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第71話 松山旅行、ディフェンス

 怒涛の展示会の準備、会期が始まれば土日も休みなく働き、そして片づけ。

 それが終わってからは、元の作業に明け暮れる日々。

 沙羅とレネは休みの日は互いに体力回復に努めようとそれぞれの部屋で過ごした。そうして、気づけば十一月も終わりに近づき、冷え込みも一層厳しくなっていた。


 その日、沙羅はレネと一緒に松山空港を降り立っていた。

 今度こそ正真正銘、初めての彼との旅行だ。朝から……いや、数日前から彼女はワクワクが限界を超えて落ち着きがなかった。こんなこと初めてだ。


 沙羅はこの南方精密に入って出張三昧の日々を送るようになってから、旅行というものが大嫌いになった。


 あちこち行きすぎて、もう外に出たくない。

 そんな気分だったのに。


 出張の時も自分で飛行機やホテルを手配している沙羅は、旅行の計画をするのも仕事みたいだなと行く前から飽き飽きしていた。

 いい加減、うんざりだったのに。


 レネが隣にいるだけで、旅行だってこんなにも楽しい。昨日の夜は楽しみすぎてあまり眠れなくて、沙羅は飛行機の中でレネにもたれて意識を失っている始末であった。


 二泊三日、温泉に入ってのんびり過ごす予定だ。松山から出るつもりはなく、ふたりは美味しいものを食べ、身体を休めようと話をしていた。


「天気良くて、よかったですね!」

「沙羅の日頃の行いの成果だな。暖かいし、これならいい」

「私ですか? そんなことないですって! 松山に来たいって言ったの、レネじゃないですか! レネのおかげですよ!」


 空気は澄み、空は青く、はるか彼方の飛行機雲が綺麗に見える。

 着陸直前に目が覚めて飛行機から見下ろした海は太陽光を受けてキラキラと輝いていた。


(海だ!)


 内陸部で育った沙羅にとって、眼下に見下ろす島々や海は興奮を誘うものであった。今回は海には行かないが、そのうち海の見える露天風呂なんかに一緒に行ったら楽しいかもしれない。


「とりあえず、荷物預けにホテルですね!」


 ふたりはタクシーに飛び乗った。ホテルに荷物を預けた時、まだ時刻は昼前だ。

 とても風情のあるロビーの旅館。部屋も風呂も、それから食事も実に楽しみだ。


「とりあえず……その辺うろちょろしましょうか、ご飯も適当に!」

「ああ、メインは夕飯だから、腹八分目程度に何か軽く食べようか」


 確かに、旅館の食事は量が多い。昼は軽く食べるくらいでちょうどいいだろう。

 沙羅はレネの手をきゅっと握った。レネと目が合ったので、えへへと笑う。

 彼は微笑みながら沙羅の目尻あたりに軽く唇を寄せた。


「なあ、沙羅。道後の商店街の近くに一箇所だけ行きたい店があるんだ」

「もちろんですよ! 私も後で何かみかんとか買いたいです!」


 商店街には土産物屋や飲食店が並んでいた。

 彼の足取りを見て思う。迷いがない。きっと彼は来たことがある。


「レネってここ来たことありますよね?」

「ああ、わかるか? ヤスと日本国内うろちょろしたからその時に。駅前のユースホステルに泊まった」

「そっか、だから旅館とかあんまり経験ないんですね」

「あの頃はとにかく金がなかったからな。今とは大違いだ」


 彼は皮肉っぽく笑った。

 確かに、今や彼の報酬は億を軽く凌駕する。


「仕事以外の旅行だと、母が仕事忙しかったから、私も数えるくらいしか旅館泊まったことないですし……あ、鬼怒川には行きましたね。隣の県なので」

「栃木だろ? 俺も日光には行ったな……ホテルの部屋、間違えて康貴とふたりなのにダブルルーム取ってた最悪な思い出がある」


 沙羅は彼の顔をまじまじと見た。


「ひとつの部屋で、ベッドひとつ」

「ああ。絶望してる俺たち見て、フロントスタッフが笑いを堪えるのに必死だったな」

「で、どうしたんですか?」

「他に空きはなかった。頑張って寝た」

「一緒に?」

「うん、俺の人生の汚点だ……野郎とひとつのベッド……」


 沙羅は流石に笑いを堪えられなかった。あの、体格のいい康貴とダブルベッド。


 事件である。


 レネは細身だ。着痩せする方だと思うが、わかりやすく言えば細マッチョだと沙羅は思っていた。康貴は全くの逆だ。顔は甘めで端正だが、首から下は割とがっしり、いかにも鍛えていそうな体格。

 そしてふたりとも、百八十センチを超える長身である。


 そのふたりがひとつのベッドで寝ただと!?

