第70話 康貴のアシスト、会期の終わり
「あの、すみません会長。実は僕、社長から参加するように言われてまして……自分を呼ぶ以上、社長はあまり一般社員には聞かれたくない話も考えているのでは、と」
康貴が少々困ったように、それも人懐っこく言ってのける。
その時、足音が聞こえてきて、健二が後ろを振り向いた。
皆の視線の先には噂の男の姿があった。
「そうか……お、レネじゃないか!」
なぜこんなタイミングで、こんなところに来るのだろうか。こんなに広いブースなのに。
もはや、会場は静寂に包まれていた。皆、片づけを終えて帰宅済み。機械はどこもかしこもカバーがかけられている。
「最後に見回りを、と思いまして。いかがしました? 何かトラブルでも?」
彼は全員を見回してゆっくりと口を開いた。
「ああいや、会食の枠が空いただろ? 彼女に来ないかと言ってみたんだが、残念ながら振られてしまった」
健二が困ったように肩をすくめると、レネは心底驚いた顔をして見せた。
こいつはなにを言ってるんだ? ありえないだろ。そう顔面に書いてある。
「え、東新川を誘ったんですか?」
「ああ、空いた枠の件、知らなかったな。いつの間に杉山とそんな話を?」
「……ああ、総合的に判断し、適切だと判断したまでですよ」
レネは一瞬、「ん?」という反応をしたが、そうさらりと言ってのけた。
眉がぴくりと上がったのだ。この違和感は、沙羅だから気づけたことだ。
もしかして、と沙羅は思ったのだ。康貴の先ほどの台詞、「代打俺」は彼の出まかせではなかろうか。
(やばいやばいやばいやばい)
「僕はまあまあ外国語もできますし、先方と面識もあり、仕事の込み入った話も問題ありません……ねえ、社長」
「そういうことです。酒の席で商談の話が弾むかもしれないので一般社員を呼ぶことには私は反対です」
そうか、残念だと健二は大袈裟な反応をした。
「ところで会長、秘書たちが探し回ってましたけど大丈夫ですか?」
レネは咄嗟に話題を変えたようだった。
「ああ、何度か電話がかかってきていたな。仕方ない、戻るとするか」
「今夜は確か輸入協会の幹部と会食では? 秘書を撒いて楽しむのやめてやってくださいよ。いつもそうやってフラフラフラフラ」
「わかったわかった。そう怒るな」
じゃあなと健二は手をひらひら振りながら去っていった。
その姿が見えなくなって、ようやく森山が口を開いた。
「やっべー、びっくりしたな。ヒガシ、またなんか変なこと言われたら俺に言えよ? あいつ絶対目ぇつけただろ……しばらく本社には行かない方がいい」
「森山、頼んだ。ショールームの機械の修理やら立ち上げは別の人間を派遣してくれ」
レネが眉間に皺を寄せて悩ましげに言うと、森山が頷いた。
「承知!」
(私は会長におもしれー女認識されたってことか……)
沙羅は自分自身、別に背が高くてスタイルがいいわけでもないし、顔も普通だし、なぜそんなことになってしまったのか全くわからなかった。
しかし、きっかけは河村のセクハラ発言騒動と考えると納得がいく。
隣の小林に目を向けると、彼は状況が全く読めない、と言った様子で皆を見回している。
森山が小声で言った。
「会長は手癖が悪いことで有名だ。女性社員が目をつけられそうになってたら、さりげなく助けてやれ……とは言っても難しいな」
「噂では聞いていましたが……社長もいらっしゃって本気で心配されている姿を見るに……」
レネは重々しく頷いた。それが全ての答えである。
「会期中は東新川さんから離れないようにします。何かあったら部長に連絡します」
小林に申し訳ないなと思いつつ、沙羅は康貴に問いかけた。
「ヤスさん、さっきの口から出まかせですか?」
「うん……あれちょっと苦しかったかな……今も膝ガックガクしてる」
やはりそうか、咄嗟に助けてくれたのか。
