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凄腕メカニックにも社長の恋の病は治せない  作者: 矢古宇由佳
第二部

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第86話 噂の男、麗しの社長 replies

「沙羅ちゃん、今日こそ飯行かない? 奢るから」

「……あの、すみません」


 今日も、店長である林はしつこかった。沙羅が耐えている理由は一つ、この男がSubだとわかっているからだ。

 その気になれば、いつでも《Glare(グレア)》で制圧できる。

 しかし、飲み物などに何か混ぜられたら事である。間違っても食事になんて行くわけにはいかない。


(もう潮時かな……)


 簡単な部品の交換などを実際に行い、手を動かすこともできたので、この仕事はそんなに嫌ではなかった。でももう、つづけるのは無理だなと思った。

 タイミングを見計らってやめよう。

 その時だ、カウンターの下で手を掴まれた。


(……!)


 無理やり手を繋がれた。指が絡む。


「店長、離してください」


 沙羅が低い声で拒否すると、バックヤードにいた吉川がちょうど戻って来た。


「ちょっと店長、あんたまたそんなことしてるの?」

「また?」


 沙羅が怪訝な顔をして手を振り払うと、吉川が間に入ってくれた。


「店長、あんた、去年もバイトの子に声かけてただろ、私は知ってんだよっ! 沙羅ちゃん、一緒に休憩入ろっか」


 林は罰の悪そうな顔をした後、沙羅の方を睨みつけてきた。


「あ、はい……」

「たまには外行こう、ね?」


 吉川はそのまま外に連れ出してくれた。


「吉川さん、ありがとうございます」

「いいよいいよ、店長はいつもああだから……嫌な目に遭ったね、ファミレス行こうか」


 ふたりはランチメニューを食べた。

 自分はひとりではない。沙羅の冷え切っていた心が久しぶりに温まった瞬間だった。吉川はいつもこうして沙羅を気にかけてくれた。本当にありがたい人だ。


 吉川から聞くところによると、林は新人バイトが入るたびにいつもああしてセクハラして、結局辞められてしまうらしい。 


「沙羅ちゃんも今回が初めてじゃないんだろ? もう限界だよね」

「はい……」

「あんたしっかりしてて、その辺の女の子と違ってたからさ、しばらくいて欲しかったけど……前職南方グループなんだろ? 大学も出てて訳ありなのはわかるけど、こんなところで足踏みしちゃだめだよ」


 沙羅はドリアをつつきながら頷いた。

 そうだ、一歩踏み出さなければ。あの時のことを思い出すと、未だに辛くてどうしようもなくなる時もあるが、健二はもう、南方精密にいない。月曜こそ森山に電話をしなければ。


 ふたりは食べ終えて一息つくと、沙羅は「連絡先を交換しませんか?」と吉川に言った。彼女とは歳こそ離れているが、これからも仲良くできそうだ。連絡先を交換し、談笑しながら店舗に戻る。


「何?」


 店の前に、黒塗りの車が停まっていた。沙羅の目に、それはハイヤーにしか見えなかった。ふたりは裏口に回る。バックヤードにはリアルタイムのカメラがついていて、もしも休憩中に来客があっても気づける仕組みなのだが、そこに驚きの人物がいた。


 沙羅はモニターを見てしばらく立ち尽くす。壁が薄いので声も聞こえてきた。


「東新川沙羅という人間がいるはずでは?」

「そんな店員、いませんよ」


 そこにいたのはレネだ。レネと林が何やら揉めている。

 沙羅は表に飛び出した。


「レネ……」


 そこにいたのは、正真正銘のレネだった。

 彼は沙羅を見て目を細めた。写真とテレビでしか見たことのない、金髪の彼がそこにいた。

 声が詰まった。ここにいることをどうやって知ったのだろう。


 それにしても、痩せたなと思った。ツーブロックの髪型も相まって、鋭さが増している。精悍になったというべきだろうか。


「さて、君に一つ修理をお願いしたい」


 彼がスーツの内ポケットから取り出したのは、沙羅が贈った《Collar(カラー)》だった。それは、一瞬チェーンが千切れてしまったのかと思ったが、よく見ると違った。

 おそらく強く引っ張ってしまったのだろう、留め具とチェーンを繋ぐマルカンが外れてしまったようだ。


「どれくらいかかる?」

「十五分くらいでできますが……費用は千円です。お時間は大丈夫ですか?」

「時間はないな……ところで、君は何時上がりだ?」

「六時です……」


 沙羅は上の空のまま彼と会話を続けた。周りにいる林も、吉川も、彼が誰だか当然ながら知っている。彼は今、国民的アイドル並みに有名人だからだ。


「六時過ぎに迎えを寄越す。あれと同じ車だ。届けてほしい」

「わかりました、先に支払いをお願いします」


 沙羅が急いでカルテを書こうとすると、林が前に出た。


「うちはそういうサービスはしてないんですが……あなた、南方社長ですよね? 一体何が?」

「店長、私、彼氏いるって言いましたよね。全然信じてくれなくて今日も無理やり手を繋いできましたけど」

「へぇ? 《《俺の沙羅》》が随分世話になったようだな?」


 レネが林に向けてにっこりと微笑んだ。林は目に見えてたじろいだ。


(ざまあみろ)


