、五年が過ぎた。


そう思った。けれど、感覚としてはつい昨日のことのようでもある。

テレビをつけて日付を確かめ、ようやく五年という歳月が経っていることを理解した。


時間は確かに奪われていた。

当時無理して買ったiPhoneも今は旧機種になっている。

貸出し前のカウンセリングでも聞いていた事だが、貸し出されていた間の記憶はない。

それでも――私は今、こうして“戻ってきた”のだ。


長期貸出の対象者がひとり暮らし等で、復帰後の生活に心配が有る場合は

任意でセンターの管理サービスを利用できる。

私の場合、定期的なハウスキーピングが入り、部屋はきちんと維持されていた。

そのおかげで、五年ぶりに帰ってきたはずのこの部屋も、家具一つ変わっていない。

新しくもなく、古びてもいない。というより、私が管理していた時より掃除が行き届いている。


玄関に靴を脱ぎ捨て、私はシャワーを浴びた。

五年ぶりに、自分だけのために流れる水音。

熱い湯を浴びながら、無意識に全身を確かめていた。


――レイプされて男を嫌悪していた私が。

結局は“男のために”五年も貸し出され続けた。

普通なら、とても耐えられることじゃない。

壊れていてもおかしくなかったはずだ。


それなのに、鏡に映る自分の身体は、予想に反していた。

肌は傷ひとつなく、むしろ貸し出される前より白く滑らかで、髪は艶を帯びていた。

爪の先まで、まるで誰かに丁寧に手入れされていたかのようだ。


五年という空白を過ごした身体が、どういうわけか“若返っている”ようにさえ見えた。


濡れた身体を見つめながら、思わず声が漏れた。

「……おかしい。どうしてこんなに綺麗なんだろう」


何か根本的に違っている、ぞっとする違和感。

記憶を巡らせながら視線を落とした瞬間、息を呑んだ。


――体毛までも、整えられていた。


自分では一度もしたことのない処理。

それがまるで高級娼婦のように整えられている。


理解が追いつかず、喉の奥から笑いがこみあげた。

声を押し殺し、肩を震わせて、鏡の中の自分を見ながらひとりで笑った。


「……でもこれで、娘を迎えに行ける」


笑いと涙が混じったまま、千鶴は鏡に映る自分へ小さく呟いた。


シャワーの湯を止め、曇った鏡に映る自分をじっと見つめた。

十六歳の頃の記憶が、鋭く胸を刺す。


――あの夜。

男に無理やりレイプされ、妊娠した。

望まぬまま腹に宿り、やがて子を産んだ。


本当は育てたかった。

あの子は望まれて生まれてきたわけではないが、子供には責任はない。

小さな腕を決して離さず、母として生きていたかった。

けれど大人たちは「子供には無理だ」と言い、赤ん坊は私から取り上げられ、施設へ送られてしまった。


会いたかった。

だが会うことは許されなかった。

それでも、成人すれば引き取れる――ずっとそう信じていた。


だが現実は、あまりにも残酷だった。

「子供を取り戻すには莫大な資金が必要だ」

父にそう告げられた瞬間、目の前が真っ暗になった。


だから――私は言われるままに体の貸出契約を結んだ。

五年間、ただ金をためるためだけに。

心を殺し、身体を預け、時間を捨てて。


――そして今。

ようやく資金は貯まった。

今度こそ、あの子に会いに行ける。


……でも、本当に会いに行っていいのだろうか。


あの子は今、九歳になっているはずだ。

突然現れた“おばさん”を母だと信じてくれるはずがない。

それに、もし幸せな家庭で育っているのなら――私の存在は、ただ迷惑になるだけかもしれない。


そんな葛藤が胸を締めつけ、私は何度も足を止めてしまった。

会いたい気持ちと、諦めるべきだという声が、心の中でせめぎ合う。


迷い続けるうちに、気づけば――半年という時間が過ぎていた。


それでも、願いは消えなかった。

一度でいい。

たった一度でいいから――あの子の顔を、この目で見たい。




// ====================

// 第二章 再会の庭先

// ====================


――――――――――

◆養父宅/村上 千鶴

――――――――――


私が貸出しの為にセンターに向かう前、父はしつこく言っていた。

「貸出しが終わったら、まず実家に戻れ。手続きは全部俺がやるから。」

「お前がやるとろくでもない事になるから。」


だが私は戻らなかった。

どうしてもあの人間のもとへ帰りたくなかった。


娘の所在を知るには父を通さなければならない――そう聞かされていた。


けれど役所の窓口で確かめてみたら、親権者である私自身の申請で十分だった。

しばらく待たされることを覚悟して申請したのだが、養父の意向で実母に限り情報が公開されており、

娘の居場所はすぐに分かった。


――実母なら、名乗り出てほしい。

そんな思いが、そこには込められている気がした。


// ==========


――そして今日。

私は娘の養父の家の前に立っていた。

門の前で、私はしばらく立ち尽くした。

想像以上に立派な家だった。

政府の補助でやっと維持されていた、あの暗く古びた実家とは比べものにならない。

薄暗く、古びたその家で過ごした自分には、目の前の一戸建てはあまりにも眩しすぎた。


柵越しに覗けば、広い庭が目に入る。

きちんと刈り込まれた芝生。花壇には色とりどりの花。


そこに水をやる女性の姿があった。


上品で落ち着いた佇まい。まさに「奥様」という言葉が似合う美人。

その光景を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。

私の娘は、こんな世界で育ってきたのだ。


どうしても、インターフォンに手を伸ばすことができなかった。

諦めたように背を向けかけたとき――


「あなたが千鶴さん?」


背後から柔らかな声が届いた。

