第67話 ホテル、隣の部屋
「え……隣?」
沙羅は部屋に入って混乱しきりでベッドの周りをうろついた。誰かの仕込みとしか思えない。康貴か? 康貴なのか?
「変なことするとリスクがあるからな……」
流石のレネでもそんなぶっ飛んだことをするわけはない。そう心の底から願いたい沙羅がいた
(いや、やりかねなくない?)
沙羅ははた、と足を止めた。監視カメラをいじり回す男たちである。やりかねない。
しかも、このホテルは個別に予約したものではない。会社が一括で押さえたものだ。
ありうる。大いにありうる。犯人は康貴だ。そうに決まっていると沙羅は結論づけた。
彼女は、まあとりあえずと上着を脱いでハンガーにかけ、ふと時計を見る。時刻は未だ八時過ぎ。椅子を引いてとりあえず腰を下ろすと、先ほどベッドの上に放り投げていたスマートフォンが鳴った。
予想通りのレネである。沙羅はスピーカーをオンにして電話に出る。
「……隣だったか驚いたな?」
「仕込んだんですか?」
「まさか、偶然だ。俺だってそんな危ない橋は渡らない」
(流石に今回は違ったか……)
それにしても、背後からバサバサという衣擦れのような音が聞こえる。疑問に思った沙羅はためらいもせずに聞いてみることにした。
「なんの音です?」
「脱いでる」
沙羅は何を言われているのかわからず、一瞬思考停止した。そして至極当たり前のことを問いかけた。
「……服を?」
「服を。軽くシャワー浴びたらそっち遊びに行ってもいい?」
案の定だ。結局そうなるのかと沙羅は慌てた。
「わかりました。私もシャワー浴びてくるんで! こっちの準備できたら呼ぶのでゆっくりお風呂入ってくださいね!」
「待ってる」
沙羅はとりあえずシャワーを浴びるべく荷物を漁り、着替えを取り出した。
***
風呂から上がった沙羅はレネと電話しながらドアスコープから外を伺う。そして顔を出して左右を確認。よし、誰もいない。今だ!
「《Come》!」
レネはスマートフォンだけ持って部屋に滑り込んできた。時間にして一秒なかったであろう。
そして彼はものすごい勢いで正面から抱きついてきた。
「うわっ!」
そのままの勢いでベッドに押し倒されてじゃれつかれる。沙羅の手からスマートフォンが吹っ飛んだ。
「ちょっと! 犬じゃないんですから!」
「ワン!」
犬の鳴き真似をして、首筋に顔を埋めてきたレネ。沙羅の鼻に届いたのは爽やかなシャンプーの香りだ。髪はまだ少し湿っている。
沙羅はかわいいSubのあきれるような行動に、流石にコマンドを発し制した。
「《Stay》!」
途端、レネの動きが止まる。沙羅は彼をベッドに座らせて吹き飛んだスマートフォンを取りに行った。画面を見ればまだ目の前の男と通話状態になっていたので、「ちょっとまだ通話中じゃないですか、何やってんです」と呆れた声を出しながら通話終了ボタンを押した。
そのままちょっと焦らして、しょぼくれた顔でレネが見上げてきたのでくすりと笑う。
「はい、もういいですよ。《Good Boy》。よく来てくれましたね」
レネの頬に手を伸ばすと、彼自ら擦り寄ってきた。確かに犬っぽい。だんだん彼がドーベルマンに見えてきた沙羅がいた。何もかも全部康貴が悪い。
「本当に何も仕込んでないんですか?」
「誓って何も」
「……そうですか」
ベッドに腰掛けているレネの隣に静かに座った。
程よい硬さのベッドが沈み込む。
彼の服装は、最近よく寝る時に着ている黒いガウンだった。夏は無地のTシャツ姿だった彼だが、最近はこのガウンをパジャマにしていた。ホテルのオレンジ色の間接照明で見る彼の瞳は、いつもと違った色を宿していた。それから、首に揺れるプラチナもいつもと違う輝きを放つ。