 狭すぎるし、想像するだけで面白すぎる。


 沙羅は土産屋の軒先で腹を押さえながら笑い転げそうになった。


「ヤスさんと一緒のベッド……狭いっ!」

「ヤスは体格がザ・ドイツ人だからなぁ……細くなって寝た。お互い寝相がいいからなんとかなった」


 確かに、レネは寝相がいい。そうでなければ成立しないだろう。


「沙羅と日光に行って記憶を塗り替えたい。できれば奥日光にも泊まりたい」

「も、もちろんですよっ! あははは! 楽しすぎる!」


 これほど笑ったのは久しぶりだ。楽しい、あまりにも楽しすぎる。

 腹筋爆発の危機を乗り越えた沙羅は、レネの手を引いてやれあっちの店がなんだ、この店美味しそうだのと商店街を満喫。


 他にも土産屋、砥部焼というこの辺りの伝統の焼き物の店、それからカフェが連なっていた。

 アーケード街を抜け、駅前で左に目を向けると。レトロな雰囲気のからくり時計が目に飛び込んできた。


「あ、からくり時計ですね!」

「今は十一時半か、後で狙って来てみよう」


 まだまだ時間はある、その辺をのんびり散歩もよさそうだ。旅館に帰りつつ土産を買おう。まだ手ぶらでぶらつきたい。せっかく愛媛に来ているのだから、どこかでみかんも買いたい。


「行ってみたい店ってこの通りですか?」

「ここじゃないな、近いけど。昼の前にちょっと行ってもいい?」

「もちろんですよー! ところでなんの店ですか?」

「着いてからのお楽しみというやつだ」


 旅館やホテル、それから飲食店がちらほら。住宅も半々を占め、この辺りに住む人々の生活が垣間見える通りを進み、「次の信号、左」と言われて、素直に曲がる。その時、声が聞こえた。


 とてもよく知っている声で沙羅は愕然とした。


「あっれ〜? いいのかそんな堂々と手を繋いで。会長にチクるぞ?」


 沙羅は勢いよく左を向いた。和菓子屋の軒先、赤い布のかかったベンチにひとりの男がいた。

 驚きに、心臓が跳ねた。沙羅は絶望した。見られてしまった。


 そこにいたのは上司の森山である。


 雷が直撃するほどの衝撃に、言葉を失う。これは致命的だ。


「部長……」


 そこからの沙羅の行動は早かった。

 本能的に、レネを背後に庇う。


 恩があるとか、大好きな尊敬できる上司だとか、そんなものはもう沙羅の頭の中になかった。あるのはただひとつ、己のSubを守ろうとする本能だ。


「いくら部長でも、会長に言ったら絶対に許さない!」

「おい、沙羅、ちょっと待て!」


 後ろからレネが慌てて声をかけるが、沙羅の耳にはもはや入らなかった。

 

 沙羅は《Defense(ディフェンス)》という状態に陥っていた。


 それは、Domが自分のSubに危害が加えられた時に陥る状態である。Subを過剰に守ろうとするあまり周囲に対し暴力的になってしまい、《Glare(グレア)》を放ってしまうこともしばしば。


 沙羅はDomとしての特性が強く、もちろん例外ではなかった。

 沙羅の真正面にいた森山は彼女の目から放たれた《Glare(グレア)》をまともに食らうことになった。


「こ、れは……なかなかだな……」


 もう晩秋、いや、もう冬だと言っても過言ではないのに、森山は額に汗を浮かべ、苦悶の表情を浮かべて椅子から転げ落ちた。


「沙羅、やめろ!」


 レネが森山に駆け寄る。彼の後ろ姿を見て、沙羅は我に返った。当然放たれていた《Glare(グレア)》は掻き消える。


 一般的に、《Glare(グレア)》は目から放たれるもので目と目が合わないと影響は出にくい。

 視野に入る、あるいは横顔が見えれば沙羅くらい強いDomだと多少なりとも周囲に影響を及ぼすこともあるが、背中なら問題ない。レネはおそらく大丈夫だ。沙羅は慌ててふたりに駆け寄った。


「秀樹! 大丈夫か!」

「だ、大丈夫だ……悪かったなヒガシ、あれは冗談だ。健二を老害とか言ってる俺がチクったりするかよ」

「秀樹もふざけすぎだ!」


 沙羅は森山と彼を下の名前で呼ぶレネに交互に視線を向けた。


「え……え、どういうことです!?」

「秀樹は俺のミドルネームの名付け親。で、俺の母の彼氏」

「アナさんの彼氏?」

「そう、ずっとふたりは遠距離恋愛してる」


 沙羅は理解が及ばず、混乱を隠せず、まともな言葉も思い浮かばず、とりあえず立ち上がろうとする森山に手を貸した。

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