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凄腕メカニックにも社長の恋の病は治せない  作者: 矢古宇由佳
第二部

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第64話 レネの激怒、差し入れ

「なぁ、河村。俺は日本育ちじゃあないから、日本語が不自由なんだ……もう一回言ってくれないか?」


 レネが仕事中に俺という一人称を使う場面を沙羅は初めて目の当たりにした。

 彼は一見柔和な笑みを浮かべていた。口調も限りなく優しい。

 だが、その目は全く笑っていない。


 そもそも、どこが不自由なのだというくらいに彼の話す日本語は完璧である。誰もがわかる嫌味だ。


「え、いや……あの、社長」

「聞こえなかったか? もう一回言えと言っている」


 レネはなれなれしく河村の肩を抱いて鼻で笑った。もはやお願いではなくて命令口調だ。


「すみません……」

「はぁ? 君はさっき東新川にすみませんと言ったのか? そうは聞こえなかった……なあ、森山? 俺の聞き間違いか?」


 レネは森山に視線を向ける。森山は静かに口を開いた。


「いえ、聞き間違いではないかと」

「……だよなぁ? なぁ、河村?」

 

 もったいぶったようなレネの言葉尻に沙羅の背筋が震えた。もう先ほど自分が言われたことなど頭の片隅にもない。

 レネは激怒している。誓っていい。確実に、レネはとんでもなく激怒している。


「す、すみません……」

「ふぅん? 謝る相手は俺なのか?」

「い、いえ……そうではなく……」


 レネはわざとらしくまったりと優しい口調で子供に諭すように言う。

 河村は冷や汗が止まらないようだった。

 レネは進まない話にいい加減イラつきを隠しきれない様子で言った。


「俺は社長だ。役職者が一般社員に暴言を吐いているのを見過ごすわけにはいかないんだ。しかも、君は彼女に女の武器がなんだとか言わなかったか?」

「は、はい……」


 沙羅は、いい歳した男性がこんなに震えながらおどおどしているのを初めて目にして、どうしたらいいかわからない。そして、なんだか居た堪れない。

 声を失って突っ立ていると、レネは河村を沙羅の前に引っ立てた。


「じゃあ謝れ。彼女にきちんと頭を下げろ」

「す、すまない……」

「すまないとはなんだ? 申し訳ありませんでしただろ? 俺に日本語を教わって恥ずかしくないのか?」


 精一杯抑えてはいるが、怒気を孕んだ声であった。

 もういい、そこまで望んでいない。沙羅は思わず止めに入った。


「しゃ、ちょう……あの。い、いいんです。もういいです、私も仕事中に浮かれきって」

「別に君はなにも悪いことをしていないし、君の仕事ぶりはドイツで見ている。だいたい、相手が誰だろうとあんな発言はしてはならない。俺はこいつを絶対に許せない」


 彼はこいつと言って、慌てふためき思考停止している河村を顎で指した。皆が彼らを囲んで見ていた。後から後から、近くにいた面々がなんだなんだと野次馬を始める。

 沙羅はパニックに陥った。


「ご、ごめんなさい……」


 レネの顔が歪んで見えた。目に浮かんだ涙がついに決壊した。

 勝手に涙がぼろぼろ溢れてきて、沙羅も制御ができなかった。え、とレネの目が見開かれた。

 今度は彼がおろおろすることになった。 


「なんで謝る。悪くないだろ、泣くんじゃない……森山、彼女のフォローを頼む」

「あ、はい。ヒガシ、ちょっとそこの商談室で休もうな……安さん、なんか飲みもん買ってきてくれます?」

「がってん承知の助!」

 

 森山は壁のできあがってテーブルと椅子も配置されていた商談ルームに沙羅を支えて連れて行く。


「ヒガシ、このプレゼント、バックヤードで預かっておくな! ゆっくりしてこい」


 山川がそっと耳打ちしてくれた。沙羅は顔を袖口で覆ったまま頷いた。


「山川さん、残りの作業の監督、お願いします!」

「わかった森ちゃん、任せとけ!」


 森山は山川の返事に頷くと、商談室のドアを開けた。沙羅は中に入るように促された。


「河村、話があるから来い」


 背後でレネが河村を静かにどやす声がかすかに聞こえた。



***



「ヒガ、落ち着いたか? お前はなーんにも悪くない」

「そうだぞ。みんなわかってる。な? これでも飲め。あったかいうちに」


 安田と森山が口々に言う。

 しばらく椅子に座り込んでしゃくり上げていた沙羅であったが、ハンカチで目元を押さえながらも顔を上げた。


 安田がペットボトルのキャップを開けて、沙羅に買ってきた飲みものを飲むように促した。よく見れば、ホットのほうじ茶だ。彼女はそれを口に運んだ。ぐちゃぐちゃになった頭と心に、その香ばしくて優しい味が沁みた。