「今日は大変だったな……」
腕を回され抱き寄せられて、珍しく沙羅から抱きついた。
「レネってあんなに静かに怒るんですね……」
「君を怖がらせる気はなかった……それに、君も自分でも文句を言いたいんじゃないかと思って最初は我慢して黙っていたんだが、安田と森山が飛びかかりそうだから凄んでみた」
(私、あの時パニックになってたな)
沙羅は心の中で自分自身にうんざりして、彼の膝の上に正面から乗り上がって首筋に顔を埋めた。
「君は部署の人間に愛されてるな。さて、次の人事異動を楽しみにしろ。見ものだな……会長はごちゃごちゃ言ってるが」
背中をよしよしと撫でられる。これではいつもと逆ではないか。沙羅はレネの襟足とプラチナのチェーンを手でもてあそんだ。
会長は河村を外すことに反対なのだろうことが彼の発言からうかがえた沙羅であった。
「会長はなんて?」
「見逃してやってくれないかって……一方的に見逃せるかって言っても喧嘩になるから、なんて言ったらあいつを納得させられるか考えた」
彼は一呼吸ののちに答えた。
「あれだけ社員が見てる中で吊し上げたのに、それで降格も何もなしとは俺の顔を潰すのかって。こんなこと、思ってもないけどな」
「なるほど」
レネはそんなことは全く思わないだろう。でも、健二にはそれが効果的だと考えたのだ、彼なりに。
「あれが今後上に立って、女性社員の冷遇でもしてみろ? それは損失でしかない。これから少子化でどんどん人手が減る。だったらうちみたいなところでは今まであまり採用してこなかった女性に頼るのが手っ取り早い。いくらでもいるからな、沙羅みたいに優秀な女性は」
彼は静かに語った。沙羅は自分を例えたことに関しては何を言ってるんだかと思いながら、黙って聞くことしかできなかった。欧州はどこもかしこも移民政策にヘタを打ってずっこけたと言っていた。
なんとかしたいと思っているのだろう。
「納得してくれそうですか?」
「意外にな。今は会長と対立はできない……それにしても河村全然謝らなかったな? あんな晒し首にする気はなかったんだぞ俺は! 人前で叱るのは本来ご法度だ」
レネは少々語気を強めて言った。
彼の言いたいことはわかっていた。おそらく、レネは河村に謝らせたかっただけなのだ。河村はそれをしなかった。だからあんなふうに晒し者になって大変な状態に陥った。
沙羅は彼の背を宥めるようにぽんぽん叩いた。
「多分、ああいう人は何が悪いのか理解もできないと思うので、いいですよ。謝られたいとも思いません」
「そうか……もうやめよう、沙羅も面白くないだろ、あれとかあれとかの話」
あれ。河村とか健二の話か。
沙羅は笑ってしまった。
「明日はニコラスが来る、向こうも準備やセッティングで忙しいだろうが、暇を見つけて色々喋ってやれ。喜ぶ」
「はい、お礼しなきゃですし」
テーブルに視線を向ければ、そこにはちょこんと腰掛けるトナカイのちっちゃなぬいぐるみがいた。
「さっき無事にホテルに着いたと電話があった。君と明日の夜食事をしたいと言っていたぞ。どこか連れて行ってやれ」
まあそうだろうとは思っていた沙羅だ。
英語は久しぶりだが頑張ろう。最悪翻訳アプリもある。
「店……悩みますね」
「そう言うと思って、いくつかピックアップしておいた。先方のホテルは台場だしその辺りがいいだろう」
レネのこういうところが沙羅は好きだった。
今日の彼は完全に仕事モードである。キスの一つもしてこないことに少々寂しく思いつつ、レネが膝から降りるように促してきたので一度降りた。彼は腕を伸ばしてダブルベッドの上に放り投げられていた彼のスマートフォンを手に取った。
