激安物件に現れる魚の破片について
やたらと家賃の安いアパートに引っ越してきたせいか、ずっと部屋の湿気が抜けなかった。窓を開けても、おそらく裏のドブ川からの生臭い風が入り込む。どうせ寝に帰ってくるだけの部屋だから値段相応で仕方ないと俺は諦めた。部屋にいるときは窓は開けずにエアコンをずっとつけておけばいいだろう、と引っ越し当初は思っていた。
引っ越しして1週間が経った。帰宅すると、玄関の床に小さな水たまりができていた。ここ数日、雨が降った記憶はない。上の階からの水漏れかと思ったが、天井には染みひとつない。それでもただの水たまりだと俺は気にも留めなかった。思えば、それが最初の異変だった。
それから少し経って、部屋に帰ってきた俺は異様な臭いに気が付いた。生き物が腐り果てるような、酸っぱくて生理的に受け付けがたい臭いが部屋全体に漂っている。俺は臭いの原因を探し、窓を開けて顔をしかめた。エアコンの室外機の脇に、そいつは転がっていた。
それは魚の頭だった。
半分乾きかけたそれは、銀色の皮はまだ光っているのに目玉は濁って口を半開きにして、何か言いたげに見えた。こんなとこに魚の頭だけなんて落ちているわけがない。カラスが運んだにしても、よりによってなんで俺のベランダに狙ったように落としていった? その時はただ気味が悪くて、ちょうど郵便受けに入っていたピザ屋のチラシに包んでビニール袋に入れて厳重に口を縛っておいた。
その晩、おかしな夢を見た。
緑色の川の底に、知らない誰かがうつ伏せに沈んでいた。全身にびっしりと魚が貼りついている。背中に吸い付くようにして、腹を食い破るようにして、白い肉を引き剝がしていく。ただ、魚の鱗だけが月明かりみたいに光っていた。
夢の中の俺は、裸足のそいつを見下ろしていた。そいつが川の底から浮かび上がってきて、俺を見上げたような気がする。俺はそいつを知っている気がするが、誰だか思い出せない。そのうち、俺の意識は川底に沈んでいた。無数の魚が俺を食い荒らす。やめろ、誰だ、俺をこんなところに引きずり込んだ奴は、俺は、魚は……。
目が覚めると、ひどい寝汗をかいていた。先ほどまで川に使っていたように全身がびしょ濡れだ。まだ魚に全身を食い荒らされるような生々しい感覚が手足に残っていた。俺は気分を変えるため、すぐシャワーを浴びた。たかが夢、気持ち悪いものを見たから気持ちの悪い夢を見た。そのときは、そう思い込もうとした。
翌日も部屋に帰ると異様な臭いがした。今度は室外機の上に大きな尾びれだけが切り取られたみたいに置かれていた。その次の日は三枚おろしにしたような半身。さらにその次の日は反対側の半身。そのせいか、連日例の悪夢にうなされた。耐えかねて管理会社に話をしたが、「カラスか野良猫だよ」と軽く笑われただけだった。
でも、これはカラスの仕業などではないと俺は確信していた。そこで証拠のためにバラバラの魚は全部まとめて紙に包んでビニール袋にしまっておいていた。俺がしつこく電話で被害を訴えたから「それじゃあ明後日伺いますので、そのいたずらの魚を見せてください」と管理会社のおじさんに言われたので、俺は少し安心した。その日はそれで全てが解決した気になって布団に潜りこんだ。これでもう怖い夢も見ないはずだ、と俺は油断していた。
夜中に嫌な臭いで目を覚ました。鼻の奥をえぐるような、強烈な生臭さが部屋中に漂っている。食事は全て外食で済ませている俺の部屋に生ごみはない。あるとすれば、例のバラバラ魚くらいだ。それも今はビニールの中で大人しくしているはずだとすると、この臭いは一体なんだ?
びちゃん びちゃん
廊下の向こうから、大きな水っぽい音が聞こえてきた。全身びしょ濡れの人間が体を引きずって裸足でやってくるような音だった。俺は布団の中で息をひそめた。その音の主が、俺を探している気がしたからだ。
びちゃん びちゃん
音が近づいてくるにつれて、生臭さが強くなっていく気がした。俺は布団を頭まで被り、音が聞こえなくなるのを待った。そしてその音は大きくなり、急に消えた。
おそらく、そいつは俺の部屋の前にいる。
そのことに気が付いて、俺は必死で寝たふりをした。心の中で知ってるお経を唱えて、「そいつ」がいなくなるのを待った。音はいつまで経っても再開されず、そいつがずっと俺のことを部屋のドア越しに見ていることが俺はたまらなく嫌だった。そうして、数時間ほどが過ぎた。そっと窓のほうを見ると、うっすらと空が白んでいるようだった。さすがにもういないだろうと、俺はカーテンを開けた。
そこに、全身魚まみれの「そいつ」がいた。
俺はそのままひっくり返って気を失った。
気が付くと、外はすっかり明るくなっていた。スマホを開くと、会社から鬼のように着信が来ていた。時刻は午前11時を過ぎた頃だった。俺は急いで会社に体調不良で気を失っていて、今日は休むという連絡をした。
間違いなく、昨夜の出来事は夢なんかではなかったと思う。連日届けられたバラバラの魚、謎の生臭さ、おかしな悪夢、そして俺の元へやってきたもの。ひとつだけはっきりしていることがあった。それは、俺はこのままこの部屋に住むことはできないということだった。
