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第72話 遥けき昔、舞姫騒動 replies

「あー、なんか飲め、うん、ラムネでいい? あ、冬だしお茶も用意してある」


 沙羅はあの後土下座せんばかりの勢いで謝り倒し、必死に止められ、そうこうしている間に店の中から森山の母親や兄が出てきて大騒ぎになりかけた。


 今、ふたりは室内に招かれ、室内に上がっていた。恩のある上司を道端にひっくり返してしまった。また頭に血が昇ってやらかしてしまった。

 沙羅は座るよう勧められたので、しぶしぶ上着を脱いで座布団の上に正座して、膝の上に拳を握って俯いていた。彼女は自分自身を恥じていた。


 昔ながらの畳の部屋、ちゃぶ台っぽい丸テーブルの上には急須やポットなどがすでに準備されていた。

 カゴに入れたみかん、それから店先から掴んできたと思しきラムネの瓶。それらを携えて森山が戻っていた。

 彼は慣れたように茶を淹れ始めた。


「部長、本当に大丈夫ですか? あの、横になった方が……」

「ああ、うん、大丈夫だ。俺も一応Aランクだから……ヒガシってS?」

「Sです」

「すっげ。Sランクなんて本当にいるんだなぁ」


 基本的に、《Glare(グレア)》はランクの差があればあるほど威力が強まる。Sランクの沙羅がCランクに本気の《Glare(グレア)》を浴びせたら、病院送りになってもおかしくないのだ。

 茶を湯呑みに三人分用意して、森山も座布団の上に胡座をかいた。


「今回は全部あんたが悪い。あいつの名前を出すなよ趣味悪すぎるだろ」


 レネは森山を睨みつけた。「悪りい悪りい」と言いながら森山は茶を飲もうとして熱いのか諦め、みかんに手を伸ばす。

 レネはラムネの瓶を手に取った。昔ながらのビー玉が入っている瓶だ。フィルムを剥がして慣れた手つきで栓を開けて、一気に半分くらい飲む。


 駄菓子屋のラムネを欄間や襖を背景に畳の部屋で飲んでいるレネ。彼のいかにもヨーロッパ人といった顔面とこの和風な部屋のミスマッチな光景に脳がエラーを吐き出しそうだ。


「というわけで改めて。実はそう、俺の……父親みたいなもんだ。由春ってミドルネームは秀樹がつけてくれた」

「そんな人に……それじゃなくても部長にはお世話になってるのに……すみませんでした」


 失意のどん底にいた沙羅は再び頭を下げる。そこで男性陣は慌てに慌てた。


「沙羅は何にも悪くない。Subからしたら自分のDomが守ろうとしてくれるのは本当に嬉しいことだ」

「そうそう、今回は本当に全部俺が悪いから! 俺はどっちかというと仕向けたんだ。ちゃんとヒガシがレネを守ろうとするか気になって……」


 それを聞き、レネは眉を吊り上げて森山の肩を掴んでガンガン揺さぶった。 


「沙羅を試そうとするなこの野郎! 聞いてないからびっくりしたぞ! ふざけるな」


 どうやら、レネもこの嬉しくないサプライズを食らった側のようだ。


(まじか……)


 はたして、自分の行動は名付け親から見て合格だったのだろうか。


「私、合格ですか?」

「もちろん。掴みかかってバラしたらぶっ殺すくらい言われるかなぁ。そのくらい言ってくれなきゃレネを預けられんと思ってたらいきなりの《Glare(グレア)》。痺れるな〜。俺は仕事中のヒガシしか知らないから……なんだその目は」


 レネは十五センチくらいの至近距離に接近、上司と彼氏が間近で見つめ合っていて沙羅は混乱した。レネの視線はとにかく険しい。


「沙羅をテストするな」

「悪かった悪かったよ。でも俺だってDomだからそこんところ心配になったわけで……まあこれでも食っとけ」


 森山はみかんを一房手に取ると、レネの口元に持っていった。彼は手で受け取るでもなくそのままぱくついた。


「おい今俺の手まで食おうとしただろ?」

「このみかん、美味しいな」

「おいこら無視すんな」


 レネは森山を無視して姿勢を正し、テーブルの上のみかんに手を伸ばした。

 沙羅はもう意味がわからなすぎて頭痛さえしてくる始末だった。


(レネが部長の手から直で食べてる……)


