二日目
二日目の朝、僕の意識は妙に冴え渡っていた。
陽菜とのあのやり取りが、昨夜からずっと頭の中を駆け巡っていたからだろう。
僕の心は、罪悪感と、一方で押し寄せる甘やかな期待とが複雑に絡み合っていた。
教室は昨日と変わらず、活気に満ちていた。
チャイムが鳴り、授業が始まる。教科書を開き、ノートにペンを走らせる。
どれもこれも、当たり前の光景。だけど、僕にとっては、その全てがすごく尊いものに感じられた。
先生の声、クラスメイトの笑い声、窓から差し込む柔らかな太陽。
これら全てが、もうすぐ手の届かないものになる。その現実からは逃れられない。だから、逃げずにいなければ。
昼休み、僕と陽菜は連れ立って売店へと向かった。
賑やかな声が飛び交う売店で、陽菜は少しはにかみながら「何にする?」と聞いてきた。僕は照れくさそうに「なんでもいいよ」と答え、結局、陽菜が選んでくれたあんぱんを手に取る。
教室に戻ると、クラスメイトの輪の中に陽菜と僕が並んで座り、パンを頬張った。他愛ない話に花が咲く。
昨日の出来事をからかう声が飛んできたけれど、陽菜は「もう、みんな!」と頬を膨らませるだけで、その顔は嬉しそうだった。
そんな陽菜の姿を見ていると、僕の胸に温かいものが広がっていく。
この温もりの中で、僕はただのクラスメイトの一人として、彼らと同じ時間を過ごしている。それは、僕がすっかり忘れていた、幸福な時間だった。
けれど、幸福な時間には、必ず終わりが来る。
昼食の後、僕はそっと教室を抜け出した。
人目の少ない廊下の隅で、リュックサックのポケットから小さな薬瓶を取り出す。
厚生労働省の担当者から渡された、赤と黄色の、少し毒々しい色のカプセルが入っていた。
『身体の機能を、可能な限り維持するためのものです。それでも維持できるのはやはり、十日前後です……』
担当者の言葉が頭の中によみがえる。これは、僕の命を僅かでも繋ぎ止めるための薬。
同時に、僕がもうすぐ死ぬという現実に、否応なく引き摺り戻すものだ。
手のひらに一錠取り出し、無表情で口に放り込む。水なしで飲み込んだ錠剤は、苦くて、鉛のように重かった。
喉を通るたびに、まるで砂時計の砂が落ちるように、残された時間が確実に減っていくのがわかる。
僕の身体は、この薬を求めている。生きるために。でも、生きれば生きるほど、終わりは近づく。この矛盾が、僕の心を蝕む。
放課後、クラスメイトたちが意気揚々と教室を出ていく。賑やかだった教室が、少しずつ静かになっていく。誰もいなくなってから、僕はゆっくりと立ち上がり掃除用ロッカーに向かった。
雑巾を取り出し、丁寧に机の表面を拭き上げる。筆箱の中を整理し、教科書をきちんと棚にしまう。
まるで、この世を去るための準備をするかのように。
僕がいなくなった後、誰かに迷惑をかけたくなかった。僕がここにいた痕跡を、少しでも綺麗にしておきたかった。
みんなが楽しく勉強したり笑いあっているこの教室で、僕が死んでいく準備を整えているなんて、誰にも知られたくなかった。
窓の外は、夕焼けに染まり始めていた。教室がすっかり静まり返った頃、僕はふと、物音に気づいた。
コンコン、と、教室のドアが小さくノックされる。
「千晴くん?」
陽菜の声だ。
驚いてドアの方を振り向くと、陽菜が心配そうな顔で立っていた。彼女の白いブラウスは、夕焼け色に染まっている。
「みんな、もう帰っちゃったよ? どうしたの?」
陽菜は僕の机が綺麗に拭かれているのを見て、少し不思議そうな顔をした。僕は咄嗟に「ああ、ちょっと忘れ物をしてて」とごまかす。
「そっか。あのね、門で待ってたんだけど、千晴くんが全然出てこないから、もしかして、って思って」
彼女の言葉に、胸が締め付けられる。僕がひっそりと死の準備をしている間も、彼女は僕を待っていてくれた。
その優しさが、僕の心を温めると同時に、さらに深く傷つけていく。この子の気持ちに、僕はいつまで応えてあげられるだろう。
「ごめん、待たせちゃったね。もう帰ろうか」
僕は鞄を肩にかけ、陽菜と共に教室を出た。廊下を歩く二人の足音だけが響く。夕暮れの校舎は、昼間の賑やかさとは打って変わって、どこか物悲しい雰囲気を漂わせていた。
校門を出て、人通りの少ない道を二人並んで歩く。陽菜は、時折僕の方をちらりと見ては、何か言いたそうに口を開き、また閉じる。
しばらく歩いた後、陽菜が小さな声で言った。
「あのね、千晴くん」
「ん?」
「私……手、繋いで帰りたいな、なんて」
彼女の顔は、夕焼けの色よりもずっと赤く染まっていた。俯き加減で、指先をもじもじさせている。その仕草が、あまりにも可愛らしくて、僕は思わず笑ってしまった。
「……いいよ」
僕がそう言うと、陽菜は弾かれたように顔を上げた。彼女の瞳が、きらきらと輝く。そして、次の瞬間、僕の手は、温かいものに包まれていた。
陽菜の手は、小さくて、柔らかくて、そして、とても温かかった。僕の冷え切った指先に、彼女の体温がじわりと伝わってくる。それは、僕がずっと求めていた、けれど諦めていた『温もり』そのものだった。
手を繋いで歩く僕たちの間には、言葉は必要なかった。ただ、繋がれた手の温かさだけが、僕たちの距離を縮めていく。
この温かさを、僕はわずかな時間しか感じることができない。その事実が、僕の心をきつく締め付ける。
それでも、僕は、この温もりを拒むことはできなかった。
罪悪感も、後悔も、今はどうでもいい。
ただ、この温かい手が、陽菜の体温が、いまはただ欲しかった。
僕と陽菜の「恋」は、まだ始まったばかりだ。
二日目が終わった。