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第81話 工場長室、グレア

「待っていたぞ、東新川」


 部屋に訪うと、工場長のデスクに健二が座っていた。彼はゾッとするような笑みを浮かべていた。

 Dom独特のオーラが沙羅の肌をびりびり焦がす。


 今、沙羅は彼とふたりきり。痛いほどの緊張した空気に息が詰まる。


「喜べ、人払いをしてやった」


 どっしりと腹の底に響く貫禄のある声。河村に凄んだ時のレネの声にそっくりだった。

 膝が震えていた。どうしよう、バレたのか。レネとのことがバレたに違いない。それしか考えられない。


 森山もいない、レネと康貴はアメリカ。

 心臓が口から飛び出しそうなほど、うるさいほどに脈打っていた。


「気づかなかった、君も俺と同じでDomだったか。レネもDomだと思っていたんだが、どうやらあいつはSubらしい。あと、どうやら……レネがプライベートで世話になっているらしいな?」


 口の中がカラカラに乾いていた。


 なぜ自分がDomだとバレたのだろう。沙羅の頭の中はぐちゃぐちゃだったが、もうこうなったら腹を括ってバトルするほかない。息をゆっくりと吐いた。

 極めて慎重に言葉を発する。


「彼とは男女の付き合いがあるだけで、彼のダイナミクスはDomだと聞いています」

「シラを切るな。お前の贈った《Collar(カラー)》をあいつがつけていることを知っているんだぞ。Saraと書いてあった、お前のことだろう?」

「……!」

「これは取引だ」


 Domと露見したのは、《Collar(カラー)》を見られたから。健二は沙羅のダイナミクスを見抜いたわけではないようだ。なら、AランクのDomだろう。SランクのDomなら、必ずとは言わないが、沙羅のように相手のダイナミクスを見抜ける者が多いらしいと聞いている。


 彼はデスクの上で、ゆっくりと腕を組んだ。


「悪いことは言わん。レネと別れてくれ」

「嫌です」


 沙羅は毅然と言い放った。


「東北南方精密の株主総会は明日だぞ? 俺の言う意味がわかるか?」

「な……」


 この男は、沙羅の母のことを言っているのだ。明日の株主総会で株主の反対がなければ沙羅の母は役員に選任される。


「……脅すんですか?」

「俺は何も言っていない」


 ここでノーと言えば、明日、別の人間を株主総会の選任会議に出すのだろう。この男にはそれができる。目の前が真っ暗になった。


(今はこいつの言うことに従うしかない……)


 沙羅は洋子の出世の妨害だけはしたくなかった。母子家庭なのに沙羅を大学にまで出してくれて、いつも沙羅の味方をしてくれて……。


 それだけは無理だった。どうしても無理だった。


 今は言うことを聞くしかない。後からレネに知らせよう。 

 そうするしかない。戦略的撤退だ。そうして康貴と森山とどうすればいいか対策を練ればいい。


「わかりました、別れます……」

「そうか、では一筆書いてもらおう。これはDom同士の契約だ」


 契約書にはレネに近寄らないこと、連絡を取らないこと、そして、南方精密を辞めることが書いてある。


「別れたら……レネを社長に戻してくれるんですか?」

「それはあいつ次第だな。譲治に息子が生まれた今、あいつは繋ぎでありスペアでしかない」

「……スペア」


 スペアだと? 沙羅は信じられないものを見る目で、デスクの向こうの男を見た。彼は薄気味悪い笑みを浮かべていた。


「惜しいことだ。Subを後継にすると思うか? レネにDomの子供が生まれたら、その子を後継にしてもいいかとは思っている。あいつが、俺の家内の親族と結婚すれば、の話だが」


 沙羅は拳を握った。怒りに拳が震える。


「だったら別れてたまるか……」

「身を弁えろ、田舎の母子家庭の小娘が南方一族に釣り合うとは思うなよ?」

「レネだって、あんたのおかげで田舎の母子家庭育ちだ!」


 沙羅が激昂するが、健二はにたり、と不気味な笑みを浮かべて立ち上がった。手には封筒を携えている。

 彼は靴音を響かせながらデスクを回って沙羅の前に立った。沙羅は一歩後ずさった。


 身長はレネと変わらないくらいの長身で、レネよりは体格もいい。

 沙羅は圧倒されて声も出なかった。背を汗が伝う。


「これで手を打ってくれないか?」


 封筒を手渡される。なんだ、と中を見れば、一万円札が束になっていた。

 沙羅は健二を見上げた。


「二十万だ」


 あまりにも端金すぎて、沙羅は笑ってしまった。

 封筒から取り出して放り投げた。

 ひらひらと紙幣が舞う中で、沙羅は笑い始めた。


「私を金でどうこうできると思うなよ!」


 沙羅は無意識に《Glare(グレア)》を放っていた。

 彼はあっという間に腰を抜かした。沙羅は怒りに我を忘れていた。

 デスクの上にあった工業新聞をつかむと、沙羅を見上げて震えている彼の頬を強かに打った。

 無様な声を上げ、這って逃げようとする健二を沙羅は追いかけた。


「ゴキブリ野郎が! 見苦しいな、逃げるのか?」


 やがて沙羅が壁際まで追い詰めると、情けなくも許しを乞われた。


「Sランクか……た、助けてくれ」

「は? 今までそうやって助けてくれって言った人たちに、あんたは何をしてきた?」


 だんっと大きな音が響く。沙羅の靴底が、健二の顔のすぐ横の壁を突いた。沙羅が履いていたのは、内部に鉄板が入っている安全靴である。顔面に直撃したらひとたまりもない。

 戦意喪失した健二の顔色が更に青くなった。


 その時だ、ばんっと背後で音がして、沙羅は振り返った。

 

(秘書!)


