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第75話 八王子、レネの視察

(ああ……社会復帰が辛い……)


 二泊三日の旅行はあっという間に終わってしまった。松山城を見て、蛇口から出るみかんジュースも飲んだ。道後温泉の本館にも行ったし、足湯に浸かりながらお茶を飲んだりした。


 何もかもが楽しかった。


 部屋では普通と違うことをしてみたいと、なんとなくレネを浴衣の帯で縛ってみたがしっくりこなかった。お互い笑いが止まらなくなり、レネは縛られたままベッドの上を笑い転げて落ちそうになった。

 次、逆に沙羅が縛られて「どっちがDomだかわからないなぁ?」と妖艶な笑みを浮かべた彼がセクシーすぎて沙羅は気絶しそうになった。思い出すだけで、心臓が口から飛び出しそうなほど騒がしく高鳴る。


 沙羅は煩悩を吹き飛ばそうと、頭をぶんぶん振った。

 今、彼女は配属の八王子工場オフィスに出勤したばかり。自席に腰を下ろし、PCのスイッチを入れたところだ。


「ヒガシ、犬みたいにぶるぶるしてどうした?」

「なんでもないです!」


 森山の声に、沙羅は元気よく答えた。彼はこちらをみて微笑んでいた。その目が語っている「楽しかったみたいで、何よりだ」と。


 沙羅はうっすらと笑みを浮かべて、社内ネットワークに接続した。

 メールを開けば、この日の九時、朝一番に社長、つまりレネから一通メールが来ている。

 内部通報、外部通報窓口の案内だ。南方精密は絶対にパワハラ、セクハラを許さない。被害者のプライバシー、人権は必ず守るゆえ、何かあればすぐに通報するようにと。


「これ、展示会場でヒガが色々あったから社長が気ぃ回してくれたんか?」


 安田もメールを見たようで、そう一言。

 森山が口を開いた。


「あの後、臨時取締役会をしたらしい。で、本社だけじゃなくて、工場、技術の準備室とかにも監視カメラつけることになったらしい。会長は最後まで社員のプライバシがーってごねて、社長とハイパー大げんかになったってこの前監査役が言ってた。ってなわけで、安さん、めんどくさがって準備室で着替えるのやめてください。更衣室があるでしょ」

「えー!!」

「おっさんのパンツ見せられてるヒガシの身にもなってくださいよ」


 非難する安田、そして沙羅の味方の森山。沙羅も森山の援護射撃をする。


「そうです! 安田さんの生着替え、うんざりです! 内部通報どころか、社長に直でバラします。私、社長の電話番号知ってんですから!」


 レネがこのオフィスにやってきた時、彼がくれた名刺を葵の印籠のように掲げる。そこには手書きの電話番号があるのだ。 

 懐かしくなってしまう。あんなに関わりたくないと思っていたのに。なんであんなに警戒していたのだろう、と初めて顔を突き合わせて話した日を思い出す。


「それは勘弁!」

「じゃあきちんと更衣室で着替えてください」

「仕方ないなぁ……女帝ヒガちゃんの命令だから……」


 誰が女帝だよと思っていると、視界の隅で隣の席の事務員、小森が笑いを堪えていた。

 不意に、森山が思い出したというように口を開いた。


「そうだ! 社長、順次抜き打ち検査するから、十二月は子会社も含め全国の工場視察するってよ。で、今日がここ」

「「「え?」」」


 フロアの全員から困惑の声が上がり、どよめいた。

 課長も係長も皆弾かれたように立ち上がった。


 皆の考えは一つである。


 汚すぎる準備室を、中身がはみ出して閉まらないロッカーを、開けたら雪崩が起こる戸棚を、あの几帳面そうで神経質そうで真面目が服着て歩いている社長に見られたら一貫の終わりだ。


 沙羅もあわててデスクの上に散乱している名刺をかき集める。


 そして、なんの迎撃体制も整わぬまま、無情にオフィス入り口のドアがばんっっと開いた。


「おはよう諸君、突然だが抜き打ちの視察に来た」


 ばっちりスーツを着込んだレネと、彼に付き従う康貴の姿があった。


「ヒィエェェ!!」


 沙羅はこの世の終わりのような叫びを上げた。

 プラモデルだらけの係長の机を発見、レネは黙っていなかった。

 机の上を数十体のプラモデルがずらりと並んでいるのだ。どんどん増殖していて、沙羅はプラモデルにはオスとメスがいて繁殖すると裏でネタにしていた。


(ああ! やめてあげて!)


「なんだこれは? 仕事に関係あるのか?」

「こ、このプラモデルの金型はうちの放電加工械で作っているので……」

「じゃあ打ったプラモ側じゃなくて、金型の方を飾れよ」

「え、い、いえ。組んだプラモデルをSHのレーザー装置でスキャンしてみたり……したこともあります」


 見苦しすぎる言い訳だった。沙羅は胃が捩れそうになった。


「いいから持って帰れ。飾るにしてもせめて一、二個にしろ。捨てろと言ったらパワハラになるから言わんが……これはせめてもの慈悲だと思え」

「……はい」


 やばい、そう思っていると目が合った。


「東新川」

「はいっ!」

「デスクを片づけろ」

「承知いたしました社長……」


 康貴が必死で笑いを堪えている。ええい、笑うんじゃない! そう思いながら沙羅は名刺を名刺入れに突っ込む。

 レネの名刺だけはメモスタンドに挟んだ。バネの先にクリップがついているタイプだ。揺れてぶんぶんしている。


「それはなんだ」

「晒し首です、うちのメンバーがいつでも社長に直電できるように」

「……」


 レネは呆れたような顔をして去っていった。

 いつもとまるで立場が逆である。沙羅がレネの予想外にお子ちゃまっぽい行動に呆れていることが多い。


 視界の隅で、康貴が腹を抱えて崩れ落ちた。


「そんなに面白いですか?」

「めっちゃ、めっちゃおもしれぇっ!」


 レネは工場長やその他部長クラスの幹部たちとの打ち合わせ、それから抜き打ちの視察をほぼ丸一日かけて行った。


 もちろん汚すぎる準備室には年末年始に片付けるよう指示してきたし、男性更衣室はとんでもないらしく入った瞬間に烈火の如く怒っていた。女性更衣室にはもうひとり連れてきていた女性の秘書に入らせていた。


「女性更衣室は綺麗らしい……」

「使うの、ヒガシしかいないから流石に汚れんでしょう」

「それもそうか」


 森山とレネの会話が耳に入ってきた。


 そりゃあそうだ、工場の作業員の更衣室はまた別フロア。アフターサポートで作業服を着て作業している女性は自分しかいない。


 レネは最後、監視カメラなどの設置を強化するよう指示をして去っていったようだ。

 嵐のような視察が終わり、沙羅の後輩が森山に問いかけていた。


「昼、社長と工場長とどこ行ったんですか?」

「焼肉屋。普通に千二百円のランチ食ってた。ご飯二杯くらいお代わりしてた」

「まじですか、あそこの白飯結構山盛りですよね? それにめっちゃ庶民派」 


 そう、見た目より食べる男でしかも庶民派なのである。

 夕飯はきちんと食べたいだろうが、仕事日、外で食べる昼食は安く腹が膨れればいいとしか思ってないだろう。彼はそんな性格だ。


 沙羅は心の中でそうそうと頷きながら、事務処理を淡々とこなした。

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