 沙羅は心の中でほくそ笑んだ。


「店長、私の彼氏この人だから、諦めてください。では改めて……お会計は前払いになります。よろしいですか? 税込、千百円です」

「わかった」


 彼は現金で支払った。沙羅はカウンターをぐるりと周り、控えを渡した。受け取りはこれと交換である。

 彼はそれを内ポケットに収めて、身体をかがめた。額に柔らかな彼の唇が触れ、指が沙羅の唇をなぞった。


「こっちはまた後で」


 流石の沙羅も赤面して俯いた。彼は沙羅の肩を二度撫で、林に一瞥を投げてから去って行った。

 吉川が興奮を抑えられない様子で沙羅を見た。


「沙羅ちゃん、今の……」

「ネックレス、直します。吉川さんもバックヤード、来ませんか?」


 沙羅は吉川にレネとのことを話した。吉川は、恋バナに喜ぶ女子高生や女子大生のようにキャーキャー言いながら聞いてくれた。 

 手元には、沙羅が直し、自分の名が刻まれた《Collar(カラー)》が煌めいていた。

 


***



 迎えの車が向かった先は、ホテルだった。東京の中心、六本木に聳え立つリッツカールトン。ホテルに到着、チェックインし、沙羅は部屋に案内された。

 レネは、部屋で待っているようだ。

 目が潰れるほど豪華なスイートルーム。彼はスーツ姿で、暮れなずんでいく東京の街を眼下に見下ろせる窓辺でワインを飲んでいた。

 

「レネ……」


 沙羅は足を止めた。彼はワイングラスを置いて立ち上がった。

 いつ見ても絵になる姿の男である。

 豪奢な部屋と彼のその姿を目にしてしまうと、その辺の適当な服装の自分がミスマッチすぎて少々気恥ずかしさが込み上げてくる。


「遅くなった。ごめんな……」


 レネが辛そうに顔を顰めて言った。彼は、それ以上こちらに来る気はなさそうだった。沙羅は足元にバッグを置いて腕を広げた。


「レネ、《Come(カム)》!」


 彼は羽が生えているかのように、軽やかに駆けてきた。ぶつかるほどの勢いで抱きしめられて、ふたりは近くにあったソファにもつれるように倒れ込んだ。

 沙羅はレネの噛みつくようなキスを受け止める。奪い合うような、それでいてふたりがひとつに溶け合うようなキスに酔いしれた。


「ん、レネ……大好きです、愛してます」

「沙羅……俺もだよ、愛してる」


 幾度も角度を変え、互いに愛を伝えながら交わされるそれ。沙羅は流石に息が上がって彼の背を叩いた。


「はぁ……ちょっと……」

「悪い……」


 彼は身を起こして、罰が悪そうに手を差し出してきた。起き上がった沙羅だが、胸元に押しつけるように抱きしめられた。


「辛かったな、すまない、守ってやれなかった」

「大丈夫、いいんですよ、大丈夫」

「沙羅、痩せたな」

「今夜いっぱい食べたいです」


 沙羅が少々ふざけて言えば、レネはふっと息を漏らして笑った。


「今すぐルームサービスを頼んでもいいし、シャワーを先に浴びてさっぱりしてきてもいい。着替えは持ってきてる。俺の部屋にあったのを適当に。後、化粧品とかも。すまない、持ち物を漁った」

「ありがとうございます。手ぶらなので嬉しいです」

「レネはシャワー浴びたんですか?」 

「ああ、軽くな。一応スーツで出迎えようかと思ってもう一度着た」


 彼はネクタイに手をかけて緩めると、するりと解いて首元のボタンを開けた。 


「先に、君のSubになりたい、《Collar(カラー)》は?」

「もちろん直ってます」


 受け取りのサインをもらって、沙羅は彼の首にそれをつけてやった。

 収まるべきところに戻ったそれを指でなぞる。


「ありがとう、アメリカでひっかけてしまったんだ」

「これくらいだったらすぐ直せますよ」


 沙羅はシャワーを浴びて、彼が持ってきてくれたゆったりしたワンピースに着替えた。ルームサービスを頼み、とりあえずシャンパンで乾杯。

 肉でも食べるか、とふたりしてステーキを頼んだ。合わせるのは芳醇でパワフルな赤ワイン。フランスのカベルネ・ソーヴィニヨン。


「どうしてあそこで働いてるってわかったんですか?」

「君の行方がわからなくなって、とりあえず、君と前に食事したイングリッシュパブに突撃した。店長に早紀の連絡先を教えてくれるように頼んだが、当たり前だが突っぱねられた。きちんと客を守ろうとするいい男だ」