 でもひとつだけわかることがあった。レネは森山に相当心を許し、そして甘えている。

 彼のこのすっとぼけた態度は、康貴に対するそれと似ていたからだ。


 先ほども「父親のようなもの」と言っていた。

 彼にも父親がいたのだ。それが森山ならば沙羅は何も思うことはない。


 沙羅はいい加減落ち着きを取り戻してきて、机の上のラムネの瓶に手を伸ばした。子供の頃、よく行った駄菓子屋で父親にこれを買ってもらい、一緒に軒先のベンチで飲んだ記憶が蘇る。

 味はなんの変哲もないシュワシュワして甘い懐かしの味。それが妙に落ち着いた。


「では、あの……色々教えていただけます? 一体なにがなんでどう名づけ親に?」

「あの頃、ドイツは東西が統一したばかりでなぁ……」


 それから森山は昔を懐かしむように話してくれた。

 彼は実は《《文系の大学》》を出ていて、初めは海外営業に配属、現会長、健二の次の要員としてドイツの駐在員をし、一年ほど引き継ぎの任期が被ったこと。


「当時の事務所はデュッセルドルフにあって、アナが日本語を勉強してる大学と近かった。俺は彼女の大学のドイツ語研修に通っていて、そこでボランティアしてるアナに互いの言語を教え会おうって声をかけられた。その時はもちろんただの言語パートナーだったよ。でもまさか、健二と付き合ってるって言われて……」

「部長は、会長は既婚者って知ってるから愕然としたわけですね」


 森山は重々しく頷いた。

 森山はとてもではないが健二が既婚者だとは言い出せず、ついには健二が任期を終えて帰る直前、アナがレネを身籠ってしまった。後悔の念から、森山は彼女のサポートを始めた。養育費の件とか、騙してたことを訴えたいなら手助けすると申し出たらしい。


「でも、アナももう既婚者である健二への思いはとっくに冷めてて、俺たちは戦友みたいな関係からいつしか恋人同士になって、半分一緒に暮らしてた。で、名前つけてほしいってなって言われて、それで……なんだろう、ミドルネームだし、せっかくだから今っぽくない方がいいかなって、俺の死んだ爺さんの名前からとった」

「そうだったんですね、だから母子家庭なのに、日本のミドルネームを」

「父親や祖父から名前をもらうって向こうだと割と普通らしい。な、レネそうだろ?」

「うん、よくあることだな。だから秀樹は俺の父親みたいなもん」


 でも流石に養育費はもらいたい。レネが将来日本でもドイツでもどちらでも暮らせるように選択肢も残したい。ならば認知してもらえるに越したことはない。


「一時帰国にアナとレネを伴って日本に戻った。こいつずっと寝てたよ。まじでありがたかった。日本で俺は表に出るわけにもいかないから、アシストだけした。アナは健二に養育費だけでも払ってって迫ったけどけんもほろろ」


 それは沙羅も知っての通りだった。かの有名な舞姫騒動である。


「断られたことも想定して、俺は当時現役だった自分の親父にこんなわけでドイツ人の女の子とこれから一緒になることを考えてるって言ったけど、外国人嫌いの親父は激怒。俺も強くは出られなかった。こんな田舎で必死で和菓子屋やって、俺を東京の大学まで行かせてくれた親の反対を押し切るのは辛くてな」

「昔の田舎の職人さんって、そういうの厳しそうですよね……」

「そう、次男だから手に職つけるために東京の大学に出したのにって……俺は諦めた」


 それからふたりしてドイツに戻り、レネが五歳になるまで一緒に暮らした。そして任期も終わり、レネはまずはドイツで育てたいとアナが言い出した。


「あの時はバブル崩壊して日本は最悪の景気だった。俺もそれには大賛成だった。お互い、行き来しようって話になったんだ。で、その時、アナはエアフルトの実家の近くで日本語講師の仕事が決まった。それからレネはエアフルトで育った」

「俺もあんまり覚えてないんだけど、日本語の発音がいいのは五歳まで秀樹と育ったからだと思う。その後結構忘れちゃったんだけど、エアフルトで康貴と再会してまた勉強始めて……」


 なるほど理解した。全てに納得がいった。

 多分、幼少期に日本語を話す基礎ができていたのだ。


「で、俺はアナのアシストしたのが完璧に健二にバレた。普通、駐在員が日本帰ったらよっぽど家族の事情とかない限り本社で出世まっしぐらなんだけど……」


 言い淀んだ森山の肩を抱いて、レネがつづける。


「秀樹は嫌がらせみたいに八王子工場の修理工場に放り込まれたわけだ。文系卒で、ずっと営業しかしてこなかったのに。それからずっと冷遇して……俺が会長を許せないのはそこだ。母さんの件だけなら復讐しようとは思わなかったかもしれない」


