第82話 カラーの知らせ、森山と康貴 Side Rene
アメリカ、ラスベガスに到着し、ホテルにチェックイン後、沙羅に到着報告をメッセージで送ったレネはさっそく空港で手に入れた絵はがきを書いていた。
もはや恒例行事である。
アメリカの展示会と、それから北米最大の生産拠点である工場に顔を出したのち、それからメキシコの生産拠点へ。
いきなり平の役員へと降格させられたことは何か手を打たねばならないが、今太平洋の反対側に来ていて、何かできることなどたかが知れていた。
じたばたしても仕方がない、沙羅に危害が及んでいないならまあいいか。そう楽観的に思うことにしておいた。
時差はマイナス十七時間。
東京が正午なら、ラスベガスは前日の夜七時。
沙羅からは、無理して電話しなくていいと言われていたが、レネがいきなり平の役員に降格させられたという懸念事項がある以上、メッセージだけはこまめに送ろうと考えていた。
レネがアメリカ出張が嫌いな理由はこれに尽きた。
とにかく日本と連絡が取りづらい。
仕事のメールなら相手方の時間なんて考えずバンバン送りつけるが、個人のスマートフォンだと気が引ける。
沙羅は元気にしているだろうか。そう思った時だ、スマートフォンが鳴った。
彼は一度ペンを置いて、スマートフォンを手に取った。沙羅からの返信だ。『お疲れさまです、ゆっくり休んでください』そのメッセージに笑みをひとつ。『そっちは昼だろ? 何か変わったことは?』と送ると、すぐさま返信が来た。『いつも通りです。安田さんとご飯来てます。それじゃ、また連絡しますね』とある。
(会いたいな……)
はがきは、すっかり覚えてしまった住所が書き上がっている。
ペンを再び手に取って、レネは沙羅の名前を書いた。
Sara Higashishinkawa
格好いい。いつ見ても格好いい。
今、彼のフルネームは南方レネ由春だったが、いつか東新川になりたいと思っていた。東新川レネ由春。悪くない。いや、実にいい。
なんとか健二という問題事項を片付けて、そうしたら森山に母であるアナにプロポーズするように尻を叩いていた。レネも沙羅にプロポーズするつもりだった。
しかし、今の彼は健二をどうやって追い出すか、かなり困り果てていた。
森山の言う通りで、健二はもう還暦をとっくに過ぎている。遅かれ早かれ、十年くらいで引退するだろう。その時に自分が会社のリードを握っていればいいだけだ。
周囲の評価を得られればいいだけだ。
返り咲けばいいだけ。
近頃、レネはそんな風に思い始めていた。社長を解任されて、何かがぷつりと切れてしまったのかもしれない。
「先は長いな……」
レネは改めてはがきに向き直った。沙羅の地元で墓参りしたことをふと思い出して、その時のことを書こうと思考を巡らせる。
そうだ、次墓参りするときは、墓前で別の挨拶をしようと思っていた。そのことを書こう。
さらさらとメッセージを書き、ペンを置く。
さて、明日にでもこれを出そう。
レネは伸びをすると、着替えを用意し、シャワールームに向かった。部屋着として持ってきたTシャツを脱ぎ捨てたとき、手に《Collar》が引っかかった。
「しまった!」
嫌な感触と最悪な想像。ぷつっと音を立てて、それは床に落ちた。
切れたのか? と確認すると、チェーンと留め具の間の丸いジョイントのところで外れてしまったようだ。切れたわけではない。
(帰ったら修理に出すか……)
「ごめんな沙羅」
レネは小さく謝罪して、ペンダントトップにくちづけた。
なんだか物凄く嫌な予感がした。
この時点で既に、沙羅は辞表を書かされているし、机のものは片付けられていた。唯一、沙羅が健二に呼び出されたのを知っていた安田も出張の前日移動で、沙羅が工場長室に行ってすぐに長野に向かって車を走らせていた。
レネにメッセージを送ったのは、沙羅からスマートフォンを奪った健二の秘書だったのだ。
森山は長期出張中。健二からの指示で、この件を知らされてもいない。