庭にいた奥様が近づいてくる。

彼女は微笑みを浮かべながら、ふと首をかしげる。


「……あれ? どこかでお会いしたことがありましたか?」


思いがけない言葉に、私は一瞬足を止めた。

もちろん直接会ったことはないはずだ。

けれど、奥様の目には確かな既視感が浮かんでいた。


「……いえ、初めてです」


なんとか答えを返すと、奥様はそれ以上追及することもなく、

上品な微笑みを崩さぬまま私を家の中へと案内した。

玄関からリビングまで、隙のない調度が並んでいた。

どれも私の生活には縁のなかったものばかり。


「どうぞ、こちらにおかけになって」


奥様は柔らかく手を示し、私をソファーに座らせた。

クッションの沈み込みに身体が戸惑う。

何から何まで、息苦しいほどに上品だった。


「呼んでまいりますから、少々お待ちください」


奥様は奥へ消え、重厚な扉が閉ざされた。

リビングに残された私は、鼓動だけが響く中で待ち続けた。

一時が永遠にも感じられた。その間に、いくつもの考えが頭の中をぐるぐると巡る。


――娘は、私を見てなんと言うだろう。

「おばさん誰?」と首をかしげるだろうか。

本当は母なのに、母だと信じてもらえないかもしれない。


それでも、会いたい。たとえ一度でも。


もし信じてくれたとしても、私はあの子を捨ててしまった母だ。

謝らなければならない。

それでも、あの小さな口から「どうして」と問われたら、私は答えられるのだろうか。


そして養父には、どんな顔をされるだろう。

「今さら現れて迷惑だ」と冷たく言われるかもしれない。

それを思うと胸が縮む。


鞄の中には、些細なプレゼントが入っている。

ずっと着せてみたいと思っていた服だ。

もし受け取ってもらえなかったら――そう考えただけで、喉が締めつけられる。


心臓の音ばかりがやけに大きく響き、時間が進んでいるのかどうかさえ分からなくなっていた。


静寂を破って、ドアノブがかちゃりと回る音がした。

次の瞬間、扉がゆっくりと開いていく。


現れた少女を見て、胸が詰まった。

年相応の可憐さと、良家の子女らしい気品を兼ね備えた姿。

整えられた髪、光沢のある服、血色の良い頬。

私自身の幼い頃とは比べものにならないほど幸福そうだった。


声を失ったまま見つめていると――


「ママ!!」

思いもよらぬ叫びと同時に、少女は駆け出してきた。

小さな身体が勢いよく飛び込んできて、私はただその温もりに飲み込まれる。


「ママ、ママ……!」


顔を埋めて泣きじゃくる声。震えが骨まで伝わってくる。

私は言葉もなく、ただ必死に抱きしめ返すことしかできなかった。


そのとき、背後で扉が開いた。

ゆっくりと入ってきたのは、見知らぬ男性。

けれど、その立ち姿や視線の向け方から、すぐに分かった。

この人が――あの子の養父なのだろう。


 男性は立ち止まり、驚愕の表情で私を見つめ、かすれ声を洩らした。


「……美里?」


耳にした瞬間、私は混乱した。

美里? 誰のことを言っているのだろう。

私は千鶴だ。


頭の中で答えを探す間もなく、腕の中の娘は「ママ、ママ」と泣きながらしがみついている。

私はただ、その矛盾に飲み込まれていた。


「……美里、帰ってきたのか?

 センターに戻ったんじゃないのか?

 この半年、どこでどうしていたんだ……?」


次々に投げかけられる言葉に、私は息を呑んだ。

――美里? センター? 半年?


呆然とする私に、養父は落ち着いた声で事情を話し始めた。


事故で妻と娘を同時に失ったこと。

ひとり取り残され、どうにもならない空白を埋めるために、養育プログラムを申請したこと。

けれど子どもを迎えるには“母親”の存在が不可欠とされ、仕方なくレンタルの妻を契約したこと。


――私が五年間“貸し出されていた先”とは、この家だったのだ。

”奥様”が私の顔を見た時の反応は直接会ったことはないが、写真や動画を見たからに違いない。


言葉は誠実で、説明も筋が通っていた。

だが、どこかに微かな違和感が残る。

表情の端に、隠しきれない影が差していた。

その理由を、この時の私はまだ知らなかった。


彼はタブレット端末を取り出し、画面を操作する。

そこに現れたのは、娘の笑顔だった。


庭で無邪気に遊ぶ姿。

ピアノの前で一生懸命に指を動かす姿。

寝る前に絵本を読んでもらい、安心したように瞼を閉じる姿。


――そのどれもに、“私”が映り込んでいた。


知らない服を着て、知らない表情で、母親として娘の隣に立つ私。

笑いながら食卓を囲み、手を取り合って歩いている。


しかし、私はこの時間を覚えていない。

けれど娘にとっては、確かに“母と過ごした五年間”がそこに刻まれているのだ。


――この子は、大切に育てられてきた。

その事実が、何よりの救いだった。


男は少しの沈黙のあと、真剣な眼差しで私を見た。


「……千鶴さん。あなたは、娘を連れて行くつもりですか?」


胸が大きく揺れる。

その問いは、ここへ来るまでの道すがら、何度も自分に投げかけてきたものだった。

けれど、いざ目の前で突きつけられると、喉の奥に石を詰め込まれたように言葉が出てこない。


「反対するつもりはありません。

 ただ……もしできるなら、この家で一緒に暮らしてはもらえないでしょうか。

 娘にとって、あなたはもう“母”です。

 そして、私にとっても――」


男はそう言うと、そっと私の手を取った。

温かさが指先から腕へと広がる。

けれど――次の瞬間、条件反射のように全身が震え、私は咄嗟にその手を振り払ってしまっていた。


「……っ」


胸の奥で、十六の夜の記憶が閃光のように蘇る。

理解ではない。ただの反射。

男に触れられること、それ自体がどうしても許せなかった。


驚いたように目を見開いた彼は、短く息を吐いた。


「……すみません。つい美里のつもりで...