沙羅は手元の画面を覗き込んだ。牛カツ専門店、しゃぶしゃぶ、それからお好み焼きなどの鉄板焼きの店、そして親子丼が有名な店。
よくもまあ、こんなにたくさん候補を挙げてくれるなと感心を隠せなかった。
「この辺なら間違いない。あとは明日直接聞いてみて寿司がいいとか言い出したらそれもありだな。日本といえば有名なのはやっぱり寿司だから」
「でも基本魚系はやめた方がいいんですかねぇ……?」
「こればかりは人にもよるが、まぁ肉の方が間違いないな。魚を普段食べていないから、あの独特の魚臭さに慣れてない。向こうが寿司って言ったら回転寿司もありだ。サーモンマヨとか、カルビ握りとか唐揚げ、天ぷら、うどんなんかも頼めるし。とりあえずさっきの店のリンク送る」
「ありがとうございます!」
(確かに、回転寿司なら寿司からジャンク、デザートまであるか……)
やっぱりレネって頭いいなぁと妙に納得していると、早速ベッドに置いてあったスマートフォンが震えた。
沙羅はそれを拾って、ベッドにうつ伏せに仰向けに寝っ転がってそれを開いた。
同じくレネもすぐ隣にうつ伏せになり、頬杖をつきなから沙羅の手元を見てきた。
「楽しんでこい。多分向こうが男気を見せて払ってくれるはずだ。もちろんこの店以外でもいいから、行きたいところに行けよ? あ、すき焼きだけは外してほしい」
「すき焼きNGですか? 外国人に人気なのに?」
「だからだ。三日目の幹部での会食はすき焼きだ……店員が何から何までやってくれる高級店の……」
「頑張れー!」
そう言うと、彼は無言で沙羅を抱き寄せて額を首筋にぐりぐり押しつけてきた。
沙羅は簡単に想像できた。多分、会長も一緒なのだ。
「ヤスさんはいないんですか?」
「あいつの席はない……」
頑張れ、そう思って沙羅が背中をよしよし撫でてやっていると、不意にキスをされた。
「今日、キスしてくれないのかと思ってましたよ」
彼は悩ましげに言った。
「我慢できなくなる気がして」
我慢する必要がどこにあるのだろう。沙羅はレネの髪を撫でた。
「我慢なんて、しなくてもいいんじゃないですか?」
驚きの色を瞳に浮かべ、沙羅を凝視してきたレネの唇に触れるだけのキスをした。
レネは一瞬固まって、逡巡してから言った。
「……このホテルコンビニ併設だよな。確か二階に」
流石にこのまま雪崩れこむこの男でなかった。期待を裏切らないその台詞に、沙羅は笑いを禁じ得ない。
むくりと起き上がった男は「着替えてコンビニ行くか」と部屋に戻ろうとしたので、沙羅は《Come》で呼び戻し、ベッドに《Sit》で座らせる。
レネを見下ろす。沙羅のコマンドだから従ったが、いささか不本意だ。そう彼の目が語っていた。
「俺は避妊もせずに絶対にしないぞ」
「私、持ってますよ」
沙羅はバッグからごそごそ紙袋を取り出した。その中身を見て、彼の表情が「え」と固まった。
「ほら、レネだって買い忘れたりとかあるでしょうし、ってこの前買って……出すに出せないままリュックの奥底に詰まってました」
手渡した避妊具を見下ろし、彼は腑に落ちた様子で沙羅を見た。
「だからパッケージをまじまじと見てたのか」
「はい、だって同じのなら間違いないですよね?」
「そうだな……」
「レネ、《Roll》」
初めて使ったコマンドだ。その意味は、仰向けに転がれ。
彼は期待の笑みを隠そうともせずに口を開いた。
「え、俺が下?」
「できるところまで」
「お手並み拝見。わくわくするな」
「コマンドで黙らせますよ!」
沙羅は彼の上に乗り上がった。結局、翻弄されたのは沙羅で、彼は日付が変わる前に隣の部屋に名残惜しげに帰って行った。
朝移動はリスクがある。そう追い出したのはもちろん沙羅である。




