第58話 バージョンダウン、ハンバーガー
沙羅はバグの症状を箇条書きにしつつ、念の為、機械のPCのバックアップを丸ごと作成した。空いているPCに復元をかければバグを実際に確認することもできる。
まずは沙羅は支給のノートPCを経由し、社内サーバーから支給のUSBにバージョンダウン用のソフトウェアのデータを移動。重いデータだ。時間がかかる。
つづいてそれを機械のPCにデータを移すのだが、またまた時間を食う。
さて、本題の続いてソフトウェアのバージョンダウンをする下準備が整った。時計と戦いながらの作業だ。
(う……早く帰りたい……)
結構時間がかかりそうだ。スマートフォンを取り出して彼に連絡しようとすると、ちょうど『進捗は?』と連絡が来たので、『思ったよりもかかりそうです』と打ち返した。一瞬で既読になる。沙羅は返事を待たずに『先に帰ってご飯食べててください』と打ち込んで送信した。
レネを待たせるのは忍びない。
続いて、最新バージョンをアンインストール、旧バージョンをインストールしようとしていたらメッセージが来た。
『夕飯を差し入れよう、何か作業しながら食べやすいものを持って行く』
沙羅は目玉が飛び出さんばかりに目を見開いた。
「帰りなよぉぉぉ……今度はお茶じゃ済まないってば」
旧バージョンを実行。インストールが始まる。
康貴に飲み物を奢ってもらってちょっと喋っているだけで体当たりされて汚物扱いされた上にお茶を食らったのである。
これがレネになったらどうなるのか想像もつかない。背筋が凍る。ショールームのフォークリフトで轢き殺されるかもしれない。串刺しもありうる。
沙羅はちまちまお断りの文章を打つのが面倒になって電話をかけた。
「沙羅、何か買っていく。一緒に食べよう」
「お気持ちは嬉しいですが、結構です。先帰ってください」
「え? 遠慮するな、大丈夫だ。大丈夫、うまいことやる」
インストールの画面操作はなんてことはない、次へ次へと押して、最後はPCの再起動だ。早速PCのシャットダウンが始まった。
レネは大丈夫とか言っているが、何が大丈夫なのだろうか。だめに決まっている。リスクが高すぎる。
沙羅はいい加減頭痛がしてきた。こめかみを揉む。
「誰かにバレたらどうするんです?」
「ショールームは鍵をかけられる。問題ない。守衛にはショールームで立て込んだ作業があるからいいと言うまで覗くなとヤスが連絡を入れた」
沙羅がダメと言う前に、社長と秘書の何か壮大なプロジェクトがもう既にスタートしている。眩暈がしそうだ。
(もうなんか始まってる……)
そうだ、レネは沙羅がいくら遠慮しても聞かない頑固野郎だったと今更彼女は思い出した。モニターに目を向ければ、PCが自動で再起動するところだった。
レネは沙羅が本気で嫌がることはしない。本当に嫌なのか本心ではいいのかを何か珍妙な能力で判別して、本心では構わない時にこうしてゴリ押ししてくるのだ。
今だって、沙羅の本心ではレネに会いたいのだ。
「監視カメラが真上からこっちを凝視してますが」
「ヤスは総務だ。監視カメラのデータをいじる権限がある。昨日の映像とすり替える」
沙羅はひっくり返りそうになった。そこまでするのか。なぜ、どうして。
しかもああいう監視カメラの映像というものは、記録媒体にどんどん保存されて古いものから消去される仕組みではないのか。一体どうなっているんだ、南方精密のセキュリティは。
「そ……そんなことが可能なんですか……」
「ショールームの映像はクラウドに保存される形式だ。権限さえあれば小細工は簡単だ。人事、総務はよく覗きに行って編集してもみ消してる。足はつかない。去年ショールームの会議室で絡み合ってる馬鹿な男女がいたから既に実行済みだ。しかも不倫。男の方はどこぞの会長なんだがな。ハハハッ!」
沙羅はレネのヤケクソ気味な乾いた笑いを聞き、言葉を失った。