 ――千鶴さん」


その声音は誠実であるのに、私の胸の中ではどうしようもない葛藤が渦を巻いていた。


――連れて帰りたい。

この子は、私の娘なのだから。

その想いは、どんな理屈よりも強く、揺るぎようがなかった。


けれど現実は残酷だ。


私は、この子が知っている“母”ではない。

もし連れ出しても、戸惑わせ、混乱させ、きっと泣かせてしまうだろう。


それに……私には、この家のような豊かさを与えてやれる力がない。

狭い部屋、質素な食卓、擦り切れた服。

学校も、習い事も――今のように続けさせることなど到底できない。


わかっている。

けれど、それでも……胸の奥では叫び続けていた。

――あの子を抱いて帰りたい、と。


一緒に暮らすにしても、見知らぬ男の家に住むなんてできるはずがなかった。

第一、この上品な奥様が許すはずもない。


「奥さんの前で、他の女を同居させる話をするなんて……非常識じゃないですか!」


思わず声が荒くなり、吐き捨てるような言葉になった。

場の空気がぴんと張り詰める。


けれど――奥様、二代目の“母”は少しも動じなかった。

むしろ柔らかく微笑みながら、静かに告げた。


「私はレンタルされているだけですから。構いませんよ」


その声音は上品で穏やかだった。

だがその奥に、どうしようもない諦めの色がにじんでいるように思えて、私は思わず息を呑んだ。


// ==========


奥様は静かに席を立ち、養父と娘を外に出させた。

 残されたリビングに、私と彼女だけが向き合う。


「……少し、二人でお話ししませんか」


上品な笑みを浮かべたまま、彼女は落ち着いた声で語り始めた。


「私は“レンタル”としてここにいます。

 役割は母親であり、妻でもありますが……実際には“妻”として求められてはいません。

 体の関係を持つことも、一度もありませんでした」


言葉は穏やかだった。

しかし、その裏にはかすかな翳りがあった。


「女である以上、まったく手を付けられないというのは……正直、考えてしまうこともあります。

 けれど、それは亡くなった奥様を忘れられないからなのでしょう。

 私ではなく、その人の記憶と共に生きているのだと思います」


彼女は一呼吸おいて、視線を落とした。


「それに、娘さんも私にはあまり懐いていません。

 あなたの方が、ずっと自然に受け入れられているように見えます。

 ……だから、ここにいるべきなのはあなたなのかもしれません」


その言葉に、私は混乱しながらも揺れていた。

けれど、彼女の穏やかな表情と、にじむ誠実さに抗うことはできなかった。


――私がここにいることを、この人は拒んでいない。

むしろ、必要としている。


その事実が、私の背中を押した。


「……分かりました。しばらく、ここにいさせてください」


自分の声が、どこか遠くで響いているように聞こえた。


こうして、奇妙な四人での生活が始まった。

本当の母と、借り物の母。

そして養父と、無垢な娘。


制度の冷酷さに彩られた、歪んだ家族の形。

だがそこには、確かに温もりが生まれつつあった。




// ====================

// 第三章 奇妙な同居

// ====================


――――――――――

◆養父宅/村上 千鶴

――――――――――


奇妙な同居が始まった翌日のことだった。


奥様が自分の部屋から、数枚の高級そうな洋服を抱えてやって来た。


「これを着なさい」

差し出されたドレスに思わず言葉を失う。


「奥様の服、ですよね?」

「いいえ。元々、あなたのために仕立てられたものでしょう? ――美里さんの」


その名を口にされ、胸がざわめいた。

さらに奥様は、ためらいもなく下着まで取り出す。


「ほら、下着も」

「えっ……ちょっと待って下さい。奥様、これ……着てたんですか!?」


思わず声が上ずると、彼女は涼しい顔で肩をすくめた。

「仕方ないでしょう? あの人が鈍感すぎるのよ。私がどんな服を着ていようと、気づきもしないんだから」


苦笑まじりの怒り。

けれどその声音には、どこか拗ねた姉のような響きがあった。

――不思議なことに、私は敵意よりもむしろ親しみを感じてしまった


同居が始まってすぐ、娘は思いのほか私に懐いてくれた。

けれど私自身は、まだ“母”としての実感が薄く、どう接すればよいか戸惑いが残っていた。

笑顔で話しかけてくれるのに、返事が少しぎこちなくなる――そんなちぐはぐさが続いていた。


それを見ていた養父は、ふと気を回したのだろう。

娘を連れて実家に数日泊まりで帰省することになった。

「この機会に、ゆっくり休んでくれ」

 そう言って、娘を連れて数日間の帰省へと出かけていった。


こうして私は、この家で“奥様”と二人きりになることになった。


// ==========


養父と娘が出かけてしまった家は、驚くほど静かだった。

私が台所で湯呑を片づけていると、背後から柔らかな声がした。


「……はぁ、静かになったわねー」


振り返ると、奥様はソファに体を預けて伸びをしていた。

いつもの上品な微笑みではなく、肩の力を抜いたような、少し気だるげな表情。

養父の前ではきっと見せないだろう仕草に、私は思わず目を奪われる。


