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一日目

 退院の日、つまり一日目、僕はかつて通っていた学校へと足を踏み入れた。


 長い入院生活で、身体はすっかり痩せ細ってしまったけれど、制服はなんとか着ることができた。


 退学届けを出していなかったのは幸いだった。敷地内への入門証がまだ使えたので、こうして学校に入れる。


 校門をくぐる。見慣れた校舎、賑やかな生徒たちの声。まるで、自分が病に侵される前の、あの頃に戻ったような錯覚に陥った。


 けれど、この身体がその錯覚を打ち砕く。一歩進むごとに、肺が酸素を求めるように苦しくなった。


 職員室のドアを開けると、入院前からずっと心配してくれた先生が僕を見た。眼鏡でボブカットの凛とした女性。けれど、彼女が担任になることは、もうない。


「千晴くん! よかった、もう身体は平気なの?」


 僕が休学届けを出していたことを先生は知っていて、何度も病室にお見舞いに来てくれた。ただ、さすがに『あと十日の命です』ということは知らされていなかったらしい。


 僕は、平静を装って「少し調子が良くなったので、病院の先生の許可をもらって顔を出しました」とだけ伝えた。深く事情を詮索されるのは避けたかった。


 その日のうちに、僕が学校に来ているという情報は、あっという間にクラスどころかに学校中に広まった。休み時間になると、教室のドアから生徒たちが次々と顔を覗かせる。


「千晴、久しぶりじゃん!」


「千晴くん、元気になったの? 私、ずっと心配してたの」


「また一緒にサッカーやろうぜ!」


 彼らの無邪気な声が、僕の胸を締め付ける。


 もう、サッカーなんてできない。元気になった、なんて嘘だ。


 僕はあと十日で、この世から消えるのだから。


 それでも、彼らの言葉は温かかった。僕が透明人間のように消えていく前に、こうして迎え入れてくれる人がいる。


 その事実が、凍り付いていた僕の心に、じんわりと熱を灯すようだった。






 授業が終わると、クラスメイトたちが僕の周りに集まってきた。皆が口々に話しかけてくる。僕の空白だった机に、誰かが花を飾ってくれた。それは、鮮やかな色のガーベラだった。


 机の周りも汚れていない。みんなで、僕が帰ってくるのを信じてきれいにしてくれていたらしい。


 じんわりと僕の心があたたまる。それを、みんなの輪を、僕が十日後に凍り付かせてしまう。それを知っていながら学校に来てしまった僕は、すごい愚か者なのだろう。




 賑やかな輪の中心で、不意に、ひとりの女の子が僕の前に立った。


 その娘は美少女という言葉は彼女のためにある、といってもおかしくないくらい可愛かった。


 長い黒髪をポニーテールにまとめ、はっきりとした瞳を持つ、少しおとなしい印象のクラスメイトだ。普段はあまり目立たないけれど、いつも僕のことをちらちらと見ているような気がしていた。気のせいだと思っていたけれど。


 彼女は、まるで何か大きな決心をしたかのように、ぎゅっと唇を結んでいた。クラスメイトたちが、面白そうに囃し立てる。


「おいおい、佐倉、頑張れよ!」


「陽菜、ここで女のを見せるときよ!」


 彼女は顔を真っ赤にしながらも、真っ直ぐに僕を見つめた。その瞳はきらきらと輝きながらも、間違いなく僕だけを映していた。




「あ、あの……千晴くん、私……」




 彼女は、意を決したように息を吸い込んだ。そして、教室に響き渡るような、けれど震える声で、はっきりと告げた。




「私、千晴くんのことが……好きです!」




 教室が、しんと静まり返った。クラスメイトたちのざわめきも、ぴたりと止まる。僕の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。




 『好き』、という言葉。


 まさか、このタイミングで、こんな言葉を聞くとは思わなかった。しかも、僕が。


 僕は今、死を目前に控えている人間だ。あと十日で、この世からいなくなる。


 そんな僕が、誰かの「好き」という感情に応える資格なんて、あるのだろうか。


 ダメだ、できない。いや、してはいけない。


 彼女と交際するなど、もってのほかだ。もし、僕が彼女の気持ちを受け入れてしまえば、十日後に彼女は、取り返しのつかないほどの悲しみと絶望に突き落とされるだろう。なにしろ好きになった相手が十日で死んでしまうんだから。


 想像するだけで、胸が締め付けられる。僕が死んだ後、彼女が苦しむ姿を想像すると、身を切られるように痛んだ。


 僕は、彼女の幸せを願うべきだ。僕のような、もうすぐ消える存在なんかに関わらせてはいけない。冷たく突き放すべきだ。それが、彼女のためになる。


 頭では、そう分かっていた。理性が、懸命に『やめろ』『嫌いだと言え』と叫んでいる。


 しかし同時に、僕の心臓は、これまで感じたことのない熱を帯びていた。


 目の前の彼女――佐倉陽菜さんは、僕からの返事を待つように、瞳を潤ませていた。彼女の真っ直ぐな視線が、僕の心を貫く。


 このまま、誰にも気づかれず、誰にも近づかず、一人で死んでいく。


 そのことに、僕はどこか納得していたつもりだった。それが、僕にふさわしい最期だと。


 だが、今、僕の目の前には、僕に「好き」だと告げる女の子がいる。僕のことを必要としてくれる存在が、確かにここにいる。


 ――あたたかい心。


 それは、僕が長らく触れることのなかった感情だった。一人で生き、一人で死ぬと決めていた僕にとって、それはあまりにも眩しく、そして、求めていたものだった。


 十日しか生きられない。たったそれだけの時間だ。


 その短い時間の中で、僕は彼女に何をしてあげられるだろう?


 彼女を深く傷つけることは、分かっている。分かっているのに、彼女の温かい感情に触れていたい、という抗いがたい衝動が僕を突き動かした。


 もし、この十日間を彼女と過ごすことができれば。


 それは、僕の人生で、最初で最後の「恋」になるのかもしれない。


 誰かを好きになって、誰かに好いてもらう。そんな経験を、人生の最後に、一度だけでも味わってみたい。


 この十日間で、僕は初めて、誰かと深く繋がることができるのかもしれない。


 そんな、自己中心的な思いが、僕の心を満たしていく。


 彼女を傷つけるという罪悪感と、温もりに飢えた僕自身のエゴ。


「恋」は自己愛だ。ならば、この抗いがたい衝動は、まさに「恋」なのだろう。


 僕は、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。


 そして、震える声で、けれどはっきりと、告げた。


「……僕で、よければ」


 陽菜の顔に、ぱっと花が咲いたような笑顔が広がった。その笑顔は、僕の心を照らす光のようだった。クラスメイトたちの間からは、安堵と祝福のざわめきが起こる。


 僕は、これから彼女を深く傷つけるだろう。だが、今、この瞬間、僕の人生は、確かに輝き始めた。


 限られた時間の中で、僕は彼女と、どんな「恋」を育めるだろうか。


 そして、その先にある、避けられない別れに、僕は、そして陽菜は、どう向き合うことになるのだろうか。 




 一日目が終わった。

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