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第55話 沙羅の手料理、あの日のこと

 沙羅はレネの部屋に十八時前に帰り、冷蔵庫の中や調味料を確認。それから吉田鮮魚店やスーパーに行って買い物をした。


(和食作るか……)


 レネは会長とのランチで丸ビルのイタリアンに引っ張られて行ったと康貴より聞いていた沙羅は、夕飯はあっさりめの和食にしようと思っていた。


 メインは吉田鮮魚店の銀ダラの塩麹づけ。洗ってグリルで焼けばいいと言われたのでこれにした。難易度は低い。


 それから無難にほうれん草のおひたし。これはいつも一緒に作っているので間違えることもない。


 つづいて失敗しようのない冷奴。汁物はいい里芋が売っていたので豚肉や根菜やこんにゃくなども書い、故郷の味、芋煮にすることにした。


 米は実家から送られてきた今年の新米だ。

 いつも近所の農家の人がくれるので、母、洋子が送ってくれるのである。それをアパートから持ってきたのだ。


「料理は化学実験だからできるはず……そう問題ない私は腐っても理系」


 普段、喜んで食事を作るレネの手伝いはするが、そういえばまともに料理するのは久しぶりだと怖気づく沙羅は自分に言い聞かせるように言った。


 まず、時間のかかる汁物から取り掛かろうと彼女は腕を捲った。



 ***



 夕飯の準備はほぼ終え、あとは魚を焼くくらい。

 沙羅が風呂に入ってのんびり九時からのニュースを見ていると、玄関ドアが開く音が微かに聞こえた。


 沙羅は玄関に彼を迎えに行った。


「おかえりなさい!」

「ただいま……おかえりって言ってくれる人がいるのもいいな」


 痛いくらいにぎゅっと抱きしめられる。

 いつもは金曜の夜に出張先からヨレヨレで帰ってくる沙羅をレネが「おかえり」と言って出迎えて、風呂沸いてるぞとか、夕飯食べるか? とか世話してくれる。


 完全に逆なのだ。


 彼は顔色が悪かった。相当疲れているだろう。


「シャワー浴びてくる」

「お風呂沸いてますよ!」


 沙羅がそう告げると、レネの表情がぱっと明るくなった。


「それはいいな、ありがとう。沙羅、夕飯は先に食べた?」

「まだですよ。待ってます」


 レネも普段沙羅が到着するまで待っていてくれる。先に食べようという発想は一ミリもなかった沙羅がいた。


「え! 悪い。次から先に食べてもいいんだぞ? 急いで入ってくる」

「レネもいつも待ってくれるじゃないですか、ゆっくりしてきてくださいね!」


 彼は仕事から帰ってくると即シャワーを浴びるのが日常らしいと聞いていたが、本当だった。沙羅はバスルームに向かう彼を見送ってキッチンに戻る。さて風呂に入っている間に仕上げてしまわないと! 彼女は気合いを入れた。


 レネは思ったよりも早めに風呂から上がった。


(ゆっくりしてくればいいのに……)


 程なくしてレネはダイニングへ。

 味見もした、きっとなんとかなる。一緒に「いただきます」と小さく手を合わせ、沙羅はとりあえず芋煮の碗に手を伸ばした。

 レネも同じく汁椀へ。一口。笑みを一つ。そしてご飯の盛られた茶碗を手に取った。


「……米、変えた?」


 レネがご飯茶碗片手に一言。沙羅は驚いて彼を凝視した。


(なんでわかるんだ!?)


 沙羅は実家の米がいつも新米になってもいつも全く気づけなかった。今日から新米だけどどう? と洋子聞かれて「……違いがわからない」といつも答え、大笑いされていた。


「え? わかります? 地元の新米、コシヒカリです!」


 彼はご飯茶碗を左手に、銀ダラの骨を避けて身だけを器用に口に運ぶ。


「美味いな。福島のコシヒカリか。あとこの豚汁」

「それね、一応芋煮なんです」

「これ芋煮なのか? 芋煮って、牛肉で醤油系だった記憶が……」


 レネはご飯茶碗から再度汁椀に持ち替えて言った。


「山形の芋煮はその通りです。福島のは豚肉が入ってて味噌仕立て。豚汁の里芋入ったバージョンだと思ってもらえるとわかりやすいかも」

「なるほど……地域によって違うんだな。これ、作り方教えてほしい。美味しい」

「今度一緒に作りましょうか」


 レネはドイツ料理はあまり作らないが、フレンチやイタリアンも難なく作るし、康貴の父親仕込みの和食は言わずもがな。すぐに覚えてくれるだろう。


「冬の時期、多めに作っておいて、何日かに分けて食べるってのもありだな」


 予想外に気に入ったようでおかわりしていた。先ほどの米の件といい、この男、生まれる国を間違っているのではなかろうか。


 食後、片づけは自分がするからとレネに言われた沙羅はソファでゆっくり茶をすすっていた。

 しばらくすると、食洗機の動く音が聞こえてきた。沙羅が首を上げると、湯気を立てるカップを片手にレネがこちらに向かってきた。

 彼は寝巻きの黒いガウンを着ていた。


「最高の夕飯だった。いいな、沙羅の和食」

「料理は苦手です。芋煮くらいしか作れません」

「あんなに美味しいのに?」


 カップをローテーブルに置いたレネは、するりと腕を回してきた。唇が頬に触れた。


 高校まで実家暮らしをしていた時、沙羅は汁物担当だった。具沢山な汁物が作れればなんとかなると洋子に言われ、とりあえずいくつか作れるようになった。

 あとは塩鮭を焼くとか、味つきの肉を焼くとか、それから肉野菜炒めくらいしか作れない。それでも汁物があれば立派な献立になるので、洋子には感謝している沙羅である。


「汁物だけはまあまあ作れると思います」

「俺は味噌汁に何を入れればいいのか未だによくわからない。昔、鮭の切り身を入れたら変と言われた」


(まーた変な元カノ?)