「えっと……普段と雰囲気が……」

「ふふ、バレちゃった? あの人の前だと、どうしても“きちんとした奥様”を演じなきゃならない気がしてね」


声も軽く、まるで年の近い姉と話しているようだった。

その自然さに、私は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


その日の夕食は、冷蔵庫にあった材料で簡単に作った。

ふたりで食卓を囲むのは不思議な感覚だったけれど、思ったより会話も弾んだ。


食後、奥様が「ちょっと息抜きしよ」とリモコンを手に取り、ネットフリックスを開いた。

選ばれたのは恋愛ドラマ。普段なら気恥ずかしくて避けるジャンルだったけれど、不思議と今日は抵抗がなかった。


画面の中で、想いをぶつけ合う男女。

ふたりで見入っているうちに、気がつけば目頭が熱くなっていた。


「……やだ、泣いちゃった」

「ふふ、私も」


横を見ると、奥様の頬にも涙の跡。

顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。

こんな風に肩を並べて泣けるなんて――まるで本当に“家族”のようだった。


エンディング曲が流れ、二人して鼻をすすって笑ったあと――。

奥様は、ふっと立ち上がった。


「さ、そろそろお風呂に入りましょうか」


 あまりにも自然な口調に、私は思わずぽかんと口を開けてしまった。

「え……ご、一緒にですか?」


我ながら間の抜けた質問だった。

けれど奥様は小首をかしげて、くすりと笑った。


「当たり前でしょ? だって、今日はふたりきりなんだもの」


軽い言い方なのに、どこか押しの強さを含んでいた。

気づけば胸がどきどきと音を立て、顔が熱を帯びていく。


返事をする間もなく、奥様はもうブラウスのボタンに手をかけていた。

その指先は落ち着いているのに、まるで普段の上品な彼女とは別人のように見えた。


「ほら、早く入るわよー」

 いつもよりずっと軽い口調。

 反対する間もなく、ぐいぐいと浴室へ連れていかれる。


結局、そのまま一緒に浴槽へ。

当たり前のように隣に座る奥様に、私はどうしても落ち着かなくて……。


「それより、本当にあの人は、あなたに全然手を出してこないでしょう?」

奥様は湯気の中でため息をついた。

「……こんなにいい女がふたりもいるのに。まるで私たちを“人形”みたいに扱ってる気がしてね」


その声音には、冗談めいた軽さと、抑えきれない苛立ちが入り混じっていた。

そう言うと奥様は湯船の縁に腰を掛け、こちらへぐっと身体を向ける。


「ねぇ……千鶴。見てちょうだい」


恥じらう素振りもなく、すっと近づいてきた彼女の顔。

距離があまりに近すぎて、吐息が頬をかすめた瞬間、私は思わず息を呑んだ。


「……お、奥様っ……! ち、近いですから……!」


舌がもつれて飛び出しかけた言葉を、慌てて飲み込みながら声を裏返す。

顔は一気に真っ赤に染まり、視線を逸らすことしかできなかった。


奥様はその狼狽を楽しむように、湯の波を指でかき混ぜ、艶やかに笑った。


「ふふ……やっぱり、そういう顔をするのね」

小首をかしげ、いたずらっぽく目を細める。

「さっき、“言いかけた言葉”……なんだったのかしら?」


からかうような声色に、私は湯気より熱い羞恥でますます俯くしかなかった。


奥様は笑みを浮かべたまま、さっと立ち上がる。

濡れた髪が背に沿って流れ落ち、白い背中に湯気がまとわりついた。


「さあ、上がるわよ」


あっけらかんとした声色は、先ほどの妖しい仕草が幻だったかのように響いた。

ただ私の鼓動だけが、まだ落ち着かずに波打っていた。


湯気の向こうに揺れる白い背中。

慌てて目を逸らしたが、胸の奥は妙なざわめきで落ち着かなかった。


湯上がりの髪をタオルで拭きながら、奥様はふっと笑った。

「ねぇ千鶴。まだ服を着ないで」


その声音には冗談めいた軽さがあった。

けれど、その瞳の奥に浮かぶ影は――それがただの戯れではないことを告げていた。


「えっ……」

返す言葉を失った私を、奥様は微笑を崩さず見つめ続ける。


結局、逆らうことはできなかった。

抵抗の気力が湧かず、気がつけば裸のまま、リビングのソファに並んで座っていた。


成人した女がふたり、全裸で並んでテレビを眺めている――。

冷静に考えれば、滑稽としか言いようのない光景だった。

けれど、その異様さを打ち消すように、奥様はあくまで自然体だった。


脚を組み、背もたれに寄りかかる仕草すら優雅で、まるで裸でいることなど当然とでもいうように。


そんな余裕に当てられて、私は思わず視線を泳がせてしまう。

――胸元。

湯上がりの肌はしっとりと輝き、呼吸に合わせてわずかに揺れる。

見てはいけないと思いながらも、意識はそこから離れなかった。


「……っ」

慌てて目を逸らしたはずなのに、頬が熱を帯び、心臓が妙に早鐘を打つ。

――奥様を“女として”見てしまっている。

その事実が、自分でも信じられなかった。


奥様はしばらく黙って画面を見ていたが、やがてぽつりと呟いた。


「……分かっているのよ。私はレンタル。妻と母を“演じる”ためにここにいるだけ」

「でもね、子どもには懐かれず、夫には女として見られていない。母性も、女としての欲も……何ひとつ満たされない」