「あ、あそこに……」


 そう、沙羅や早紀が懇意にしているあの英国酒場である。

 彼はステーキにナイフを入れた。 


「でも、連絡先を書いた名刺だけは置いて行った。で、週刊誌報道やらテレビを見て、俺はストーカーでもなんでもないって流石に店長も気づいたらしく、早紀にコンタクトを取ってくれた」


 早紀は、沙羅がどこに住み、どうやって生計を立てているかを知っていた。真っ先に連絡を取ったのが彼女であった。

 レネは席を立つと、沙羅の隣に腰掛けて、スマートフォンを構えた。


「これを彼女に送ろう。後で礼をしなければ」

「お店貸切しましょうか、森山さんとか、ヤスさんも呼んで」

「それはナイスアイディアだな」

 

 ふたりは顔を突き合わせて笑った。


「あの、あとひとつ教えて欲しいんですが……」

「なんだ?」

「あの、週刊誌にリークするのってヤスさんのアイディアだったんですか?」

「違う。俺だ。ヤスはむしろ嫌がってたよ」


 レネはくすりと笑みをこぼして、「俺もたまにはヤスに頼りっぱなしじゃなくて、自分で頭を使わなきゃな、と思ったんだ」と言った。



***


 食後、ふたりはフルーツをつまみながら窓辺でシャンパンを傾けた。宵闇に輝きながら浮かび上がるスカイツリーをはじめ、東京の街を見下ろせる絶景である。


「実は、月曜に部長宛に電話しようとしてたんです」

「そうか……月曜、秀樹は不在だ。出なかっただろうな」


 彼は意味ありげな笑みを浮かべた。


「どうかしたんです?」

「秀樹はドイツに飛んで行った。今頃着いてるかもな。健二アレを追い出したし、母さんにプロポーズしに行くって。ノーってことはないだろう。今度こそ、俺の本当の親父になって帰ってくる」

「本当ですか?」


 沙羅は自分のことのように喜んだ。

 よかった。約三十五年後のゴールインだ。


「周りに指輪準備した方がいいのかって相談して、ふたりで選んだほうがいいに決まってるって全員から怒られていた。ヤスは『ヒデさんバカですか?』とか言ってた」


 沙羅は笑ってしまった。康貴らしい。女心をわかっている。

 そりゃあ、自分の好みのデザインのものが欲しいに決まっている。


「そうだ、忘れるところだった。沙羅、今日は誕生日だろ?」


 レネは内ポケットからジュエリーケースを取り出して、蓋を開けた。


「ピアスだ。この前のよりちょっと大ぶりなやつ」


 雫型の水色の石の周りに、ダイヤモンドが散りばめてある揺れるデザインのピアスだ。間接照明に照らされて、眩いほどにきらめいている。


「すごい、こんな綺麗なの……ありがとうございます。私、レネの誕生日に何もあげられなくて……」


 沙羅はピアスを名残惜しげにテーブルに置いて、レネの手を両手で掴んだ。


「構わない、大丈夫、誕生日は来年も来るから。あとひとつ、お願いがあるんだ」

「はい、なんでしょう?」


 沙羅はレネを見上げた。


「俺を東新川にしてくれないか?」


 多少想像はしていた。でも、想像していたそれは「結婚してほしい」とかそんな台詞である。沙羅は斜め上のお願いに目をしばたたかせた。


「や、やめといたほうがいいです。印鑑は特注でその辺で買えないし、ちゃんと名前呼んでもらえない時あるし、サインするの大変だし、ええっと……ええっと、登記とか、変えなきゃじゃないですか!」


 その回答に、レネは「君らしいな」と肩を震わせながら笑っていた。沙羅は真っ赤になってもごもごしながら俯いた。 


「沙羅、結婚してくれる? 結婚してくれればそれだけで嬉しいけど、君が嫌じゃなければ南方ともおさらばしたい」

「はい……喜んで。レネが私の苗字になりたいっていうなら……」

「ありがとう、指輪は後で一緒に選びに行こう。あともうひとつお願いがある」


 彼は上機嫌そうにこめかみにくちづけてきた。


「君がいないと、アフターサポートが回らない。戻ってきてほしい」

「はい、もちろんです!」



 この後、南方ホールディングス及び南方精密の社長の名は東新川レネ由春に変わることになり、また世間を賑わすことになる。この時の沙羅はまた世間を賑わせてしまう日が来ることなど、全く想像もしていなかった。


 

<Ende(エンデ)>

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