出費は厳しいが、当面ホテル暮らしをするために俺は荷物をまとめることにした。それから不動産屋に行って、新しい部屋を探すことにしよう。安物買いの銭失いとはまさにこのことだ、と心の中で嘆いていると押し入れの奥で何かが動いた音がした。
そこには、例のバラバラ魚を押し込んだビニール袋を入れていたはずだ。
意を決して押入れを開けると、中は洪水の後みたいにびっしょり濡れていた。俺のせいじゃないのにこれは敷金どころの騒ぎではないなと嫌なことを考えながら、俺は例のビニール袋を出した。そこから水がぽたぽたと滴って、押入れの床を濡らしているようだった。
よせばいいのに、俺はビニール袋を開けてしまった。中には、チラシに包まれた魚の頭、尾びれ、半身たちがあるはずだった。しかし、チラシをめくった瞬間、俺は尻もちをついた。中に入っていたのは魚じゃなかった。
小さな俺の頭だった。
子供の頭くらいの俺の生首はびっしょりと濡れていた。生気なく目は閉じられ、頬は真っ白で唇に血の気はなかった。声も出せないほど驚いていると、生首の俺は目をかっと見開いた。そして唇からごぼごぼごと水を吐き出し始めた。そいつは笑っているようだった。俺は凍り付いたように動けず、生首の吐く水を体に受け続けた。
やがて部屋は水で満たされ川となり、俺は水底に沈んでいった。どこかから魚が大量に泳いできて、俺を貪り喰い始めた。ああ、これはあの夢と一緒だと俺は他人事のように思いながら、ようやく「そいつ」のことを思い出した。
――ごめんよ、杉山。
どうしてすっかり忘れていたんだろう。あれは俺が7歳のときだった。夏休みで訪れていた祖母の家の裏にあった川は、普段は膝も濡らせないような浅瀬だった。俺は祖母の家の近くに住んでいるという杉山という同じ年頃の少年と一緒に連日その川で遊んでいた。
その日、俺たちは喧嘩をしてしまった。俺は杉山が持ってきた新しい水鉄砲がうらやましかったのだ。取り合いになってしまい、杉山が誤って水鉄砲を川に流してしまった。下流に流れていく水鉄砲を見ているうちに怖くなって、俺はその場から逃げ出してしまった。杉山の泣き声が後ろから聞こえた気がしたが、俺は聞かなかったことにした。
夜になって、俺は杉山が川に落ちたことを聞かされた。川岸にサンダルだけが残されていたことから、おそらくなくした水鉄砲を取りに行こうとしたのだろうということを大人は話していた。俺はどうしてあの時に喧嘩なんかしてしまったのかと後悔した。その日も一緒に楽しく遊べば、こんなことにはならなかったのに。
杉山が見つかったのは、それからしばらくしてだったそうだ。しばらく川底に沈んでいた杉山は最後に何を考えていたのだろう。俺のことを恨んでいたのではないだろうかとしばらく寝付けない日が続いた。俺はそれから祖母の家に行くことはなくなった。
改めて俺は「杉山」と向かい合った。あの日逃げてしまった俺のことを、杉山はずっと探していたのかもしれない。どんなに恨まれても、俺は仕方のないことをしてしまった。これは報いなんだ。杉山の川底で見ていた景色を、俺も見るべきなんだ。
今、俺は川の底にいる。無数の魚が泳いできて、俺という存在をむしり取ろうとしてくる。俺はまだ手の中にあった例の生首を抱きしめた。なんとなく、これだけは魚に食べられてはいけない気がした。これがなくなったら、俺は二度と川底から浮かび上がれない気がした。
息が出来ない。
体が押しつぶされる。
魚が体の中に入ってくる。
苦しい、とても苦しい。
体がバラバラになりそうなほど痛い。
ひとりぼっちで、とてもさみしい。
誰か、誰か助けて。
たまにふっと体が軽くなるような浮遊感があったが、後は魚に押しつぶされていた。ぬめりがあって生臭く、ぼろぼろと崩れる鱗にまみれて俺の命がどんどん削り取られていく。
俺の意識は川に流されて行った。魚はずっと俺にまとわりつき、俺を下流へと導いているようだった。どうすれば、俺は元の身体に戻れるのか。俺はずっと、このまま魚に食われ続けるのか。いい加減食い尽くされてもいいはずなのに、どうしてずっと魚は俺を食い続けるのだ?
なあ杉山、どうすれば俺は許されるんだ?
俺も魚になればいいのか?
魚になれば、もう食われなくてもいいんだよな?
俺を魚にしてくれ。頼む。
そう願って、俺は安寧を得ることができた。これでもうバラバラの魚にも生臭さにも悩まされることはない。俺の隣に、元気な魚がやってきた。もしかしたら、こいつは杉山かもしれない。俺たちは悠々と川底の石についた苔を食べ始めた。魚になるのも、悪いもんじゃないな。
ああ、なんだっけ。俺は何をしようとしていたんだっけ。そうだ、引っ越しだ。もうそんなの必要ないな。ここにはいっぱい仲間がいる。魚が、たくさんいるんだ。魚になってしまえば、もう魚なんか怖くない。ここしばらくゆっくり休めなかった俺は、ようやく眠ることができた。魚だから、瞼を閉じることはできなかったけれど。
***
「ああ、あの部屋の人、またすぐダメになったってね。いつもそうだよ、魚が、とかいいながらみんなすぐ飛んじまうんだ。今回の人も家財道具一切残して、タチが悪いね。でも新しい借り手はすぐ来るよ。なんてたって安いからね。ボラみたいにすぐ集まってくるさ」
<了>