吐き出される言葉には、湯気に残る香りのように、寂しさが滲んでいた。


「分かっているの。契約なんだから。でも……やっぱり寂しいものね」


奥様はそっと私の肩に手を回し、優しく抱きしめてきた。

「だから、あなたには……少し甘えさせてほしいの。別に女同士どうこうじゃない。ただ、人のぬくもりが欲しいの」


胸に頬を寄せられ、私は戸惑いながらも体をこわばらせるしかなかった。

耳元に落ちた囁きは、少し震えていた。


「しばらく……服は着ないでいてくれる?」


柔らかな腕に包まれたまま、私は返事もできずにただ黙っていた。


――不思議な感覚だった。

男に触れられるときには決して湧かなかった、温かいものが胸の奥に広がっていく。

拒絶でも、恐怖でもない。

ただ孤独を分け合うように重なった体温。


私はその中に、初めて“愛”と呼べるもののかけらを感じていた。


その夜は同じベッドで眠った。

笑い合いながらシーツを分け合い、冗談めかして腕を絡め合い――まるで仲の良い姉妹のように、けれどそれ以上に近しい距離で。


――そして義父と娘が帰ってくるまでの三日間。

私たちは、まるで秘密のパートナーのように過ごした。

買い物に出かけたり、料理を一緒に作ったり、ソファで寄り添って映画を見たり。


奇妙だけれど、穏やかで、愛おしい時間だった。


義父と娘が帰ってきて、ふたりの秘密の時間は幕を閉じた。


けれど、あの三日間が幻に終わったわけではなかった。

奥様との関係は、薄らとだが確かに続いていた。


ふたりきりになった時、ふいに交わす軽いキスや抱擁。

時にはお互いの髪を撫で合って、いたずらめいた笑いを交わすこともあった。


表向きは良き“母”と“妻”として振る舞いながらも、その裏側にだけ存在する絆。

それは奇妙で、危うくて、けれどどこか心地よい共犯関係だった。


//====================

//第四章 母として

//====================


――――――――――

◆養父宅/村上 千鶴

――――――――――


――あれから、半年が経った。


娘との距離は、ゆっくりと、けれど確実に縮まっていた。

最初はぎこちなかった呼びかけも、今では自然に「お母さん」と声を掛けてくれるようになった。

私は母として、少なくとも表向きは十分に振る舞えるようになっていた。


義父もまた、私を“娘の母”として扱ってくれている。

食卓を囲み、出かけるときは並んで歩き、娘を真ん中に挟んで笑い合う。

そこには確かに、父と母と娘――そんな穏やかな構図が出来上がっていた。


ただ、その輪の外に、もうひとりの“母”がいる。

奥様。


彼女は時折、複雑そうに視線を逸らすことがあった。

けれど口には出さず、むしろ私を応援してくれているように振る舞う。


……もっとも。

今でも時折、彼女の部屋に呼ばれて“お相手”をしているのだけれど。


娘の誕生日。


家は飾りつけられ、テーブルの上には色とりどりの料理と大きなケーキが並んでいた。

義父と奥様と私、そして主役の娘。

笑い声が絶えず、幸せに包まれたひとときだった。


「ママ、ケーキおいしいね!」

 娘が頬いっぱいにほほえみを浮かべる。

 その笑顔に胸が満たされ、私はただ頷くだけで精一杯だった。


――そして夜。


娘が眠りについたあと、義父は奥様を部屋から出し、私と二人きりになった。

重苦しい沈黙ののち、彼はゆっくりと口を開いた。


「……千鶴。話さなければならないことがある」


その声はどこか震えていた。

何かとても嫌な予感がする。


「千鶴さん、あなたがあの子の実母としてこの家にきて初めて分かったのだけど、

 あの子の父親は私なんだ。

 君が以前“レイプされた”と話してくれた相手は……私だ」


その言葉に、頭の中で何かが崩れ落ちた。


暗い部屋の記憶。

必死に叫ぼうとするのに声が出なかった夜。

押し倒された痛み。

でも――犯人の顔も体も、ぼんやりとしていて思い出せなかった。

あれはきっと、自己防衛のために記憶が曖昧になっていたのだと信じていた。

だが今、義父の告白に合わせるように、記憶が急速に形を取り戻していく。


――浮かび上がる男の顔。

その目。その声。


「……っ、あ……あああああ!」


声にならない叫びが喉から漏れる。

心拍数は爆発しそうなほどに上がり、息が苦しい。

涙が溢れ、止まらなかった。


――まさか。


私のすべてを壊した、あの悪魔が。

よりにもよって、この目の前にいるなんて。

喉の奥で声にならない悲鳴が渦を巻いた。

十六の夜、未来を奪われ、女としての尊厳を踏みにじられた。

あの忌まわしい記憶の正体が――この男だったのだ。

しかも私は、その男と五年間も“レンタル妻”として暮らし、

さらに――私自身に戻ってからも、同じ屋根の下で一年近くを過ごしていた。

笑い合い、食卓を囲み、娘を真ん中にして「家族」として日々を送っていた。

その全部が、地獄の上に築かれた幻だったのだ。

全身が震え、頭の芯が焼けるように熱くなる。

恐怖と嫌悪と絶望が混じり合い、目の前の男を“恐ろしい化け物”としてしか見られなかった。


「……君のその反応は、本当に“レイプされた”と思い込んでいるんだね」


養父の言葉が胸に突き刺さる。


――レイプ。

その響きだけで、視界が揺らぐ。

