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凄腕メカニックにも社長の恋の病は治せない  作者: 矢古宇由佳
第二部

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第83話 引っ越し、レネの絵はがき

 沙羅はあの日、本社に移送され、また格上のDomの《Glare(グレア)》を浴び、心神喪失状態で退職届にサインをさせられ、スマートフォンの暗証番号とメッセージアプリの暗証番号を聞き出された上に奪われた。


 沙羅に抵抗の余地なんてなかった。それほどまでに《Glare(グレア)》はDomの戦意を喪失させる力がある。


 コンビニで住民票も取らされて、気づいた時にはアパートの前に放り出されていた。

 三日ほど身動きが取れず、スマートフォンの回線の一時停止に行ったのだが、すでに解約された後。


(保険証も返したし、住民票も取らされたな……)


 おそらく、委任状を偽造して代理解約したのだ。沙羅の場合、一番面倒なのは印鑑だ。特注でしか買えないのだが、沙羅のデスクの上には印鑑も置いてあった。偽造なんて簡単だろう。


 データのバックアップも消されていたので、沙羅にできることはなかった。レネの電話番号もわからない。

 わかるのは、何かの時のためにメモを残しておいた母親である洋子の番号だけ。


 沙羅は洋子に電話した。


『え、どうしたの?』

「ちょっと迷惑電話止まらなくて、電話番号変えたんだ」


 いつかバレるのはわかっている、でも本当のことなんて言えるわけもなく、沙羅は嘘をついた。


『それだけならいいんだけど……』

「メッセージアプリとかも変えたから、後でお母さんの電話番号で探して申請するね。あの、レネのこと知ってるよね?」

『社長解任の件だろ? レネちゃん大丈夫かい?』

「会長とうまくいってないみたい。仕事の電話番号は知ってると思うけど、電話とかしないでそっとしておいてあげて。すごくへこんでる』


 沙羅は、自分は女優になれるのではないかと思った。少なくとも、母親は騙せている。心が沁みるようで苦しかったがこればかりはどうにもならなかった。


『もちろん。ふたりともちゃんとご飯食べてる? 気をつけてね』

「うん、お母さんも気をつけて。お仕事頑張ってね。じゃあまたね」


 それから、怒涛の引っ越し準備だ。


 沙羅の部屋は会社が借上げ、一部家賃を負担してくれていた。できるだけ早く退去しなければならない。

 住む場所は学生の時に住んだことがある溝ノ口にした。学生の頃住んでいた家の大家に電話してみると、ちょうど部屋が空いている、即日でも問題ない。そう快く言ってもらえたので一週間後には部屋を退去していた。


「同じ部屋だ……ただいま」


 学生の時に住んでいた1Kの部屋。先日までの部屋より狭くなったので一部の家具や家電は処分した。

 沙羅は無心で荷解きをし、住民票を移したり、郵便の転送手続きなどを済ませた。何かやってないと、おかしくなりそうだったのだ。


「レネの電話番号……わかんないな……」


 どこにもメモなんてしてなかった。康貴の連絡先も、森山の連絡先もわからない。友人たちの電話番号だってわからなくなってしまった。

 SNSを本名でやっている大学の頃からの友人をひとり発見し、沙羅は適当なアカウントを作成し、彼女と繋がって早紀や大学の同期たちの連絡先を取り戻していった。


「レネは……こういうのやらないよね……」


 康貴は本名で活動してそうだなと思ったのだが、見つからなかった。いっそ、自分の表示を本名にするかとも考えたが、沙羅は一発で特定されてしまう珍しい苗字だ。


(今はやめとこう……)


 沙羅にはまだ考えがあった。レネの帰国日は頭に入っていた。

 空港だと人が多いので見つからないかもしれない。沙羅はレネのマンションの前で張ろうと家を出た。


 レネのマンションの近くで出会ったのは、驚愕の人物。沙羅は立ち尽くし、逃げようとしたが腕を掴まれて路地に引き摺り込まれた。


「な……う、そ」 

「久しぶりだ。秘書の黒田だ。覚えていてもらえて光栄だ。お前の行動は監視している。うちの社員に接触しようとしてみろ? お前の母親が大変なことになるぞ?」


 健二の秘書だ。背の高くて体格のいいNeutralの男である。


「いいか? これは最後の警告だ」

「もう、近づきません……」

「そうか、それはよかった」


 沙羅は走って電車に飛び乗った。

 本当のところ、黒田は沙羅の監視などしていなかった。健二の指示で、レネに接触しようと空港かマンションに現れると思われる沙羅を待ち構えろと待機していたに過ぎなかった。


 だが、沙羅はそんなことは知らない。


 彼女はもう心が折れてしまった。間違いだったのだ。釣り合わない男と付き合っていたのが間違いだったのだ。


 沙羅はアパートに逃げ帰ると、部屋のドアの郵便受けに何かが挟まっているのを見た。


「レネだ……」


 いつもの恒例の絵はがきだ。ラスベガスの夜景が描かれたそれ。

 郵便局が転送をかけてくれたのだ。


『愛する沙羅、次は君のご両親に別の挨拶をしに行きたい。Ich(イッヒ) liebe(リーベ) dich(ディッヒ). Rene』


 愛している、とあった。彼は沙羅との未来をきちんと考えてくれていた。

 沙羅は玄関で立ち尽くしていたが、やがて膝をついた。


「レネ……」


 目の中に涙が溢れて、世界が歪む。それはやがて決壊して、手の上にはらはらと散った。はがきにも一滴ぽとりと落ちて、レネの名前を濡らす。


(もっと、好きだって、大好きだって言えばよかった……)


 いつもそうだ、レネは沙羅に「愛してる」と言ってくれたが、沙羅が言ったことは一度もない。恥ずかしくて、「好き」だって数えるくらいしか言ったことがない。


 でももう、会うことすらできない。


「ああ……どうし、て」


 どうしてこんなことになってしまったんだろう。

 その日、沙羅は涙が枯れるまで泣いた。

 沙羅はしばらく引きこもって生活した。あの日以来、Neutralの男性が怖くて仕方がなく、まともに外に出られるようになったのは二月も半ばのことであった。

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