このふたりの連携、本当に恐ろしい。
「多分会長は気づいてない。助かったヤス。俺も焦った……」
レネも別の会食があるとかで、しばらくして康貴を伴い、足早に去って行った。
「帰るか……二人とも飯でもどう? まだ初日だし、酒一杯までなら奢る」
「やったー! 部長ありがとうございます!」
「俺までいいんです? ありがとうございます!」
バックヤードに荷物を取りに行った。これだけ広いブースだ、バックヤードは複数用意されており、そのバックヤードのサブ責任者は森山なので、彼は最後鍵を閉めた。
彼らは近くのビルのファミレスに行き、怒涛の一日目を乗り切ったなぁと一杯だけ酒を飲んだ。
***
結局、会期はそれ以上の健二との接触もなく無事に終了した。
たまに見るレネは、接客フロアのテーブル席で他社の重役と話をしていることが多かった。もちろん健二と一緒の時も。
ふたりに近寄るのは危険だ。遠巻きにたまに目にすることもありはしたが、沙羅はそれ以後、できるだけ目立たないようにこっそりひっそりと過ごしたのだ。
機械が全て搬出された会場で、沙羅は安堵の息を吐いていた。あとは最後のトラックが出ていくだけ。工具箱や小物などを詰め、八王子に向かってもらう。
明日は、機械や荷物の受け入れである。
そこには、ニコラスからのプレゼントも入っていた。手で持って帰るには大きすぎたからだ。オフィスの事務員などとも一緒に、おやつに食べたいと思っていた。
その間にも、木工で作られたブースがどんどん解体されていく、さながら工事現場だ。
(本当、勿体無いの極みだよね……)
ニコラスは、自社は展示会をあまり大々的には打たないと言っていた。この巨大ブースで一体どれだけの見返りがあるのだろうか。
「じゃあ、俺たち帰るな。今度ドイツに来たら、案内させてくれ」
「はい!」
沙羅はニコラスたちを見送って、時計を見ればもういい時間となっていた。小林はとっくに大阪に向かっていたので、沙羅は他の面々と駅に向かった。もう空が暗かった。
どんよりと立ち込める雲が、冷風を呼び込んでいる。今夜あたり雨が降りそうだ。
森山がぼそっと言った。
「終わったな……」
「そうですね……、それにしても、あんな構造物をどかどか壊しちゃうんですね。この展示会でどれだけ引き合いがあったんでしょうか……」
景気もよくない。この展示会にはとんでもない金がかかっている。次のボーナス、減りそうだなと沙羅は思った。
森山横並びで歩いていた沙羅であったが、後ろから顔を突っ込んできたのは安田だった。
「タバコ吸ってる時本社内勤のやつらに聞いたんだが、あの巨大ブース、会長の見栄らしいぜ。自慢の息子たんお披露目パーティ……」
「え、そうだったんですか!?」
思ったよりも大声が出てしまい、沙羅は自分で自分にびっくりしてしまった。
ポケットに手を突っ込み、ひたすら前を向きながら森山が言った。
「そんなことだろうと思った。社長本人はこのクソデカブースに大反対ってのは俺も聞いてた。健二、なんだか耄碌したな……昔はもっと覇気があったぞ。今や老害ジジイか。年取るって残酷だな」
レネはこれからどうするつもりなのだろうか。
健二は沙羅の目から見ても老害の域に達しているなと思わざるを得ない。
どんよりした空気を吹き飛ばすように、森山が明るい声を出す。
「ま、まだ展示会は終わってない。今日は早めにみんな帰って、明日は受け入れして、片づけして……ヒガシ、月末は休み取ってたな? 旅行か?」
「はい!」
「楽しんでこい。俺も流石に月末は長めに休ませてもらう。ちょっと野暮用で地元に帰る」
「部長ものんびりしてきてくださいね。ご実家、四国でしたっけ?」
「そうだ」
月末、レネとの松山旅行である。空港あたりでバッタリ会ったりしないよな? と沙羅は一瞬逡巡し、まさかなと小さく口元に笑みを刻んだ。