頭の奥で、長年封じてきた記憶の断片がざわめき始めた。


暗い部屋。

冷たい床に押し倒され、身動きのとれない身体。

耳をつんざく怒号。

喉が潰れるほど叫んでいるのに、声は外へ届かない。


――重み。

――痛み。

――恐怖。


十六歳の自分が、ただ必死に涙を流している映像。

それ以上は思い出せない。

顔も、声も、ぼやけて霞んでいる。


心臓が暴れ、喉が焼けるように痛い。

「っ……あ、あぁ……!」

声にならない嗚咽が、勝手に漏れ出る。


――やっぱり、あの夜は地獄だった。

そう確信しかけた瞬間――。


「なぜそう記憶が歪んでしまったのかは分からない。

 けれど、あの夜……私と君は、確かに愛し合っていたはずだ」


 言葉の一つひとつが、脳を焼くように響いた。


 ――愛し合っていた?


そんなものがあるわけがない。

これは性犯罪者が口にする、よくある“言い訳”そのものだ。

「愛があった」「お前も感じていただろう」――

被害者の心を二重に踏みにじる、おぞましい欺瞞。

胸の奥から、吐き気が込み上げてきた。

恐怖よりも強い、怒りと嫌悪が全身を突き抜ける。


――あの時は十六歳の少女だった。


だが、今は違う。

私は震える足を必死に支え、あの男を睨み返そうとした。

すると――信じられない光景が目に映った。


義父の頬を、大粒の涙が伝っていたのだ。


なぜだろう。

本当に悲しそうに見えた。

この一年近くの同居生活で、一度も見せたことのない表情。


「……っ」


声にならない嗚咽を漏らしながら、義父はその場に崩れ落ちた。

膝から力が抜け、床に手をつき、震えている。

私は息を呑んだ。

憎しみと嫌悪のはずなのに――その涙の意味が、分からなかった。

義父は床に突っ伏したまま、嗚咽を漏らした。


「ああ……なぜ、僕は君を助けることが出来なかったのだろう」

「もっと出来たはずだ。なのに……なぜ諦めてしまった」

「君を記憶の外に追いやり、見ないふりをした。

 そして他の女と結婚し、子をもうけ……だが、そのすべてを失った」


嗚咽はますます大きくなり、肩が震える。


「これは……神の罰に違いない。

 僕が君を裏切り、見捨てた報いなんだ」


床に顔を押しつけたまま、義父は自分を責め続けていた。


「なあ、千鶴……。啓介だよ。僕は啓介だ」


義父――いや、啓介は涙に濡れた顔を上げ、必死に言葉を繋いだ。

「本当に……忘れてしまったのかい?」


啓介。

義父の名前だ。


けれど、私は――なぜかそれを「義父」とは別のものとして認識していた気がする。

ずっと一緒に暮らしてきたのに、その名を聞いた瞬間、ひどく遠い響きに思えた。

レイプ犯の名前なんて、覚えているはずがない。

あの夜。暗い部屋で。無理やり、私を押し倒した――のか?


頭の中がかき乱される。

記憶を辿ろうとするほど、輪郭はぼやけていく。

声も、顔も、体の重みさえも――どこまでが真実で、どこからが虚構なのか。

私は急に、自分の記憶そのものが曖昧であることを思い知らされた。


私に残っているのは――「レイプされた」という記憶だけ。

この啓介という男に犯されたという実感も、確かな映像もない。

自己防衛の結果だと分かってはいたが……本当にそんな都合のいいことがあるのだろうか。


啓介は黙って懐に手を入れると、古びた一枚の写真を取り出した。

差し出されたそれを見て、息が止まる。

写っていたのは――十六歳の私。

古びたブラウスに色あせたスカート。

年頃の少女が着るにはあまりに地味で、貧しい暮らしを映す服装。

そして、その隣には少し年上の男――啓介が。

二人は並んで笑っていた。

まるで、普通のカップルがデートの時に撮ったような写真だった。


「……これは、どういうこと……?」


手が震え、写真の中の自分を凝視する。

記憶にない。なのに、確かにそこに“私”がいる。


その瞬間――頭の奥で、眩い光が走った。


「……啓介」

 口から自然に名前がこぼれ落ちた。

「啓介……ああ、愛しい啓介……。どうして今まで忘れていたのだろう」


光に貫かれた頭の奥から、記憶が一気に蘇ってくる。


あの頃――私は実家で虐待を受けていた。

父の暴力だけではない。いや、それ以上におぞましいことがあった。

父からの性的な虐待。

母はそれを知っていながら、何もしてくれなかった。


冬空の下、一人で泣いていた私を見つけ、優しく声を掛けてくれたのが啓介だった。

彼は、私を初めて「守ってくれる人」だと思わせてくれた。

だが――両親がそんな存在を許すはずもない。

私たちの関係は、必死に隠すしかなかった。


ある日。どうしても欲しくて、啓介にねだって買ってもらった安物のリング。

デートの時だけ指にはめ、普段は机の奥に隠していた。

だが――それを父に見つけられた。


激しい暴力と追及。

警察沙汰にまで発展した騒ぎの中で、私はただリングだけを握りしめ、必死に逃げ出した。

そして、その足で啓介のもとへ駆け込んだ。


――二人で逃げよう。


啓介はそう言って、私を連れ出した。

夜の駅で、駆け落ちのように電車へ飛び乗った。

そして――あの夜。

私は初めて啓介と愛し合った。

大切に抱きしめられ、優しく口づけを交わし、互いの体温を確かめ合った。


なのに、なぜ……?

