七日目
七日目の朝、僕は一人だった。乾ききらない服を着て、陽菜は雨の中を帰って行ってしまった。
ベッドの脇には、彼女に貸したシャツとスウェットが丁寧に折りたたまれていた。
昨夜、僕は全てを話した。彼女は涙を流し、僕もまた、言葉にならない感情に涙した。
それでも、真実を分かち合ったことで、僕たちの間に、これまで以上の確かな絆が生まれた気がした。いや、これは僕の思い違い、ただの傲慢だと思う。けれど少なくとも僕は、このあと二度と陽菜と会えなくても、彼女を想い続けられるだろうと感じた。
学校に着くと、陽菜の席は空席だった。クラスメイトに聞いたら、体調が悪くて休んでいるとのことだった。
彼女が休むのは当然だろう。昨日のことを考えれば、学校に来られるはずがない。
けれど、陽菜のいない学校は、まるで色が失われたかのように空虚に感じられた。
クラスメイトたちの賑やかな声も、僕の耳には届かない。彼女の笑顔がないだけで、世界はこんなにも冷たくなるのか。
授業中も、陽菜のことばかり考えていた。
彼女は今、何をしているのだろう。
僕が伝えた真実に、どう向き合っているのだろう。そもそも、向き合ってくれているのかさえ、わからない。
僕が彼女を傷つけてしまったことは、紛れもない事実だ。その罪悪感が、僕の心を重くする。
午前の授業が終わる頃には、僕の体調も限界を迎えていた。
全身がだるく、頭がずきずきと痛む。肺が酸素を求めるように、激しく呼吸が乱れる。
担任の先生に「体調が悪いので早退します」と告げると先生は無理をせずかえって休みなさいと言ってくれた。
僕は早足で学校を後にした。このままアパートに帰っても、また一人で、死に向かう時間を待つだけだ。
少し早いけれど、すべてをあきらめて病院に戻るべきだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
アパートのドアに近づくと、僕は思わず立ち止まった。
そこには、スーパーのビニール袋を抱え、膝を抱きかかえるようにして座り込んでいる陽菜の姿があった。
僕を見つけた陽菜は、はっと顔を上げた。その瞳は、少し赤く腫れていたけれど、僕を見た瞬間、ふわりと微笑んだ。
「千晴くん……よかった。帰ってきてくれた」
僕は陽菜の隣にしゃがみ込み、彼女の顔を覗き込んだ。
「どうしてここに……風邪引くよ」
僕の言葉に、陽菜は首を横に振った。彼女の表情は、まだ悲しみの影を宿していたけれど、その瞳の奥には、優しい光が宿っていた。
「私、考えたの。昨日、千晴くんから全部聞いて……たくさん、泣いた。悲しかったし、どうしてって、何度も思った」
陽菜は、僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「でもね、千晴くん。私、思ったの。千晴くんがあと少ししか生きられないなら、その限られた時間を、私、千晴くんと幸せに過ごしたい。千晴くんと一緒に。千晴くんに、少しでも幸せになってほしい」
その言葉は、僕の心に深く突き刺さった。
僕が彼女を傷つけまいと必死で押し込めていた感情を、彼女は真っ直ぐに受け止め、そして、さらに大きな「愛」で返してくれた。
彼女の瞳は、悲しみを乗り越え、僕との時間を選ぼうとする優しい光を宿していた。
「私、そうしたいの。だから……」
陽菜は、僕の手をぎゅっと握った。相変わらず小さくて、柔らかくて、温かい。
「千晴くんが、嫌じゃなければ……ずっと、そばにいさせてほしい」
その言葉は、僕にとって、何よりも温かい贈り物だった。
僕が一方的に彼女を傷つけると思っていた。
僕の「恋」は自己愛から始まったものだった。けれど、今、陽菜が差し出してくれたのは、どんな悲しみも受け入れる覚悟を持った、真っ直ぐな「愛」だった。
僕の目に、熱いものがこみ上げる。彼女の強さが、僕の心を震わせた。
「陽菜……」
僕は、彼女の抱えていたスーパーのビニール袋を見た。中には、カレールーや、じゃがいも、人参、玉ねぎといった、カレーの材料が覗いていた。
「これ……今日は、カレー作ろうと思って」
陽菜は少しはにかんで言った。その声が、僕の心を温かく包み込む。
僕たちは部屋に入り、二人でカレーを作った。僕は野菜を切る係、陽菜は煮込んでかき混ぜる係。
キッチンに広がるカレーの香りが、僕の部屋に初めて、本当の「生活」の温もりをもたらしてくれた。
食卓を囲み、温かいカレーを食べる。テレビでは、お笑い番組が流れていた。くだらないギャグに、陽菜が楽しそうに笑う。僕も、つられて笑った。
それは、僕がこれまで経験したことのない、ありふれた、けれどかけがえのない時間だった。
カレーを食べ終え、僕が食器を片付けようとすると、陽菜が「私に任せて!」と言って、てきぱきと洗い始めた。
その姿を見ていると、胸がポカポカとあたたかくなった。何気なく生きる、けれど大切な一日。大好きな陽菜と過ごせた、最高の一日。
夜になり、陽菜を家の近くまで送っていくことにした。
外は昨日に続き、しとしとと雨が降っていた。僕が傘を差し出すと、陽菜は僕の腕にそっと自分の腕を絡ませてきた。
二人で一つの傘に入り、ゆっくりと歩く。
「今日は、本当にありがとう、千晴くん」
陽菜は、僕を見上げて言った。その瞳は、雨の夜でも輝いていた。
「おいしかった。ありがとう、陽菜。今日は本当に楽しかった」
僕は笑いながら、彼女の手をぎゅっと握り返した。僕の心は、彼女の強さと優しさで満たされていた。
彼女の家の前まで来ると、陽菜は僕の腕からそっと離れた。
「じゃあ、また明日ね、千晴くん」
その言葉に、僕は驚いた。また明日。当たり前の言葉なのに、僕にとっては、これまで決して口にすることのできない言葉だった。
だけど、今なら、素直に言える。
「また、明日」
僕の口から出た言葉は、確かに僕の本心だった。陽菜は、僕の言葉に満足そうに頷くと、ぴょんぴょん跳ねながら帰っていった。
七日目が終わった。