都会はすごいなと感心する。テレビドラマでは皆が帰った後にふたりきりのオフィスであんなことやこんなことをしている男女がいるが、実在するのか。しかも会長ときたか。
(……聞いちゃいけないことを聞いたような)
「だとしても、なんでそこまでして……」
「沙羅と夕飯を食べたい。それ以上でも以下でもない」
彼はきっぱりはっきり言い放った。俺がしたいからするのだという、小学生男子並みのわがままである。
(レネって、たまに猛烈に頭悪くなるよね……)
沙羅は諦めた。多分、沙羅が拒否しても無駄だ。
もうなるようにしかならない。
「……わかりました。待ってます」
「OK、何食べたい?」
「手で持って食べられるものがいいです。作業しやすいので」
「承知した。また連絡する」
電話は切れた。沙羅は機械の電源を入れた。低く鈍い音を発しながらファンが回り始める。一呼吸置いてつぶやいた。
「とんでもない男だ……」
レネも会長である健二も、ふたりともとんでもない。多分、ふたりしてはちゃめちゃなことをするのは親子だからだろう。きっと似ているのだ。それぞれのはちゃめちゃ行動のベクトルが全然別の方向を向いているだけ。
女遊びをする方向で吹っ飛んだことにスリルを求めるか、彼女と過ごす時間を捻出するためにスリリングなことをするか。
そっくりである。実にそっくりだ。
(そっくりだ……言わないけど)
ソフトウェアを立ち上げれば、案の定エラーを吐きまくったので沙羅はPCの設定に取り掛かることにした。これが森山がPCの方で色々設定が必要、と言っていたことなのだろう。
さて、レネは何を買ってきてくれるのだろう。
沙羅はわくわくと期待しながら、エラーの確認を進めた。
***
「美味しそう!! ありがとうございます!」
「あんまり具が多くなくて、食べやすそうなものを選んだ。好きなものを食べてくれ」
レネが買ってきてくれたのはハンバーガーだ。
日本全国各地どこでも買えるような安価なチェーンのものではない。
沙羅の目が、獲物を見つけた猛禽のように輝いた。今更腹が減っていたことを自覚する。
キャスターつきのテーブルを準備室から引っ張ってきたレネが買ってきたものを並べてくれた。
トマトとビーフパテのシンプルなハンバーガー、それから厚切りチーズの挟まったチーズバーガー、照り焼きソースが特徴のテリヤキバーガー。
もちろんフレンチフライもチキンナゲットもある。
機械のモニターを確認すれば、機械は未だデータの自動補正中。この進行具合では、終わるまで二十分はかかる。食べよう、今のうちである。
「チーズバーガー、いただきますね」
「ああ。俺は残りを食べる。飲み物はコーラとオレンジジュースだ。どっちがいい?」
「オレンジジュースがいいです!」
沙羅の機嫌は一瞬で良くなった。沙羅は結構単純なたちであった。
オレンジジュースを一口、それからハンバーガーを齧る。
濃厚なチーズはこってりしつつもまろやかなチェダーチーズの風味。パテのジューシーな油が舌の上に広がり、それからフレッシュなトマトが口の中で弾ける。
レタスもシャキシャキでとても歯応えがいい。
「美味しいっ!」
炭水化物と油は、なぜこんなに美味しいのだろうか。レネと付き合いだして確実に太った気がする。どうしたものか。
「それはよかった。ここはヤスのお気に入りのハンバーガーショップだ」
「杉山さんもまだ社内にいるんですよね?」
「あいつは自分のデスクでアボカドバーガーとパストラミサンド食べてる」
「杉山さんにも残業させちゃった……」
自分がもっと早くバグに気づけばこうはならなかった。しかし、一番悪いのはきっとレネだ。彼が康貴にわがままを言って無茶振りしたのだろうと沙羅は思っていた。
「あいつが色々裏工作するから一緒に食べればって言ってくれたんだ。今度お礼しよう」
(杉山さんが?)
