第54話 康貴への相談、ふたりのランチ
沙羅は康貴に経緯をしどろもどろ説明した。
彼は黙って聞いてくれた。話終わると、一瞬の静寂。エアコンと除湿機の音だけが沙羅の耳にうるさく響いた。
康貴は逡巡したのち、極めて静かに口を開いた。
「そっか……レネをSubドロップさせちゃったのか」
「私が全部悪いのに、レネは自分も悪かったって言うんですよ。もう謝るなって」
「レネは思ったことはちゃんと言うタイプだから、本当に謝るなって思ってるよ。あいつはそういう性格だし、ドイツ人は日本人みたいに溜め込まないで思ったことはズバズバ言う。だからヒガシさんもあんまり気にしない方がいい」
康貴は、沙羅の肩を極々軽くぽんぽん叩いた。
「大丈夫、セーフワード言われるとか、Subドロップさせるとか、誰でもあることだよ。俺だってある。しかも、ヒガシさんはそんなに……いろんな人とプレイした経験もないだろうし」
「ないですね……数えるくらいですよ」
こんなことならもっと経験を積んでおけばよかった。だが今更後悔しても仕方ない。
でも、レネをSubドロップさせたきっかけはプレイの最中に彼の限界を見極められなかったことだけではなく、沙羅が嫉妬して激怒し、対話をシャットアウトしたことだ。
まず、沙羅はDomとしてアメリカから帰ってきて沙羅のコマンドに従ったレネを褒めてやらねばならなかった。それから仕置きをしてもよかったはずなのだ。だが、沙羅は己の嫉妬の感情を全くコントロールできず彼に怒りをぶつけた。
「これからも何もないわけはない。あいつは日本に順応してるけど、育ちは向こうだ。何かしらのギャップは絶対あると思う。その度にきちんと話し合って乗り越えていけばいい」
「はい……」
「ヒガシさんがどうしても引っかかってる部分があるなら、もう一回きちんと話すといいんじゃないかな? レネはきっと聞いてくれる」
沙羅は黙ったまま頷いた。
「レネの個性まで殺したくないんです。ルーツを否定するのはレネの存在を否定することだから」
「そりゃそうだねぇ……」
「たまに忘れそうになるんです、と言うより忘れちゃうんです。あんまりにも日本語が上手いから……これからは気をつけます。レネは、日本育ちじゃないんですよね」
沙羅はコーヒーを一口含んだ。冷めはじめたそれはちょっとほろ苦い。
「それをちゃんと伝えるといいよ。大丈夫、俺だって喧嘩したことある。でも話せばわかるよ。あいつはそういうやつだから……前も言っただろ、あんな不遜な態度だけどさ、本当いいやつなんだよ」
「いい人すぎますよ」
最初のツンケンした態度と今は大違いだし、気遣いも完璧だし、いつも沙羅を尊重してくれる。それがレネという男だ。
「だろ? それに、あいつは引き取り手がないんだ。性格と男としての性癖はイコールっぽいけど、Subでそこんところねじれてるし。ヒガシさんはうまくやってると思うよ。このまま上手く飼育してくれよ。あいつ、変な女にばっかり引っかかるからさ」
康貴は手に持っていたカップをことりとデスクに置いた。
「飼育……」
「見た目キリッとしてるのにかわいい甘えたなドーベルマンを飼ってると思ってさ。そりゃあ、主人にしか尻尾振りません! な日本犬とは違ってフレンドリーな洋犬なら知らない人にちょっと尻尾振っちゃうこともある。でもあいつは人間だ、今の尻尾はなんですか? ってちゃんと聞いて、話し合えばいいんだ」
「……はい」
(ドーベルマン……)
表現は極端だったが、わからなくもない。そう、次からは爆発しないで話し合おう。きちんと話を聞こう。黙れなんてコマンドを出して遮ってはならない。
沙羅は自分が極めて短気な自覚があった。
気をつけよう、改めよう。これ以上彼を傷つけないために。
「でも、一つだけ言えるのは、レネは本当にヒガシさんのこと好きだと思うよ? 信じられねぇよ。毎週会ってるとか」
「そう思います?」
