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第74話 旅館、温泉

 沙羅が浴室に足を踏み入れると、すでに身体を洗い終えたレネが浴槽に浸かっていた。


「湯加減はどうです?」

「ちょうどいい」


 沙羅はにこりと笑みを返し、身体を洗おうと腰掛けた。そして、視線を感じる。後ろを振り向くと、レネがこちらを凝視していた。腕を縁に乗せ、その上に顎を乗せて上目遣いの視線を向けてくる。


 その姿はなんとなく犬っぽくてかわいいが、あんまり見られていると落ち着かない。


 沙羅は一瞬外に目を向けた。うっすら曇ってはいるが、ガラスから見える外でも見たらどうだろうか。


「どうかしました?」

「見てるだけ」

「顔面に冷水シャワーかけますよ? 頭が冷えるといいですね」

「かけられても見る」


 沙羅は呆れ果てて言葉を失い、窓の外を指差した。


「レネ、《Look(ルック)》」

「ひどい……」

「私の背中見て楽しいです?」

「ウエストのラインとか背中とか……いい」


 いい。なんだそれは。

 沙羅はそれ以上の返事をすることすら面倒くさく、手早く身体を洗い始めた。

 まあなんとなく気づいてはいた。彼は隣に座るだけでいつも腕を腰に回し、ウエストのあたりを撫で回してくるし、服を脱いだら隙あらば後ろ姿を見たがるのだ。


(もの好きだなぁ……)


「はいはい、終わりましたよ。どこ見てもいいですよ」


 沙羅が湯船に滑り込むように入ろうとしていると、ざばりとレネが立ち上がる。


「窓を開けよう」

 

 沙羅が湯船に肩まで浸かると、彼はガラス戸を開けた。ぶわり、と冷たい風が頬を撫でた。

 曇ったガラス戸が開け放たれると、オレンジ色に染まる浮雲がぽつりぽつりと見え、真っ赤に染まった紅葉の赤が風に身を揺らしていた。


 湯加減もちょうどいい。

 少しぬるめでゆっくり浸かれそうだ。とても気持ちがいい。


「露天はいいな」


 レネが浴槽内、すぐ隣に身体を沈ませると、お湯が勢いよく口元まで迫った。


「……!」


 沙羅は目をしばたたかせ、座ったままお湯の中で飛び上がった。レネの腕がするりと伸び、抱き寄せられてこめかみのあたりに唇を寄せられる。

 柔らかな唇が触れ、軽いリップ音が鼓膜を撫でた。


「悪い悪い。驚かせたな」


 見上げると、レネは柔らかな視線でもって沙羅を見下ろしていた。

 沙羅の好きなはしばみ色。別名、ヘーゼル。

 緑でも茶でもない、二色が混じり合ったその色は唯一無二。


 沙羅は最近、気づいてしまった。なぜ彼とジュエリーを見に行っても全く興味をそそられないのかを。

 目の前に何よりも美しいその色彩があった。彼の虹彩は、どんな至高の宝石よりもうつくしい。


「今日は嬉しかった。相手はまあ置いておくとして、俺がDomになんかされそうになったらあんな感じで守ってくれるわけだ」


 Domが自分の庇護下のSubを守ろうとするのは本能だ。


「もちろん、当たり前ですよ。まあ部長には申し訳なかったですけど……」

「さすがSランクだ」

「ヤスさんも私の見立てだと結構ランク上ですよね?」

「あいつはA」


(護衛としては申し分ないか……)


 沙羅はレネといつも一緒にいられるわけではない。守ることができない。

 そして、彼が仕事で顔を合わせるような大企業の社長や幹部、政治家などは大抵Domだ。


 Subは欲求不満状態だと、いきなり見ず知らずの相手からのコマンドに従ってしまうこともある。レネは以前から抑制剤をうまく使いこの辺りをコントロールしていると言うし、そこは心配していない。

 だが、《Glare(グレア)》を向けられたらひとたまりもない。


「私も部長もいつもそばにいられません。ヤスさんに感謝しないと」

「うん、あいつには本当に感謝してる」

「レネが南方精密入るってなった時、ヤスさんは仕事辞めてまでついてきてくれたんですよね?」


 沙羅は、そういえば康貴の前職のことを全く知らなかった。


「ヤスは官僚やってたんだ。俺より全然頭いいよ」

「え! まじですか……すごいなヤスさん」

「ヤスの大学時代のゼミの後輩が、健二の犠牲者のひとりだ。それ聞いてあいつは許せなくて……あと、俺の母親がヤスにぼそっと言ったらしい。実は日本来て秀樹と結婚したいんだって。両親、つまり俺の祖父母が亡くなったあと母さんひとりぼっちだから。でも、会社に結婚の届けなんて出したら秀樹が何されるかわからないから言い出せないって。ヤスは激怒してた。ヤスも秀樹と仲良いからな」

