六日目 前半
窓を叩く雨音が、僕の部屋に響き渡る。最近、こんな激しい雨の日は少なかった気がする。屋根をバタバタとたたき続ける雨音は、僕の心を静かに沈ませた。
次に、こんな雨の降る日を迎えることは、僕にはもうないだろう。そう思うと、雨音さえも、僕の限られた命を刻む音のように聞こえた。
窓の外を見つめながら、僕は冷たい雨のように心に染み渡る孤独を感じていた。
昨日――土曜日は、陽菜との穏やかな時間だった。
公園で手をつなぎ、カフェで他愛ない話をした。その中で、僕の心は確かに「恋」から「愛」へと変わり始めた。
彼女から幸せをもらいたいという気持ちと、彼女の幸せを願う気持ちが、僕の胸に芽生えた。
だけど、その「愛」は、同時に僕を縛りつける鎖でもある。彼女を深く愛せば愛するほど、僕が彼女に残す傷は大きくなる。この矛盾が、僕の心を締め付ける。
雨音だけが響く部屋で、僕はただ、陽菜のことを考え続けていた。
「……陽菜」
彼女の名前をつぶやく。なにをするでもなく。ただ、彼女の名前を、音として聞くために。
その時、スマートフォンの着信音が、静寂を破った。ディスプレイに表示されたのは、「陽菜」の文字。僕は、少し戸惑いながらも、通話ボタンを押した。
「もしもし、陽菜?」
『千晴くん! ご、ごめんね、急に電話して!』
陽菜の声は、いつもより少し焦っているようだった。そして、なぜか、ざわざわとした雑音が混じっている。
『あの、今、近くで大雨に降られちゃって……びしょ濡れになっちゃったの。それで、千晴くんの家が近いって思って、もしよかったら、少しだけ雨宿りさせてもらえないかな……?』
陽菜の声は、雨音にかき消されそうになるほどか細かった。びしょ濡れ? 近く?
僕は慌てて窓の外を見た。確かに、外の雨は勢いを増し、土砂降りと言っていいほど激しくなっている。彼女は、きっと雨宿りできる場所を探しているうちに、僕の家の近くまで来てしまったのだろう。
一瞬、ためらいがよぎった。陽菜を、僕の部屋に入れる? それは、何かの拍子に僕の死が近づいていることを、より意識させることにならないか。
彼女を、これ以上僕の世界に踏み込ませてはいけない。理性が、強く警鐘を鳴らす。
だが、そんな理性を打ち破るように、僕の心は彼女を拒むことを許さなかった。冷たい雨の中に立ち尽くす彼女を想像するだけで、胸が痛む。
陽菜をこのままにしておくことなんて、大好きな人を雨ざらしにすることなんて、できるはずがなかった。
「分かった。今から、傘持って迎えに行くよ。どこにいる?」
僕は、自分で思っていたよりもずっと優しい声を出せた。陽菜の声が、電話の向こうで少し弾む。
『え、いいの!? ありがとう! 駅前のコンビニのところ!』
僕は電話を切ると、すぐに玄関へ向かった。傘を手に、スニーカーを履く。体が少し重かったが、陽菜が、大好きな子が待っていると思うと、不思議と力が湧いてくるようだった。
駅前のコンビニまで行くと、雨に濡れて寒そうに震えている陽菜が、小さく縮こまっていた。
陽菜は体じゅうがびしょ濡れになっていた。彼女の髪は体にまとわりつき、白いブラウスも体にくっついている。ひどい姿だ。早く何とかしないと。
「陽菜、来たよ! 大丈夫?」
僕は彼女に駆け寄り、傘を差し出す。陽菜は、僕の顔を見ると、安堵したように息を吐いた。
「千晴くん……来てくれて、ありがとう」
彼女の唇は、すっかり青ざめていた。こんなに濡れていれば、寒くて仕方がないだろう。僕は、自分の傘を彼女に差し出し、肩を抱くようにして、僕のアパートへと引き返した。
冷たい雨が容赦なく僕たちの肌を打ちつける。早く、あたたかい場所へ。
アパートのドアを開け、二人で中に入る。外とは違う室内の空気が、冷え切った陽菜の体を包み込む。彼女は、ほっとしたように息を吐いた。
「これを使って」僕は陽菜にバスタオルを差し出した。
「わ、温かい……ありがとう、千晴くん」
僕の視線は、びしょ濡れになった彼女の服に注がれた。透ける白いブラウス、張り付くスカート。彼女の体が、寒さで小さく震えている。このままでは、風邪を引いてしまう。
「陽菜、シャワー、浴びた方がいいよ。風邪ひいちゃう」
僕の口から、自然とそんな言葉が出ていた。陽菜は、少し驚いたように僕を見上げた。そして、困ったように視線をそらした。
「え、でも……着替え、ないし」
「僕の服でよければ、何か貸せるものがあるかもしれない。とにかく、体を温めた方がいいよ」
陽菜は、少し迷った後、小さく頷いた。
「こっちだから」バスルームへと続く扉を指差しながら、僕は陽菜に新しいタオルを差し出した。
彼女がバスルームに入っていく後ろ姿を見送りながら、僕の心臓は激しく高鳴っていた。普段、一人暮らしのこの部屋に、陽菜がいる。シャワーを浴びている。その事実が、僕の中で男としての感情を呼び起こす。
しばらくして、バスルームのドアが開き、湯気をまとった陽菜が姿を現した。
僕の部屋にはドライヤーがないから、彼女の髪はまだ濡れていた。水気が抜けきらず、しっとりと肌に張り付いている。そこから、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
僕が普段使っている石鹸と同じはずなのに、陽菜から香るそれは、なぜか僕の嗅いだことのない、柔らかな甘さを帯びていた。
そして、陽菜は僕が貸したシャツとスウェットに着替えた。彼女は僕よりもずっと小柄なので、シャツがダボダボになって伸びている。
その姿がなんだか幼く見えて、同時に、妙に色っぽかった。少しだけ見えている鎖骨の線が、僕の視線を吸い寄せる。長い髪のあいだから見える、白いうなじ。僕は言いようのない感情を覚えた。
艶やかな体が色っぽくて、逆にモコモコした姿は愛らしくて、僕は思わず笑ってしまった。
「なんで笑ってるの、千晴くん?」
「かわいいから」
「もう! ……でも、千晴くんが可愛いって言ってくれるなら、いっか」
陽菜が微笑む。大雨の中、陽菜の笑顔だけがまぶしい。
彼女を抱きしめたい。このまま、時間が止まってしまえばいいのに。
しかし、その感情が強くなればなるほど、僕の心は冷えていく。これ以上、彼女に踏み込んではいけない。
僕が彼女に与えられるのは、たった数日間の「恋」だけだ。それ以上を望めば、彼女の心に取り返しのつかない傷を負わせてしまう。
僕は、固く拳を握りしめ、冷たくなった床を見つめた。僕の「愛」は、彼女の幸せを願うこと。僕自身の欲望を満たすことではない。
そうわかっているのに、僕は与えてから去りたいのに。恋をしてはいけないのに。
僕は、彼女に恋をしていた。