四日目
四日目の朝、みんなはどこか浮足立っていた。今日は金曜日だ。明日から週末だという、生徒たちの高揚感が校舎全体に満ちているようだった。
「ねえ、週末何するの?」
「友達と遊びに行くんだ!」
「あのアクセまだあるかな!?」
そんな会話が教室のあちこちで聞こえてくる。
僕の耳にも、彼らの弾んだ声が届く。僕も、あと一回だけ週末を楽しむことができるわけだ。
あと一回だけ、でも一回は。それが僕の心をわずかに癒してくれた。
……でも、そんなに上手くいくものだろうか。
昨日の体育の授業での出来事が、頭から離れない。
陽菜に心配をかけ、そしてあの薬のビンを見られてしまった。彼女の瞳に浮かんだ違和感を、僕は見逃さなかった。
純粋な陽菜の心を踏みにじって、自分の恋愛体験に利用して、幸せな最期をむかえたいのでは? 自身に芽生えたそんな疑問を、僕は消せないでいる。
陽菜は、僕の隣の席で、いつもより少しばかり俯きがちだった。休み時間になると、他のクラスメイトは週末の計画を話し合っているけれど、彼女は僕の顔をちらちらと見るだけで、何も話しかけてこない。
……陽菜は何を考えているのだろう。
*****
昨日の千晴くんのことが、ずっと頭から離れない。体育の授業で倒れそうになったこと。そして、あの薬のビン。
普通の病気なら「こもれび医院」とか「南北病院」のような、そんなラベルが張られているはず。『厚生労働省』って書いてあるビンなんて、いままでみたことない。病院の名前が書いてないなんて、どうしてだろう。千晴くんは、一体どんな病気なんだろう? 私には何も教えてくれない。
今日、教室は金曜日独特の、少し浮かれた空気で満たされている。みんなが週末の予定を話して、楽しそうに笑っている。
私も本当なら、千晴くんと週末どこかに行きたい。手を繋いで、もっと色々な場所を歩きたい。だけど……。
昨日の千晴くんの苦しそうな顔が、脳裏に焼き付いている。
無理をさせてしまったら、また倒れてしまうかもしれない。私のわがままで、彼を困らせたくない。でも、このまま何もしないでいるのは、もっと嫌だ。
彼のそばにもっといたい。もっと、もっと。
どうしよう。週末、千晴くんと会いたいけれど、なんて言えばいいんだろう。彼の体調を気遣いつつ、誘うにはどうしたらいいんだろう。私は彼の隣で、心の中で何度も言葉を探した。
*****
昼休み、賑やかな教室を抜け出し、僕は一人で図書室へ向かった。
静かな空間で、僕は窓から差し込む光を浴びながら、少しでも気分を落ち着かせたかった。
本棚の間をゆっくりと歩き、適当に手に取った小説のページをめくる。
文字を目で追っているけれど、内容はほとんど頭に入ってこない。
その時、僕の視界の端に、見慣れた姿が映った。陽菜だ。
彼女は、僕の少し離れた場所に立って、じっとこちらを見ていた。
僕と目が合うと、彼女は一瞬、戸惑ったように目を泳がせたが、すぐに意を決したように僕の元へ歩み寄ってきた。
「千晴くん、やっぱり、ここにいたんだ。なんとなく、静かなところが好きなんじゃないかって」
陽菜の声は、少し震えていた。彼女は手に一冊の雑誌を抱えている。このあたりで配られているタウン誌だ。
「あのね、千晴くん。週末のことなんだけど……」
陽菜は俯き、雑誌のページをめくりながら言った。彼女は、僕が行きたい場所を示してくれると期待しているのだろう。
「もし、よかったらなんだけど、千晴くん、どこか行きたいところとか、ある?」
僕は、彼女の優しい誘いに、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
本当は、彼女とどこへでも行きたかった。どこか遠くまで、二人きりで。
しかし、それは許されない。身体が、そして時間が、それを許さないのだ。
彼女を悲しませたくない。これ以上、僕の病気で彼女を振り回したくない。
そう思うのに、彼女のまっすぐな瞳を見ると、どうしても突き放すことができない。
僕は、素早く言葉を返した。彼女を傷つけずに断る、言い訳にも近い理由を。
「ごめん、陽菜。週末は……遠出は、ちょっと難しいかもしれない」
僕の言葉に、陽菜の表情が、一瞬で凍り付いたように見えた。
彼女の瞳から、光が失われていくのが分かった。手にしていたタウン誌をぎゅっと握りしめている。
僕の言葉が、また彼女を傷つけてしまった。その事実に、僕の心は激しく痛んだ。
このまま、彼女を失望させてしまうのだろうか。
たった十日間の恋なのに、僕はもう、何度も何度も陽菜を傷つけている。
僕の人生は、ずっと孤独だった。誰かに迷惑をかけることもなく、誰かの心を傷つけることもなく、ひっそりと終わるはずだった。
なのに、クラスメイト達の輪に迎えられ、陽菜と出会ってから、僕の世界は大きく変わってしまった。温かさを知ってしまった僕は、同時に、人を傷つけることの痛みを知った。
図書室に流れる時間が、重く、沈黙が二人の間に横たわる。このままではいけない。僕に残された時間は、彼女と過ごせる時間は、もうほとんど残されていないのだ。
僕の口から、無意識のうちに言葉が漏れた。
「……だけど、もし、陽菜がよかったらだけど……明日、近場でよければ、どこか行かないか?」
陽菜は、はっと顔を上げた。彼女の瞳に、再び光が灯る。その表情は、僕の言葉が彼女にとってどれほど重要だったかを物語っていた。
「うん! 行く! 一緒に行こう!」
彼女は、先ほどの寂しそうな顔が嘘のように、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見るたび、僕の心は揺さぶられる。彼女の笑顔のために、僕はどこまでこの嘘を続けられるだろう。
放課後、僕たちは図書室を後にした。夕焼けに染まる校舎の廊下を、二人並んで歩く。
賑やかだった昼間とは打って変わり、静まり返った校舎に僕たちの足音だけが響く。校門を出ると、街の喧騒が僕たちを迎えた。
陽菜は、少しだけ躊躇するような仕草を見せた後、僕の袖を小さく引いた。僕はすぐに彼女の意図を察し、自分の手を差し出す。彼女の小さな手が、すっぽりと僕の手に収まった。
陽菜の手は、小さくて、柔らかくて、そして、やっぱりすごく温かかった。病状が悪化し、さらに冷え切った僕の指先に、彼女の体温がじわりと伝わってくる。それは、僕がずっと求めていた、けれど諦めていた「温もり」そのものだった。
繋がれた手。それだけで、僕たちの心は通じ合っているようだった。言葉は必要ない。ただ、この温かい手が、僕の最期を少しでも彩ってくれるのなら。
僕と陽菜の「恋」は、まだ始まったばかりだ。けれど、もうすぐ終わってしまう。
四日目が終わった。