どうしてそれを“レイプ”だと思い込んでいたのだろう?


――思い出した。


父は、私のスマートフォンに密かに追跡アプリを仕込んでいたのだ。

どうやってあの騒ぎを操作したのか分からない。

だが、啓介が「私を誘拐した」ということになっていた。


私は未成年。

その日のうちに警察は現場に踏み込み、私は“保護”された。

啓介は――逮捕された。


その後の私は、さらに強い束縛の中に閉じ込められた。

親は「お前は悪い男に騙された」と繰り返し言い聞かせた。

「二度とあの男に会わせない」「外へ出るな」

その言葉と監視の中で、私は次第に洗脳されていった。


……妊娠していることに気づいたのは、それからだった。


だが、その時父には愛人がおり私への興味は失せていた。

そのため、私は妊娠を隠すことが出来た。

腹が目立ち、流石に父が妊娠を知った時にはすでに堕胎できる時期を過ぎていた。


私は嬉しかった、啓介の子を産むことができると。

だが、そこからは辛い日々が続いた。


…出産までの間、父は毎日のように私を罵倒した。

「レイプされた女」「だらしない娘」

モラハラという刃が、心を何度も切り裂いた。


ただ――本当は、時々思い出す光景が“罵倒の言葉”と一致しないことがあった。

優しく触れてくれる手の感覚や、微かに胸が温かくなるような記憶の断片。

けれどそれを口にすれば「お前は騙されただけだ」「都合のいい妄想だ」と怒鳴られ、叩き伏せられる。


私は次第に、違和感を抱くこと自体を恐れるようになった。

「そうだ、あれは地獄だった」と、自分に言い聞かせなければ生きられなかったのだ。


――そして出産の日。

私はすっかり信じ込んでしまっていた。

あの子は“レイプ犯の子”だと。

愛などなかった。私は被害者で、あの夜は地獄だったと。。


――違う。


今ようやく、真実を取り戻した。

あの夜は、愛しい啓介と結ばれた夜だったのだ。


――私は、いつの間にか戻ってきていたのだ。

啓介の下へ。


ふと、自分の手を見る。

右手の小指には、古びた銀色のリングが光っていた。


安物だ。

飾り気もなく、少し歪んでいて、輝きはもう失われている。

けれど――なぜか、ずっと大事にしていた。


理由も分からぬまま手放せなかったその指輪。

それが、啓介がくれたものだったのだ。


「……千鶴。その安物のリング、ずっと大事にしてくれていたんだね」


啓介の声は震えていた。

「君がレンタル母としてこの家に来たとき……本当は、一目で“千鶴だ”と分かったんだ。

 でも……あの指に、あのリングがなかった。

 もう僕のことなんて忘れてしまったのだろう……そう思ってしまった。

 本当はレンタルが終わったあの日、すぐにでも君を迎えに行きたかった。

 けれど……恐くて、どうしても動けなかった」


彼は嗚咽を混じらせながら続けた。

「実母として再会したとき、君がそのリングをはめていた……あの瞬間、本当に嬉しかったんだ。

 でも……娘が“レイプ犯の子”だと聞かされて……どうしても混乱してしまった。

 真実を確かめるのに、時間がかかってしまった……すまない」


胸の奥が震え、涙が視界を歪ませた。

大切にしていたはずなのに、記憶だけが抜け落ちていた。

忘れたのではない。

――忘れさせられていたのだ。


胸の奥がどうしようもなく熱くなり、堪えきれなかった。


気がつけば――私は衝動的に、床に崩れている義父……いや、啓介に飛びついていた。


「啓介っ……!」


声にならない嗚咽が喉を震わせる。

腕にすがりついた瞬間、記憶の奥で断ち切られていた絆が再び結び直されていくのを感じた。


忘れていたはずの温もり。

恐怖にすり替えられていたはずの夜。

全部が今、ひとつに重なって甦る。


私は泣きながら、必死に彼の名を呼び続けた。


// =============================================

// エピローグ

// =============================================


啓介と私は正式に結婚した。


その結果、父欄が空白だった戸籍に、啓介の名が刻まれた瞬間――私たち親子は本当の“家族”になったのだ。


この事務処理の際、啓介から真実を聞かされた。

私の父が「娘を取り戻すには莫大な費用が必要だ」と言っていたのは、真っ赤な嘘だった。

必要だったのは、わずかな事務手続き費用だけ。


啓介はあの告白の夜を境に、少しずつ真実を調べてくれていたという。


・なぜ私がレンタルとして貸し出されたのか。

・子を産んだのに、なぜ施設に預けられたのか。

・あの夜を、なぜ私は“事件”として記憶していたのか。


時間をかけ、ひとつひとつを確かめてくれていた。


父とは裁判を起こすつもりだ。

もう二度と、あの男とは関わり合いになりたくない。


また、亡くなった前妻への想いについても、啓介なりに整理がついたようだった。

完全に消えることはない。けれど、その記憶を抱えたまま、私と娘と共に歩む覚悟を決めてくれたのだ。


// ==========


もっとも、もうひとつの問題は残っていた。

レンタル母としてこの家に来ていた“奥様”の存在である。

契約を一方的に打ち切るわけにもいかず、奇妙な同居はそのまま続くことになった。