「思うよ。俺はびっくりしてるよ。あいつはひとりの時間が絶対必要だって言い張ってたタイプだからね!」
その時だ、チャイムが鳴った。はっと時計を確認すればもう十二時、昼休憩である。
「昼だな、飯にしよう。実はもう買ってきてあるんだ〜!」
康貴はとびきり明るい声を出した。彼が取り出したのはバゲットサンドだ。四つあった。
「あ、近くのパン屋兼ブラッスリーでテイクアウトできるんだけど、ヒガシさんハードパン好きらしいじゃん? 気に入るかなって」
モッツァレラとトマトにバジルをサンドしたものと、ハム、葉物野菜、それからスライスしたゆで卵の入ったものの二種類だ。
「これ本当はこの二個で一本のサンドなんだ。半分ずつに切ってもらった」
「美味しそう! いいんですか!」
「もちろん、遠慮なく食べて」
「ありがとうございます! いただきます!」
康貴はタッパーも取り出した。
「後これ、デザートにさっき上で切ってきた梨とぶどう。ちょっと俺スープとってくるけどヒガシさんもいる?」
ショールームの給茶機は茶だけでなくスープも出るのだ。彼に行かせては申し訳ない。腰を上げかけた康貴を沙羅は引き止めた。
「私が取りに行きます!」
「あ、いいのいいの俺が行くから!」
康貴とのランチは楽しかった。ハードパンはドイツで食べたような食感で、あのはちゃめちゃな出張を思い出した。今となると沙羅にとっても楽しい思い出のひとつである。
久しぶりに会った康貴は、アメリカでの写真を色々と見せてくれた。
展示会場のレネやカフェやハンバーガーの写真、それからシカゴピザとレネのツーショット。
「あ、会長やっぱ愛人連れてきてさぁ……見てよこれ」
康貴が見せてきたのは、会長と女性のツーショット。背中ほどもある黒髪の美しい妖艶な美女だ。年齢は、沙羅より少し上くらいだろうか。
会長の首に腕を回している。周りの風景は、帰りの羽田空港っぽい。
(よくバレずに撮ったな……)
「この人、杉山さんとかレネと歳変わらなくないですか?」
「うん。でさ、会長ってば色欲大魔神だから飯に連れてきていちゃつき始めて……うちの社員しかいなかったからレネが会計後にバチギレかましてえらいこっちゃだよ。領収書もらってるの見てついに爆発。それを経費に回すのか? って」
(地獄だ……)
「悲惨ですね……」
「そしたら、お前は堅物すぎてそこが玉に瑕だな? って会長が言うもんだからもうレネも止まらない……今日のランチはレネのご機嫌取りのつもりだよあいつ。本当は一見お断りの料亭誘ってたけど、夜は時間がないからせめて昼にしてくれってレネが言ってさぁ」
あまりアメリカでの出張の話をしてくれなかったのも理解できた。どうだった? と聞いた沙羅に対し、彼は「今世紀最大に疲れた」と言ったのだ。
展示会場やシカゴの街の様子は見せてくれたが、口数は少なかった。タイやフィリピンの時とはえらい違いであった。
「レネ、アメリカからはがき送ってくれたんですけど、そこに『早く帰りたい』って書いてあったんです」
先日届いた絵はがきを思い出していた。そこには『Meine Perle、早く日本に帰りたい』とあったのだ。Perleはパール、つまり真珠という意味らしい。
「あの時結構限界そうだったからなぁ……会長と昼飯なんて、レネってば午後使い物にならなさそうだな……」
「今夜私泊まるので、様子見て労っておきますね。今日はご馳走様でした」
「いいのいいの、今度はレネと一緒にどっか飯行こう。寿司の吉田でもいいし。今夜、レネのこと頼んだよ?」
その夜、沙羅はレネの部屋を訪れることになっていた。実は翌日も本社出社なのだ。
ショールームに新しい機械が入るのでそれの立ち上げ調整を頼まれていて、レネの部屋からの方が本社に近いので泊まらせてもらうことになっていたのだ。
アメリカ出張で限界状況のレネに自分はあんな酷いことをしたのかと、午後の沙羅は自己嫌悪に苛まれながら仕事をなんとかこなしたのであった。