 いちいち変なんて言う友人がいるとは思えない。日本がルーツでない人間が作ってくれた食事に文句を言うなんて何事だ。

 康貴も言っていたが、レネの元カノは変人が多い気がする。


「別に大根でもじゃがいもでもキャベツでもさつまいもでもなんでもいいんですよ、入れたいもの入れれば。野菜と鮭入れて、北海道の石狩鍋っぽくて美味しそうじゃないですか。冬になったら作ってみましょう!」


 沙羅はレネの腕を掴んで顔を見上げた。彼は沙羅に微笑みを返した。


「あの芋煮は美味しかった。沙羅と作れば何入れても上手くできる気がする」

「気に入ってくれたならよかったです。夜は美味しいもの食べて欲しかったので」


 言うと、彼は小さく苦笑していた。


「ランチも悪くなかったぞ。《《味は》》」


 今度は沙羅が苦笑することになった。


「お高いイタリアンだったんですよね?」


 彼は、ふふ、と声を出して笑った。


「コースだから昼間から二時間かかった。仕事したいってのにあの男は馬鹿なのかもしれない……君はヤスとだろ?」

「はい。杉山さん、相変わらず楽しい人ですね」

「あいつはどうだった? 話を聞いてくれたか?」


 沙羅はレネを見た。彼はウインクをした。沙羅は口を阿呆みたいに開けっぱなしにする羽目になった。


(相談するように仕向けたの、か……?)


「君が今もあのSubドロップの件を引きずってるのは知ってた。身近にいる経験豊富なDomの先輩に聞くだろうなとアレと昼を食べながら考えてた。上の空すぎて『俺の話を聞いてるか?』と言われたが」


 レネは耐えられないと言った様子で声を出しながら笑った。

 もはや会長を「アレ」と呼んでいる。怒り心頭も極まったのだなと沙羅は推測せざるを得なかった。


「杉山さんにあの時のことを話したんですか?」


 いいや、とレネは首を横に振った。


「この前の件はヤスには何も言ってない。電話か何かで君が個人的に相談するかもしれないなとはうっすら思っていたが。そもそも、今日君とヤスが二人で食事をすることになったのも完璧にイレギュラーだった」


 もう一度話し合うも何も、レネはこちらの考えなどお見通しであった。


「レネは話せばちゃんと聞いてくれるから、もう一度話し合うといいって杉山さんが」


 彼は艶やかな笑みを口元に刻んだ。


「そうだろうな。では話し合おう。君が納得してないのはわかってた」

「納得というより、自分が許せなかったんです。まずはレネを褒めてあげなきゃいけないはずなのにああやって怒って……それに、こういうことでどんどんレネの行動とか仕草が制限されたら、個性が死ぬじゃないですか。私は許されないことをしたなって。次からは話し合いを遮ったりしないので……」


 宝石のような目がこちらを見下ろしていた。間接照明のライトの下で、いつもよりダークで妖艶な色を宿している。


「君の気持ちは理解した。確かに、何かあるたびに《Shush(シャシュ)》やら《Corner(コーナー)》を使われたらこちらも辛いからな。確かに今思えば、君もあの時は怒りすぎだった。せめて一度褒めてくれたら、ああはならなかったかもしれない」


 レネは沙羅の額に唇を寄せた。「俺のDomは怒りっぽいなぁ」とくすくす笑いながら。

 そうなのだ。あの時、一度冷静になって《Come(カム)》で呼び寄せたレネをきちんと褒めて、それで改めて話し合うべきだった。沙羅はそれを何度も悔いていた。


「レネの言う通りです。それに、たまに忘れるんです、レネが日本育ちじゃないことを。でも、もう今はわかってます。だから生まれ育って身についた仕草とか、無理に私の前だからってやめようとしないでください」


 彼は沙羅に真剣な眼差しを向けた。


「わかった。それでも、どうしても嫌なことがあれば言ってくれ。君が嫌なことをする気はないからな」

「はい、あの時は申し訳ありませんでした」

「受け入れよう、君の謝罪を。次からはお互い嫌なことがあったら、気になることがあったら、きちんと話し合おう。これでおしまいにしてもいいか? もうこのことであんまり気にやまないでほしい」

「はい」


 そうして静かに話をしながら茶を飲んでいれば、もはや日付も変わろうとしていた。

 レネがちらりと時計を見て言った。


「寝るか。沙羅は明日も本社か……不思議な感じだ」

「私も平日にここにいるのが変な感じですね。金曜あと一日、頑張りましょう」


 明日朝は八時半過ぎに出れば問題なく本社到着だ。そして、明日を乗り切れば週末が待っている。


 今週末はレネと何をしよう、ふたりしてベッドに潜り込み、沙羅が目を閉じていると、彼の穏やかな寝息が聞こえてきた。

 よっぽど疲れていたに違いないと沙羅は彼の髪を撫でた。

 沙羅も慣れない本社での撮影で疲れていたのか、すぐに意識は闇の中に転落した。

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