表向きには――父(啓介)、母(私)、娘、そして「母の姉」という名目で“奥様”。

そんな歪んだ四人暮らし。


だが、不思議と居心地の悪さはなかった。


やがて――レンタル母として暮らしてきた彼女も、契約を終えて帰ることになった。

別れの時は穏やかで、あくまで形式的なものだった。


しかし後になって私は知った。

彼女はレンタルが解けて“元の自分”に戻った時のために、手紙を用意していたのだ。

宛先は“未来の自分”、つまり本来の彼女自身。


その手紙には、こう書かれていたそうだ。


千鶴との関係はとても良かったこと。

なかなか難しい家族関係だから助けてあげて欲しいこと。

それに、あなたがいないと彼女が寂しがるかもしれないこと。

だから――もしよかったら、また会いに行ってほしい。


レンタルという制度に縛られながらも、彼女は自分の意思で“次の自分”に想いを託していた。

その不思議な優しさに、私は胸を熱くした。


やがて、私はその手紙の差出人――本来の彼女と、再び会うことになった。


待ち合わせたカフェに現れた彼女は、もう“奥様”ではなかった。

けれど微笑んだ瞬間に、胸の奥が懐かしく疼いた。

レンタル期間中に共に過ごした、あの温もりを思い出させる笑顔だった。


「あなたが千鶴さんね……本当に、会えてよかった」


照れくさそうにそう言う彼女の声は、あの時と少しも変わっていなかった。


私は気づけば、立ち上がっていた。

そして衝動のままに、彼女を抱きしめていた。


レンタルという制度が生んだ、奇妙で不思議な縁。

でもそれを超えて――確かにここには、人と人との絆があった。


カフェの喧騒の中で、私たちはただ静かに、再会の抱擁を分かち合った。


再会の抱擁を交わしたあと、私たちはカフェを出た。

この五年間については、奥様が詳細な記録をつけていたらしい。

日々の献立や、娘の成長のこと、啓介の癖や口癖……。

その中には――私たちだけの“秘密の関係”についても、驚くほど赤裸々に残されていた。


彼女は真剣な表情で、記録を確認しながら笑った。

「ねぇ……ここ、見て。あなたと私が初めてキスした夜のこと、ちゃんと書いてあるの」


ページの端には小さな文字で、私にしか分からない印が残されていた。

それを指でなぞりながら、彼女は少し潤んだ目で私を見つめる。


「一緒にいてあげられなくて、ごめんね……」

掠れた声でそう言ったかと思うと、ふっと冗談めかして小さく拳を突き出した。

――あの夜、私を笑わせてくれた仕草。

それだけで、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。


普通なら、ここで別れるはずだった。

互いに「またね」と言って背を向け、もう二度と会わない――それが自然な結末だろう。


でも――気がつけば、意図的な無意識のまま、同じ方向に足を運んでいた。

角を曲がった先に、小さな、けれどやけに派手なホテルの看板が現れる。


目が合った瞬間、二人とも吹き出してしまった。


「……やっぱり、行こっか」

「……うん」


気づけば、もう止められなかった。


本来の彼女は、レンタル母としての落ち着きとはまるで違っていた。

情熱的で、貪欲で、こちらが追いつけないほどに――女だった。


私は笑いながら、思わず謝っていた。

「……ああ、啓介、ごめんね。

 でも、これはやめられなかったの」


その瞬間、また二人で笑い合った。

――悪い女たち。でも、それでいいのだと思えた。


最後に彼女はスマホを取り出し、悪戯っぽく笑った。


「……次は、あなたの啓介よりずっと“強敵”をお迎えしようかしら」


画面には、妙にカラフルでふざけた玩具の広告ページ。

彼女はわざと大げさに両手を広げてみせる。


「ちょっ……そんな冗談やめてくださいよ!」

私が慌てて叫ぶと、彼女はくすくす笑った。


「ふふ、冗談よ。……って、あら」

スマホを操作して……再度画面を私に見せる。


“注文を確定しました”の文字が浮かんでいた。


「ちょっ……ま、待ってくださいよ!? そんなの本当に届いたらどうするんですか!」


言葉の続きを言えず、顔が真っ赤になる。

それを見て、彼女はお腹を抱えて笑い出した。


「ふふっ……やっぱり千鶴さん、可愛いわねぇ」

「可愛いって……! 真剣に怖いんですけど!」


「到着は三日後みたい。楽しみねぇ」


「楽しみって……!」

思わず頭を抱える私を見て、彼女はさらに笑い声を上げた。


二人して吹き出し、声を上げて笑った。

冗談めいた軽口に、重すぎた記憶も罪悪感も、すべてひととき忘れてしまえるほどに。


――悪い女たちの関係は、まだまだ続くらしい。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

本作は「フェミナ・ライフサポート」という制度を舞台にした短編です。

失われた時間や歪んだ家族の形を描きながらも、根底には「愛」をテーマにしています。


もし楽しんでいただけたなら、ブックマークや感想をいただけると励みになります。

今後はこの世界観を掘り下げた本編の公開も予定していますので、ぜひお付き合いください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