沙羅が既に南方精密を辞めさせられ、借上げの社宅なので立川の賃貸からもすぐに追い出されるはずだと森山からの電話を受けるのは、一週間以上あと。
未だ出張中で身動きができない森山に代わり、康貴が両親に連絡し、彼女の部屋を見に行ってもらったが既にもぬけの空。
あまりにも周到な根回しに、森山もレネもふたり揃って一泡吹かされてしまったのだ。メキシコは地球の裏側でいっそう何もできなくなった。
森山からも慌てるな、焦るなと電話で言われ、なんとか出張をこなし、レネは意気消沈の状態で神田の自宅に帰った。
***
「レネ、よく帰ってきたな」
真っ暗な部屋の中、ベッドの上に座り込むレネに森山が優しく声をかけた。康貴は自宅に帰りもせず、空港からレネと一緒にここまで一緒にタクシーに乗ってきた。
部屋で待ち構えていたのが森山だった。何かあった時のため、レネは森山にスペアキーを預けておいたのだ。
「レネ、そんなとこにいてもどうにもならない。起こっちゃったことはどうにもならない。頭整理して、ヒデさんと話そうぜ」
「……」
レネはどうしていいかわからなかった。仕事だけはなんだか義務感でこなしたが、いつの間にか沙羅のスマートフォンは既読すらつかなくなっていた。
(沙羅が、泣いてるかもしれない……)
でも、どこにいるかすらもわからなかった。洋子とは個人的に連絡先を交換していないが、職場に連絡が来てるわけでもなさそうだ。
ぐるぐると考え込んでいると、森山の優しい声がレネの鼓膜を撫でた。
「レネ、《Come》」
ぴく、と思わず反応した。出張時は当然沙羅とプレイできないので、突然の見知らぬDomのコマンドに反応してしまうかも知れないことを恐れて抑制剤も併用していたが、フライト前に飲んだきり。
信頼している森山相手ならば、どうしても反応してしまう。
ふらふらと、よろよろと立ち上がり、レネは森山の腕の中に吸い込まれた。
「よしよし、よく仕事こなして帰ってきたな。えらいぞ」
「沙羅は……沙羅は何があったんだ?」
レネは森山に身体を預けたまま問いかけた。
「とりあえず、リビングに行こう。な?」
康貴は一足先にキッチンに行き、カフェマシンでコーヒーを準備していた。
三人でダイニングテーブルでコーヒーを飲み始めると、幾分か落ち着いたレネがいた。
改めて、康貴が問いかけた。
「一体何があったんです?」
「俺も、全部知ってるわけじゃない。でも知ってる限りで言うと、俺が出張中に健二が八王子にやってきた。工場長室に呼び出してDom同士の喧嘩をした」
Dom同士の喧嘩。《Glare》合戦である。そんなものに巻き込まれたら、ひとたまりもない。
「でも、ヒガシさん……俺より強いはず。Sランクですよね?」
「だが、ヒガシは負けた」
一枚のSDカードをテーブルに置いた。
康貴がそれを拾い上げた。
「これは……」
「レネが八王子来て、かなりきつくセクハラ対策しろって言ってただろ。泣き寝入りさせるな、映像なり残せるようにして、バカをとっちめる材料を残せって。高橋はまだ五十代、大学生の娘もいるし、河村の件でも物凄くヒガシを心配していた」
レネは思い出した。八王子の工場長、高橋を。確かに彼は沙羅のことをかなり気遣っていた。娘も理系に進んだから、どうしても沙羅を重ねて見てしまうと言っていた。
「俺は河村のあの現場を見てたから、映像だけじゃダメだって高橋に言った。わかりやすいのは身体接触系のセクハラだけど、それだけじゃない。実際、河村がしたセクハラは言葉のセクハラだった。で、動体検知カメラをまず工場長室に設置した……見るか? 音もついてる。見るに耐えないぞ」
「ヒデさん、見たんすか?」
「ああ。俺と高橋で」
森山はノートPCを取り出してSDカードを挿し、動画を再生した。
それを観て放心状態のレネを差し置き、激怒したのは意外にも康貴だった。立ち上がって飛び出そうとした彼を止めたのは森山である。
「あの野郎、俺が殺してやる!」
「康貴、落ち着け」