 安田が言っていた。森山はとても優秀なのになぜか社内で干されている。そして、上司からの見合いを断り、彼はずっと独身を貫いている。

 彼はすでに家庭があるも同然なのだ。


「部長は……転職とか、考えなかったんですか?」

「バブル崩壊直後だぞ。簡単に仕事なんて見つからない。しかも、南方精密は昔っから海外かぶれが多いから、長期休暇とって旅行するやつとか大勢いてな。有給は割と融通が利いた。二十四時間働けますかの時代にだぞ?」


 沙羅は押し黙った。確かに、その時代に転職は難しい。転職したら休みも取れず、ドイツに行くのは難しくなる。


「東京に住めるのも俺にとってはドイツに直行便で行きやすくて都合がよかった。アナとレネに会えるならって踏みとどまることにした。腐っても大手だから、多少干されても給料は悪くない」


 全てに納得がいった。それにしても森山は文系の大学の出だったのか。信じられない。彼ほど機械の知識がある人間は、安田くらいじゃなかろうか。

 

 沙羅の中で、健二への怒りが沸き起こった。


「あの変態クソジジイ許せない……まさか部長にまでそんな……」

「あ、女の子がクソとか思ってても言っちゃダメだぞヒガシ!」

「うるさいですね、あいつはクソですよ!」

 

 レネはヒートアップする沙羅とは対照的に、落ち着いた様子でぬるくなってきた茶をすすって口を開いた。


「そんなわけで、今俺は健二の犠牲者の情報を集めてコンタクトとって、訴訟しないか、って話をしてるんだが……なかなか厳しいな。皆うんと言わない。どうやって引きずり下ろすか……」

「レネ、無理すんな。ほっときゃそのうちいなくなるぞあんなジジイ。もう若くないんだから」

「それは無理だ。どっちみちアレをどうにかないと沙羅といつまでもこそこそつき合う羽目になる。あのおっさんはどうしても俺と姪を結婚させたいらしい。妻に言われてんだろうな」


 沙羅はふたりの話を静かに聞いていた。自分のことは正直どうでもいいのだ。無理はしないでほしい。

 そして被害者の件、沙羅は妙に納得できてしまった。健二からセクハラを受けていた女性たちはそうそう簡単に訴訟なんて考えないだろう。


 警察にも弁護士にも、それから裁判でも自分がどんなことをされたのか言わなければならないし、周りに知れ渡ってしまう可能性も大いにある。

 婚約者がいれば破談になるかもしれない。子供がいればいじめられるかもしれない。日本は泣き寝入りする女性が多いのではないかと彼女は推測していた。

 

 森山は左手を伸ばしてレネの肩をさするように撫でた。


「康貴にあんまり負担かけるなよ? あいつはお前のこと大好きだからなんでもしようとするだろうけど」

「わかってる……」

「ま、というわけでヒガシ、そういうこった。暗い話はここで終わり。もういい時間だしな」


 森山の発言で時計を見る。もう十二時をとっくに過ぎていた。

 沙羅がレネに目を向けると、彼は何か企んでそうな意味ありげな笑みを浮かべた。


「じゃあ、そんな大好きなパパに一つお願いが」

「お前が俺をパパとか父さんとか親父とか呼ぶ時にはロクなことがねぇ」


 森山は目に見えて半分おふざけの混じった怯えた表情をし、座ったまま後退りした。


「俺と沙羅を地元民おすすめの飯屋に連れてってほしい」


 レネのお願いを聞いて、一瞬目を見開いた森山は声を上げて笑って見せた。


「ヒガシ、俺みたいなおまけもついてきちゃっていいのか?」

「おまけなんかじゃないです! もちろんですよ!」

「わかった、車出そう。ちょっと待ってくれ!」


 沙羅は部屋から出ていく森山を見送った。「兄貴ー! 車借りんぞー!」という声が遠くから聞こえる。部屋に残されたふたりは顔を見合わせ、レネは少しくすぐったそうな笑みをこぼした。


 そうか、森山がエアフルトに詳しいわけがようやっとわかった。出張時、橋を見てこいとか教会を見てこいとか、あれは彼がエアフルトをよく知っているから言い出せたことだ。今更ながら合点のいった沙羅であった。

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