「そ、そんな……」


 確かに、結婚したら会社にはなんらかの報告をしなければならない。森山の苗字が変わらないならば住民税やら銀行の口座などからすぐに足がつくことはなかろうが、おそらく規定に結婚する時には届け出るように社内規定に記載があるだろうし、アナの立場上、まずは日本に来て配偶者ビザをゲットするのが一番楽だ。扶養に入れるならば届け出なければならないのではなかろうか。

 沙羅はその辺詳しくなかった。しかし、彼女ですらここまで推測ができた。


「元々ヤスは厚生労働省で働いてたんだけど、とにかく激務で自分で強制労働省とか愚痴ってたし、見る見る痩せてったし、あいつの頭を活かしてみんなハッピーになる面白いことしようぜって持ちかけて……俺は金融の仕事を辞めた」

「会長にコンタクトを取ったわけですね」

「そう。最初からあいつに復讐しようと思って日本に住もうと思ったんじゃないんだ。当時、母さんには祖父母がいた。でも、秀樹は東京でひとりだった。そして日本が好きだった。本当にそれだけ」

「部長は、どう思ってるんですかね、アナさんと結婚したいって思ってるんですか?」

「それとなく聞いたことがある。秀樹は母さんと結婚したい気持ちとかあるんか? って。秀樹としては結婚したいなとは思うけど、母さんはそういうの言ってこないし、ドイツ人って結婚願望薄いだろ? 今のままで構わんって。遠距離だから、パートナーって呼ぶのもちょっと憚られるって言ってたなぁ」

「ドイツ人って結婚願望薄いんですか!?」


 沙羅はびっくりして問いかけた。

 結婚願望薄いだと? そうか、なんてことだ。


(私らももしかしたらこのまんまなのか……)


 沙羅は別に結婚願望があるタイプではなかった。何歳までに結婚したいなどと言っている人を見ると、どっちが目的なんだろうといつも思ってしまう。

 結婚したい相手がいればすればいいし、結婚が目的で、必死になって相手を探すのは沙羅の中ではちょっと理解し難かった。


 結婚って、スタートなんじゃなかろうか。そう沙羅は思うのだ。


 でも、相手がいるならばまた別である。レネとはこれからもずっと一緒にいられたらいい。ここのところ沙羅は結婚を意識しはじめていた。


「法的な結婚って意味ではな。別に紙ペラ出すだけだろ、出したところで何か変わるわけじゃないって。税金対策のために結婚する人はいるなぁ……逆に、離婚する方が面倒だし、あえて結婚しないで子供もいて夫婦生活送ってるカップルはいっぱいいる。未婚の夫婦も、既婚の夫婦と同じ権利が認められるから。多分、トビアスとカトリンも法的には結婚してない。お互いのことパートナーって呼んでるから」


 レネや康貴の親友夫妻はどうやら事実婚カップルらしい。衝撃だ。

 今までも文化の違いに動揺することは多々あったが、今回はレベルが段違いである。


(文化が違いすぎる……)


「日本はそうじゃないよな、とりあえず届け出さなきゃ変な目で見られそうだし。子供がいれば尚更」

「そうですね……事実婚カップルもゼロじゃないですけど、別姓がいいとか、再婚カップルでお互いの連れ子の苗字が変わるのが嫌とか、何か特別な事情がある人が多いんじゃないかなと」


(大丈夫、レネはわかってる。日本のカップルが基本的に結婚する文化をわかってる……大丈夫、多分)


「まあ、そんなわけだ……旅行来てこんな楽しくない話で申し訳ない」

「今回、ここに来れてよかったです。部長と合わせて休み取ってもらってありがとうございます。色々話が聞けて嬉しかったです」 


 今まで聞くに聞けなかったことも全て話してもらえた。これで彼と前に歩んでいける気さえした。沙羅はレネの手を取った。


「これからもよろしくお願いします」

「もちろん」



 ***



 食事ののち、ふたりは大浴場に向かった。内風呂と露天を堪能し、それぞれ部屋に戻り合流、ソファでまったりと茶を飲んでいた。


「夕飯も美味しかったし、大浴場も広かったし満足です」

「明日の朝食も楽しみだな」


 沙羅は期待を抑えきれずにレネの目を見つめた。彼は沙羅の視線に気づいて目を細める。

 どちらからともなく、唇が触れた。


「沙羅、コマンドが欲しい」

「レネ、《Strip(ストリップ)》。私の服を。全部」


 レネの目が猛獣のような光を帯びた。《Strip(ストリップ)》で服を脱げと命じたことは幾度となくあったが、このコマンドはDomの服を脱がせる際にも使用可能。


 自分の服を脱がせてもらう目的でこのコマンドを使うのは、沙羅は初めてであった。

 彼の欲望を刺激するのに、それはどうやらあまりあるほどにじゅうぶんだったようだ。下着まで全部脱がされて、貪るようなキスを受け止める。


「沙羅、俺のDom。愛してる」


 ソファで愛され、気づけばベッドに移り、沙羅はいつの間にか心地よい余韻の中で寝てしまった。

 彼女は翌朝、空が白んできた頃に彼の腕で目を覚まし、心地よい体温に包まれて二度寝を貪った。

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