「こんなの落ち着いていられますか? ヒガシさんが……Domなのに! SランクのDomなのに《Kneel》させられて……かわいそうだ……今どこに? 電話も繋がらなくて……」
「俺も部屋を見に行ったが、もう引っ越しも済んでる。どこにいるかわからない。おそらく、実家にも知らせてないんだと思う」
森山の声を聞き、レネは感情が死んでしまったかのように静かに、淡々と言った。
「実家に知らせてたら、乗り込んできてる……洋子さんはまだ知らないはずだ」
実際、洋子は全く知らず、沙羅と普通に連絡を取り合っていた。流石に子会社の役員だ。此度のレネの降格の話はすでに耳に入っていた。沙羅は洋子の「社長は大丈夫か?」の問いに、「会長とうまくいってないみたいだ」とサラリと答えていた。
「でも、ヒガシの電話、通じないだろ?」
「解約して、新しい電話使ってるんでしょうね……レネ、どうする?」
レネは不気味なほど冷静だった。森山も康貴も、それが何よりも恐ろしかった。
実のところ、彼の中でももう怒りの感情というものを通り越し、何かの局地に至ってしまったかのような、不思議な感覚だった。何か、夢の中にいるようなふわふわとした定まらない心地。
レネは感情を全く感じさせない声色で言った。
「最終手段を使う」
「俺はそれでも構わんが……株価大暴落するぞ?」
森山の問いに、レネは静かに口を開いた。
「あいつを辞任に追い込んで、あとは俺がなんとかする。沙羅も見つけ出す」
「材料は……いくらでもあるけどさ。レネはそれでいいの? 大変なことになるよ?」
康貴の問いに、レネはゆっくり頷いた。
「俺に何もかも任せとけ。日本人は……お涙頂戴の悲恋ものに弱いんだ」
***
翌朝、素知らぬ顔で出社したレネと康貴はさっそく健二に呼び出され、ふたりして彼の猛烈な《Glare》を浴びた。
「レネ、まずはこちらに《Come》だ。いいぞ、その場で《Kneel》しろ」
とんでもない《Glare》だった。なんとか抵抗しようとしたが、身体はコマンドを聞こうとしてしまい、結局健二の足元に座り込んだレネがいた。
健二に思いきりネクタイを掴まれる。上を向かされて、目の前の男の歪んだ笑みに反吐が出そうになった。
「よくもふたりして俺を騙してくれたな……俺が手を回したから、あの小娘は二度と日本の製造業でまともに働けない。かといって実家にも帰れないだろう……今頃、路頭に迷っているかもしれないな? 全部お前のせいだ」
「自分の息子にコマンド使う奴があるかよ、ゴミ野郎が!」
「おいレネ、親にそんな口の聞き方をしていいのか?」
健二の視線が、ふい、とレネの後方に移る。視線の先には康貴がひっくり返っている。
健二の《Glare》が康貴に突き刺さった。
彼は声も出せずにのたうち回る。
「ヤス!」
「いいのか? このまま病院送りにもできるぞ?」
「やめてくれ……何でも言うことを聞こう」
「もうあの女のことは諦めるか?」
なぜこの男は、今になって自分の執着するのだろう。レネは疑問を隠せなかった。裏切ったと思うなら、放逐すればいいではないか。
今や、妻との息子、譲治もいるというのに。
「わかった。見合いでもなんでもする……でもなぜ? 譲治がいるんですから、俺はもう必要ないのでは?」
「あいつはあいつでかわいいが、出来がいいのはお前だ……だが、うちの家内が納得しない。俺個人としてはお前がDomだろうがSubだろうがどうでもいいんだ。正式な後継にしたい気持ちは変わらない。譲治の息子だって生まれたばかりだ。どう成長するかわからん。俺にはお前しかいないんだ、レネ」
社長解任は、レネへの罰もあるのだろう。だが、健二の妻へのアピールが主なのだと彼は悟った。
健二の台詞が嘘でなければ、まだ自分はこの件で手綱を握れているはずだとレネは確信を深めた。
半年以内に、可能ならば四ヶ月、沙羅の誕生日の五月までになんとしても沙羅を見つけ出す。彼女に戻ってきてもらうそのために、手段を選ばずに目の前の男を社会的に潰そう。彼はそう心に決めていた。