意外だった。いつもの様に、レネが康貴をやりたい放題振り回したのかと思っていたのに。
「そうだったんですね……。今度、三人で飲みにでも行きたいですね! あ、調整終わった。ちょっとプログラム動かしてみます!」
沙羅はフレンチフライで口をもぐもぐとさせながら機械に向かう。
背後のレネはテリヤキバーガーを食べ終え、ついで最後に残ったシンプルなハンバーガーに手を伸ばしていた。
「このハンバーガー食べていい? 沙羅も一口味見する?」
「どうぞ食べてください! あ、チキンナゲットは残しておいてください!」
沙羅は手を動かしながら言ったが、ふ、と背後で笑う気配がした。
「笑わないでください!」
「いや、かわいいなと思って……残りのナゲットは食べてくれ」
レネはナゲットを沙羅の近くに置くと、ハンバーガーにかぶりついた。
沙羅は美味そうにハンバーガーを食べるレネを横目にナゲットを口に放り込んだ。
もぐもぐ咀嚼しながら、プログラムを走らせた。問題なく動いている。沙羅は満足げにうんうんと頷いた。
「さすが、ヤスのお気に入りだけあってうまいな。ご馳走様」
「え、もう食べたんですか?」
「ああ、そんなに大きくないしな」
彼はそう言って、コーラのストローに口をつけた。相変わらず、一口の大きな男である。
沙羅もオレンジジュースを飲みながら、PCデスクに頬杖をついてモニターの様子を見た。順調にプログラムは動いている。
「ご馳走様でした」
「片づけよう」
手を伸ばしてきた彼に、チキンナゲットの空箱を渡せば、他のゴミとまとめていた。
プログラムは問題なく動いた。確認しようと沙羅はマウスに手を伸ばした。
「もうちょっと待ってくださいね」
「沙羅、違うだろう」
なんだ、と沙羅は椅子に座ったまま首を巡らせ背後を見た。ハンバーガーのゴミを片づけ、こっちにまったり歩いてくるレネが見えた。
その表情は、ゾッとするほどの美しい笑みをたたえている。
(あー、これまたなんか企んでるな……)
沙羅はいい加減、レネの行動パターンを把握していた。
「待ってくださいだって? 沙羅、こういう時にいいコマンドがあるじゃないか」
沙羅は戦慄した。社内でコマンドを使えと言うのか!
「俺のご主人様、コマンドをくれ。くれないと邪魔するぞ?」
音もなく、後ろから沙羅に肉薄したレネは彼女の首筋をするりと撫でてきた。
沙羅は肩をびくりと跳ね上げて硬直した。
レネはそれに気づかぬふりをし、鎖骨の形を確かめるように指先でなぞり、その指先はネックレスの鎖をたどる。
そう、彼がプレゼントしてくれたあのダイヤのネックレスだ。
「ちょっと! レネ!」
頭頂部に頬ずりをされ、髪にキスをされ沙羅はようやっと非難の声を上げた。
「社長が社員の仕事の邪魔しないでください!」
「さーら? 邪魔に思うならさっきの待ってくださいをコマンドにしろ」
レネは面白そうに笑っていた。仕方ない。彼の悪戯はこのままではエスカレートする。
沙羅はレネを押し退け、彼の方を向いて姿勢を正した。
レネは心得てたと言わんばかりに数歩下がった。沙羅は顎を上げ、できるだけ冷たい目で彼を睨みつけた。
「いいなその目、ゾクゾクする」
彼は満足そうに笑みを深めた。対する沙羅は氷の女王のような表情を変えずに口を開いた。
「……レネ、無駄口は結構。《Sit》」
沙羅は隣に並ぶ機械の椅子を指差した。
彼はゆっくりまったり、こちらを見つめながらその椅子に腰を下ろした。
「いい子です。ではそのまま《Stay》。いいですね?」
「わかった、ここで待っている」
沙羅は作業を続行した。三十分後、全ての確認事項をクリアし、無事作業は終了した。沙羅はきちんと待てのできたレネをめいいっぱい褒めた。
沙羅は守衛に連絡し鍵を解除、レネはするりとショールームを抜け出し、康貴に連絡。
別々に帰路に着いたふたりがレネの部屋で合流した時、夜の九時半を過ぎていた。




