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三日目

 三日目の朝、僕の意識は温かさで満たされていた。きっと陽菜の体温のが残っていたのだと思う。


 薄手のカーテンの隙間から差し込む朝日に、今日の天気は晴れだと知る。


 窓を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。清々しい朝だ。だけど、意識の温かさとは裏腹に、僕の胸の奥には、変わらず冷たい鉛が沈んでいた。


 残された時間は、朝起きるたびに減っていくのだから。


 学校に着くと、クラスメイトたちが僕に声をかけてきた。「おはよう!」「体調どう?」そんな温かい言葉が、僕の罪悪感を刺激する。


 彼らの笑顔を見るたび、僕がこの嘘をいつまで続けることができるのか、自問自答した。


 午前の授業が終わり、五時間目の体育の時間になった。僕は体操服に着替えるため更衣室へ向かう。


 身体は少しだるかったけれど、少し走ったりするくらいはできると思う。


 更衣室のドアを開けると、ちょうど女子更衣室から出てきた陽菜と鉢合わせになった。彼女は僕を見て、少しはにかんだように笑った。


「千晴くん、無理しなくていいからね。見学もできるし……」


 陽菜の気遣いは、僕の心を温かくする。同時に、僕に力を与えてくれた。僕はまだ、生きている。まだ、やれることがあるはずだ。昨日、彼女と繋がれた手の温もりが、僕を奮い立たせていた。


「大丈夫だよ。少しでも動いておきたいから」


 僕は笑顔で答えた。僕にわずかに残された、短く小さな命。


 それでも、彼女と出会えたことで、僕は何かを成し遂げたい、と強く思うようになっていた。せめて、彼女に普通の男の子として接してもらいたい。その一心だった。


 グラウンドに出ると、サッカーボールが弾む音が響いていた。今日はサッカーをするらしい。見慣れた光景の中に、僕も加わろうとする。


 病気の僕に、担任の教師が心配そうに声をかけてきたが、「少しなら大丈夫です」と答えた。


 パス練習が始まった。僕はゆっくりとボールを追いかける。なんとか、ボールを蹴ることができた。クラスメイトとパスを交換する。


 その瞬間、自分が本当にこの場にいるのだという、奇妙な実感が湧き上がった。


 この時間が、永遠に続けばいいのに。――生きていければ、いいのに。


 しかし、現実はどこまでも無慈悲だった。


 ほんの数分、ボールを追いかけただけで、肺が悲鳴を上げた。足は鉛のように重く、呼吸はすぐに乱れる。全身の細胞が酸素を求め、激しく震え始めた。視野が歪み、体がどちらを向いているかもわからない。


「千晴くん! 千晴君! 先生……千晴くんが!」


 陽菜の声が、遠くから聞こえた。僕は、もう立っていられなかった。膝から崩れ落ち、そのままグラウンドの土の上に倒れ込む。


 瞬間、クラスメイトたちのざわめきと、陽菜の焦った声が耳に届いた。


 僕の身体は、僕の意志に反して、確実に死へと向かっているのだと、引き返すことはできないのだと理解した。






 グラウンドに養護教諭が走ってきて、僕の状態を確かめてくれた。


 陽菜が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。その瞳には、不安と恐怖が宿っていた。彼女に、こんな顔をさせてしまっている。


 その事実に、僕の心は締め付けられた。養護教諭が僕を抱きかかえ、陽菜も肩を貸してくれて、何とか保健室へとたどり着いた。


 保健室のベッドに横たわると、ひんやりとしたシーツが心地よかった。身体の震えはまだ収まらないが、呼吸は少しずつ落ち着いてきた。陽菜が、僕の横に座って、その手を優しく握ってくれていた。


「ごめんね、無理しちゃって」


 僕は掠れた声で謝った。陽菜は首を横に振る。


「謝ることなんてないよ。心配したけど……でも、千晴くん、頑張ってた」


 その言葉が、僕の胸にじんわりと染みた。陽菜には、僕の努力が決死のものだったとはわからないだろう。


 それでも、僕の努力を肯定してくれている。わずかな努力でも、褒めてくれる陽菜の優しさが本当にうれしい。


 養護教諭が、棚から薬箱を取り出そうとして、ふと陽菜の方に目を向けた。彼女の顔には、事情を理解している者の複雑な表情が浮かんでいた。


「佐倉さん、悪いけれど、彼の薬を教室まで取りに行ってきてくれるかしら? 彼のカバンの中、白い薬局の袋に入っているはずよ。赤と黄色のカプセルが入ったビンがあるから」


「わかり、わかりました!」


 陽菜は走って保健室を出て行った。


「先生……ご存じなんですね」僕は顔だけを動かして先生のほうを見た。


「……ごめんなさい。でも、生徒を守るものとして、知っておかなければならなかったの。許して……」


「いえ、ありがとうございます」


「でも、佐倉さんを行かせてしまったのは、私のミスだったわ。ごめんなさい」


「……陽菜が、気づかないでくれることを祈ります」


 僕は力なく笑った。




 *****




 養護教諭さんの言葉に、私は少し戸惑った。


 薬?  千晴くん、やっぱり特別な病気なんだろうか。心配で胸が締め付けられたけれど、すぐに頷いた。千晴くんは少しだけ目を逸らしたように見えたけれど、私は気にしないように努めた。


 私はすぐに保健室を飛び出し、教室へと駆け戻った。生徒は誰もいない。


 千晴くんの机に向かう。彼の机の横に置いてあったリュックに手を伸ばし、中を探すと、確かに白い薬局の袋が見つかった。


 中には、養護教諭さんが言った通りの、赤と黄色のカプセルが入った小さなビンがあった。


 私はビンを取り出し、持って帰ろうとする。その時、視線が、ビンのラベルに吸い寄せられた。


『厚生労働省』


 普通の薬のビンには、処方した病院名や薬局名、それに患者の名前や薬の飲み方が細かく書かれているはずだ。私が知っている薬のビンは、どれもそうだった。


 だけど、このビンのラベルには、病院名ではなく、はっきりと、『厚生労働省』と書かれている。それ以外の情報は、最小限の文字でしか書かれていない。


 これは何なんだろう。妙に簡素なラベル。病院名がないこと。


 そして、『厚生労働省』という、教科書くらいでしか見ない組織の名前。大きな疑問と違和感が私を包み込む。


 千晴くんは、一体何の薬を飲んでいるのだろう。私の知っている病気とは違う、何か特別なものなのだろうか。


 私は首をかしげながらも、保健室に戻り、養護教諭にビンを渡した。


 養護教諭さんは特に気にする様子もなく、ビンからカプセルを取り出し、千晴くんに差し出した。千晴くんは、それを無言で受け取り、水で飲み込んだ。


 千晴君の顔に血の気が戻り、呼吸が静かになっていくのがわかった。よかった。


 私はその後も何度か、ビンのラベルに書かれた五文字を思い出していた。千晴くんの病気について、まだ私は何も知らない。でも、彼の体調の悪さと、この奇妙な薬が、私の心に大きな引っかかりを残した。


 私は、大きな疑問を感じていた。でもそれがなんなのか、わからない。




 *****






 ……大変な一日だった。無理なことは無理だと言おう。でないと、最後の恋で陽菜を余計に不安にさせてしまう。






 三日目が終わった。

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