 健二の秘書が二名飛び込んできて、沙羅はあっという間に羽交締めにされた。


「はなせっ!」


 沙羅は咄嗟に秘書にも《Glare(グレア)》を放っていたが、ふたりには全く効力がなかった。なぜなら、彼らはDomでもSubでもなくNeutral(ニュートラル)。彼らに《Glare(グレア)》は効かないのだ。


「よくやった黒田。ビンゴだ」


 健二はそう言うと、何事もなかったように立ち上がってスーツについた埃を叩いた。

 沙羅は羽交締めにされたまま、その光景に釘付けになった。愕然とした。

 普通、あれだけの怒りの《Glare(グレア)》を浴びながら平然と立ち上がるだなんて信じ難い。Aランクだとしても無理だ。しばらく起き上がることもままならないはず。


 でも、彼は沙羅の目にDomにしか見えなかった。


(まさか……)


「なんとなく、レネはDomらしくないと……Subのように見えることもあるなと思っていたが、Domの抑制剤を持っていたからDomなのだと思っていた。俺としたことが完全に騙された。でもあいつが首にネックレスをぶら下げているのを見て確信した。あいつはSubだと。調べさせれば、やはり《Collar(カラー)》だった」


 彼は腕を拘束されて膝をついた沙羅にゆっくり歩み寄ってきた。

 確かに、レネはSランクのDomである沙羅ですらなかなかSubであると確信の持てなかった男だ。

 そう、沙羅も初めは見抜けなかった。


「あの堅物がファッションでネックレスをするとは思えんからなぁ……」


 健二は沙羅に《Glare(グレア)》を放った。

 沙羅の身体が恐怖で震え、歯ががちがちと鳴った。

 もはや、沙羅は打開策を考えることすらままならなかった。


 健二もSランク。しかも、沙羅より若干力が強い。

 彼は、ずっと演技をしていたのだ。一ミリも、これっぽっちも、沙羅の《Glare(グレア)》は効いていなかったのである。


(役者だ……)


「さて、東新川。跪け、上位のDomに《Kneel(ニール)》して見せろ」


 沙羅はDomだ。本来コマンドは効果を成さないが、従わざるを得なかった。それは沙羅のDomとしての矜持を完膚なきまでに破壊するにはじゅうぶんであった。


「土下座して謝ってくれたら、君の母親を引き摺り下ろすことはしない。さもなくば……来年東新川洋子は六十歳。定年して、再雇用だ。新入社員と変わらん賃金で馬車馬のように働いてもらうことになる」


 沙羅は床に両手を突いた。喉が張り付いて謝罪の言葉が出てこない。

 それを一瞬のためらいと受け取った健二が畳み掛けるように言う。


「いいか? 俺の言うことを聞かなければ、まず森山を先日買収したばっかりの南方ソリューションズに出向させよう。秋田だからドイツへの直行便はないし、田舎で古い体質の会社だから長期休暇も許されん。そうそう簡単にアナ・カウフマンに会えなくなる」


 沙羅はもはや恐怖から過呼吸を起こしていた。


「あとはそうだなぁ……杉山もどこか遠方の拠点に配置転換してやろう」


 だめだ、そんなことをされたら、レネはひとりになってしまう。

 沙羅はもう何も考えられなかった。負けた。頭は真っ白だった。

 

 健二の言葉に流石の沙羅も心が折れた。

 彼女は床に額を擦り付けながら声を絞り出した。


「申し訳ありません……許してください」

「Subの女に《Kneel(ニール)》させるのもいいが、SランクDomの女を屈服させることに優る快感はないな」


 もういいだろう、謝ったのだから。沙羅は半ば放心状態で上体を上げかけたが、健二の足が沙羅の後頭部を踏みつけた。


「うぐっ」


 彼女は額を床に強かにぶつけることになった。うめき声を上げる。

 彼は足をなおも離さない。重い、頭が割れそうだ。


「さすが作業服を着ているブルーカラーの女だ。這いつくばる姿がお似合いだよ」

「展示会で……間近で初めて会った時から、私がDomだって気づいてたんですね」


 沙羅はくぐもった声を上げた。


「当たり前だ、俺もSランクだからな。お前が相当強いDomだと気づいていたよ、A以上だとは思った。俺より強いか弱いか、ここは賭けだったがな」


 やたら声をかけてきたのはそういうことだったのか。今更ながらパズルのピースのようにかちりと色々なものがはまった。


 Domの女性は少ない。A以上となればさらに減る。だから彼は、沙羅に声をかけてきた。面白がっていたのだ。ずっと目をつけられていたのだ。


 健二は沙羅の頭の上から足を退けたが、放心状態の彼女はそれに気づきもしていない。当然頭も上げず、声も上げず、健二の足元で平伏状態だった。


「さて、《Glare(グレア)》は暴力行為だ。先に放ったのは君だ。当社の社内規定に、暴力は禁止と書いてある。さっそくだが、我が社を辞めていただこう」


 健二は下品な笑い声を上げた。

 ひとしきり笑ったのち、彼の秘書が問いかける。


「とりあえず、本社に移送しますか?」

「そうだな。本社に。そのあとは……」

「いつものあれ……ですか?」

「機械油臭い女は好みじゃない、事務処理の後は誓約書を書かせて放り出せ」


 レネを、守れなかった。


 あまりにも自分は無力であったと沙羅は思い知らされた。彼は自分がランクの低いDomのふりをしたうえで、沙羅を怒らせ、《Glare(グレア)》を放つように仕向けたのだ。

 なおも頭を上げる気力も湧かない沙羅の目から、涙がはらはらと床に落ち、絨毯に濃い色のしみを作った。

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