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六日目 後半

 私がシャワーをもらったあと、千晴くんも結構濡れていたから、シャワーしてきなよ、と言ったら、彼は少しもじもじしてからシャワーを浴びに行った。


 バスルームのドアが閉まる音を聞いてから、私はふーっとと息を吐いた。


 身体は温まり、私は千晴くんが貸してくれたシャツとスウェットをびよんびよんと伸ばしていた。


 私の体にはダボダボで、それでもなんだか安心する。同じ石鹸を使っているはずなのに、服からは甘い香りはせずどこか――たぶん、男の人の匂いがした。


 千晴くんの部屋は、シンプルで、あまり物がない。一人暮らしだから、きっときれい好きなんだな、なんて思いながら、私は部屋を見渡した。


 ふと、部屋の隅に、まるで投げられたかのように無造作に置かれた書類の束が目に入った。


「片付けてあげよ」


 せめてもの恩返しと思って、私はその書類に手を伸ばした。千晴くんがシャワーを浴びている間に、少しでも役に立ちたかった。


 綺麗に揃えて、テーブルに置いてあげよう。


 書類を手に取り、一枚一枚、整えていく。いくつかの見慣れない単語が並んでいたけれど、きちんと重ねていけば問題ないはず。


 しかし、一番上にあった書類を手に取った瞬間、私の指が止まった。


 そこには、数日前に見た言葉が、はっきりと印刷されていたのだ。


『厚生労働省』


 その文字を見た途端、私の心臓がドクン、と大きく鳴った。二日前の体育の時間、保健室で見たあの薬のビン。ラベルに書かれていた、見慣れない五文字。


 まるで、体が凍り付いたように動けなくなった。その下の文字に、私の視線は吸い寄せられる。






『若年者終活サポート事業』






 終活? それって、おじいちゃんとかおばあちゃんとかがする――


 その単語が意味するものは、あまりにも重すぎた。


 まるで、さっきの大雨の中に戻ったように、寒気が止まらない。


 自分の顔から、みるみるうちに血の気が引いていくのが分かった。


 手から書類が滑り落ちそうになるのを、必死で押さえつけた。


 まさか。そんなこと、あるはずがない。


 だけど、同時に、これまで感じていたすべての違和感が、一本の線で繋がっていくような感覚に襲われた。


 急な体調不良。見慣れない薬。そして、病状を深く語ろうとしない千晴くんの態度。


「これって……? ち、千晴くん、し……し……しん……」


 震える声で、私はその単語を口にしようとした。でも、どうしても認めたくなくて、それだけはできなくて、私は書類を取り落とした。


 バスルームから、シャワーの音が止まったのが聞こえる。ドアが開く音。


 千晴くんが、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる足音が聞こえる。


 彼の足音が、私の心臓の音に合わせて、近づいてくる。


「陽菜、どうしたの?」


 千晴くんの声が、私を現実に引き戻した。彼の顔は、シャワーを浴びたばかりで少しだけ上気している。その顔が、私にはまるで、遠い世界にいる人のように見えた。


 私は、手に持っていた書類を、震える手で彼に差し出した。


「こ、れ……これ、何……?」


 私の言葉を聞いた途端、千晴くんの顔が真っ青になるのがわかった。彼の瞳に、諦めと、そして深い悲しみが宿った。






「……ビンを、見られたときから、こうなると思っていたんだ」


 彼は、絞り出すような声で言った。その言葉は、私の疑問を肯定していた。


 彼は、ゆっくりと、すべてを話し始めた。


 不治の病であること。


 学校に戻ってきたとき、すでに余命が十日だったこと。


 病院での生活、そして厚生労働省が用意したこの部屋のこと。


 そして、誰にも知られずに、一人で静かに死を迎えようとしていたこと。


 彼の言葉は、私の耳には、まるで遠い世界の物語のように響いた。けれど、一つ一つの単語が、私の心臓を深く抉っていく。


「だから……だから、週末の遠出も断ったんだ。きっと体調を崩して、陽菜が心配するだろうから……。陽菜を……これ以上、巻き込みたくなかった」


 彼の声が、震えている。彼は、目を伏せ、唇を固く結んでいた。


 私の目から、止めどなく涙が溢れ落ちた。彼の言葉が、私の知っていた千晴くんの全てを、一瞬で変えてしまった。


 優しくて、少し不器用で、だけどいつも私を温かく包んでくれた彼が、こんなにも重い秘密を抱えていたなんて。


「どうして……どうして、教えてくれなかったの?」


 私の声は、もはや嗚咽で掠れていた。彼の胸を、何度も叩いた。


「どうして……っ、私、千晴くんのことが、好きなのに……!」


 彼を突き放すべきだったのだろうか。彼が、私を傷つけたくないと思って、私に秘密にしていたのなら、私も彼の気持ちを汲み取るべきだったのだろうか。


 だけど、そんなことは、考えられなかった。


 彼の死を受け入れるなんて、私にはできない。


 残された時間が、あまりにも少なすぎる。


 彼は、僕の震える両手を優しく包み込んだ。その手は、冷たかった。


「ごめん……本当に、ごめん。陽菜を傷つけるって分かっていたのに、君の温かさに触れたくて、僕の、ただのわがままだったんだ」


 彼の瞳からも、涙が溢れていた。千晴くんも、私を苦しませているってつらかったんだ。


 雨音だけが響く部屋で、私たちは、ただ抱きしめ合った。もうそれしかできなかった。私の命を半分あげるから、彼と一緒にいさせてください、なんてバカなことを神様に祈った。


 私が初めて告白した「恋」は、もうすぐ終わってしまうんだ。


 彼との六日目が終わってしまった。

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