「みんなに囲まれて、どうしていいかわかんなくて……」

「しゃあねぇしゃあねぇ。社長が謝れって言ってんのにあのバカがいつまでも謝らねぇからあんなことになるんだ。悪いのはあのカス野郎!」


 安田が沙羅の肩をぽんぽん叩いた。彼は沙羅と同い年の娘がいるのだ。どうしても許せなかったようだ。 


「社長が出て来なかったら俺、ぶん殴ってたかもしれねぇ。どうせ再雇用の契約社員だし、怖くねぇよ」

「暴れないでくださいよ? 安さんにいなくなられたら俺が参っちゃいます。それにしてもあの野郎、前からヒガシに嫌がらせしてたけど、なんなんだ? 意味わからん」

「私もわかんないです……」


 河村は昔から沙羅への当たりが強かったし、その上嫌がらせのように作業に行かせないなど、ふたりからしても目に余っていたのだ。


 沙羅は疲れ切ってため息を吐いた。そこでふと、左手に持ったままだったぬいぐるみに気がついてテーブルの上に置いた。

 焦点の合っていない豆粒みたいな黒目が虚空を見つめている。なんだかそれに癒された。


(かわいい……)


「社長、ありゃあ相当キレてたな。俺見直したよ、若造だと思ってたんだけど」


 安田は頭の後ろで腕を組んで、椅子の背もたれにぐっと身体を預けて天井を見上げた。


「あの年代でしかもヨーロッパ育ちだ。日本人だったら愛想笑いして流すかもしれないが、あの女性蔑視発言は絶対に許せないだろうよ」


 森山が足を組みながら腕を組んだ。なるほどと安田は頷いている。 


「あいつ何歳だっけ?」

「三十三です」


 安田の声に答えたのは沙羅であった。

 森山がニヤリと笑って言った。

 

「詳しいな?」

「ドイツで一緒にご飯食べたり遭難しかけたりしたので色々話しました。歳も近いし……」


 沙羅は努めて淡々と答えた。

 安田はそれを聞き、「それもそうだ」と頷いてガハハと笑い声を上げた。

 その時だ、扉が控えめに叩かれ、森山が腰を上げて薄くドアを開けた。


「これ、社長から差し入れです。簡単なものですが昼食にするようにと」


 沙羅ははっと声を上げた。顔は見えなかったし聞き取りにくい小さな声であったが、その声はまごうことなき康貴のものであった。


「ありがとう。悪いな、後で社長に礼を言っておく」


 ドアを静かに閉めて森山が戻ってきた。

 手に持っているのは、ビニール袋。


「社長の秘書だ。なんと、社長から昼飯の差し入れだぞ!」


 森山はビニールの中身をテーブルの上に並べ始めた。中華レストランでテイクアウトした弁当である。

 エビチリと回鍋肉、それから青椒肉絲に酢豚、酢豚とエビチリの三種類。ご飯とスープもついていて、緑茶のペットボトルが三本。


「若様いい男だな〜今までは顔だけかと思ってたけどよ。河村をどっかに連れて行って、多分説教しつつ秘書にこれ買わせに行ったんだろ?」

「社長、ドイツでも思いましたけど、気遣いが細やかで……なんというか、すごいんですよね」


 安田が感心したように言ったので、沙羅も思わず口を開いた。すごいとしか言えない。月並みなのだが、彼は本当に気遣いが素晴らしいのだ。

 自分でも気がつかないうちに、彼女は笑っていた。


「よし、ありがたく食うぞ。ヒガシ、好きなの選べ!」


 森山がそう言ってパンパンと手を叩いた。


「じゃあ、私は酢豚とエビチリで!」


 三人は一つのテーブルを囲み、皆でいただきますと手を合わせた。

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