第52話 浴衣、温泉 side Rene
(これ、どっちがどっちだったか……)
観光ののちホテルに戻ったふたりは、まずは温泉に行こうかと話をした。
ではお互い着替えようとレネは下着姿で浴衣を羽織ったはいいが、この後どっちの襟が先か後かと混乱した。何か法則があったような気がする。
「着替え終わった?」
「あ、はい、もう終わります。帯結ぶだけです」
「これ、どう着るんだったか……浴衣って実はあんまり着たことがないんだ」
レネは振り返って背後の沙羅に正直に告白した。沙羅はちょうど帯を結び終わったところだ。
「そうなんですか? 温泉旅館とかあんまり泊まったことないんですか?」
「ビジホで温泉つきのところは何回かあるが、実はこういうところは初めてだ」
沙羅は目に見えて驚いたようだった。今まで都内の高級ホテルを女性と利用したことはあるが、社会人になって出不精になった彼は元カノと旅行したことがほとんどなかった。
そんな時間をかけるデートに彼は価値を見いだせなかったのだ。タイムイズマネーだ。時間を費やすのがもったいない。
そんな彼も、時間のあり余っている学生の頃は康貴と日本各地やヨーロッパ各地を回った。当時はバックパッカーだったのでもちろん高いところには泊まったことがない。
(経験値がないんだよな……意外と)
「着せてあげますよ。うーん、Lだと思ってましたけどこれ男性用のMですね。つんつるてんですね。ちょっと待ってください、大きいサイズあると思うんで!」
沙羅は早速フロントに電話していた。なんと部屋まで持ってきてくれるということ。
スタッフがすぐに大きいサイズを持ってきてくれたので、レネは早速羽織直して沙羅の前に立った。
「レネから見て右側が先、それから左です。左の襟が上になるように着てください」
なるほど、とレネは口を開いた。
「右が先だな」
「はい。まあ、わけわからなくなった時の方法があります。利き手、右手を上げてください」
レネは疑問に思いつつも右手を上げた。腕を掴まれて、合わせの間に誘導される。
(そういうことか……)
「右手が懐に入ります。これが正解です」
理由も述べずにこうしろと言われてもすぐに忘れるが、これならもう忘れそうにない。
「なるほど、時代劇で見たな。懐にものをしまったり出したり……」
「そうです、利き手でものを出し入れできるようにです。簡単でしょ?」
「ああ。とてもわかりやすい」
「すでに知ってるかもですが、左右間違えると死んだ人になるので気をつけてください」
沙羅はそう言って苦笑した。レネも「了解した」と笑って、ふたりして温泉に向かった。
***
(気持ちよかったな……)
長時間の飛行機、それから新幹線に運転にとガチガチの身体が少しほぐれた気がした。沙羅は何かあれば連絡すると言っていたが、スマートフォンを見ても連絡はない。まだゆっくり風呂に浸かっているはずだ。
湯上がり、ロビーでお茶が提供されていたので、それを飲みながら新聞片手にまったりと彼女を待つ。
(嫉妬したのか……悪くないな)
沙羅はレネに対して例えベッドの中だろうが好きと言ってくれたことがなかった。だけど、言ってほしいとねだって言ってもらっても別に嬉しくない。
そんな彼女が嫉妬したというのはなかなか気分がよかった。
おそらく、そういうことを言わないのが彼女なのだ。Subとして好かれているのはわかるし、彼氏扱いもしてくれる。
決して、レネとしても不満に思っているわけではない。でも自分ばかりが好きでどうしたものかとは常々思ってはいる。
(今回怒ったのは沙羅だったが……逆だと考えると怒るのもじゅうぶんに理解できる……)
レネとしては沙羅を束縛するつもりは一切ないし文句も言ったりしないが、知りもしない日本人男に特別な笑みを浮かべていたら内心面白くないだろう。そうと考えると今更ながら理解ができた。
自分はやっちゃあならないことをした。
彼女を狙う敵が現れたらどうしよう。恐ろしい。考えただけでも恐ろしい。
こちらは生まれ育ちが日本ではない。日本の男に敵うわけがないのだ。その恐ろしさがレネの中で常につき纏っていた。
レネは新聞に視線を走らせたが、もはや目が滑って新聞の文字が全く目に入らなかった。
確かに、一度褒めてくれなかった沙羅も悪かったとは思うが、自分もかなり悪かったと思っているレネである。
DomとSubの関係からすれば、一度も褒めずに仕置きを始めた沙羅が確実に悪かったと言えよう。その辺がまたしてもすれ違っていた。
「あ、レネ! ごめんなさい、待ちましたね!」
沙羅の姿に、レネは目を細めた。
青っぽい色浴衣がとても似合っている。レネは沙羅の無防備でナチュラルな化粧をしていない姿が好きだった。とてもリラックスしている本来の彼女に見えるのだ。
「別に茶を飲んでいたし、大した時間じゃない」
「そうですか? 新聞読んでたんですか?」
「ちょっと手に取ったくらいだな。あの黒豆茶美味しいから沙羅もどうだ? 俺ももう一杯いただこう」
ふたりでまったりくつろいで、部屋食への配膳でばたついているスタッフたちを横目に部屋に戻った。
まずは缶ビールをグラスに注いで乾杯。
「寿司も美味しいですね。ありがとうございます。夕飯も最高ですね」
市場で買った寿司や刺身だ。とにかく美味しい。
「気に入ってくれたならよかった」
(普通の女性だったらこうはいかなかっただろうな……)
絶対いい店に連れて行けと言われたはずだ。そう思って、今の彼女が沙羅で良かったなと内心安堵の息を吐く。
彼は正直、金と見た目に寄ってくる女性と付き合いすぎていてその辺の感覚が麻痺していた。
ずっと一緒にいたいとそう考えるくらいに、沙羅はレネにとって居心地の良い存在なのだ。
「ゆっくりできていいですね。早めに寝て、朝風呂に入るのもよさそうですし」
「夜も外で食べるのはしんどいからな」
「はい、それにこういう観光地って夕飯にありつくの大変って言いますし。車出したらお酒も飲めないし。あの道の駅、最高ですね。ありがとうございます、いいところ探しておいてもらって」
(早く道後に行きたいな……)
普段は旅行なんて好んで行きたがらないレネであったが、沙羅と一緒ならどこに行っても楽しそうだ。
何より道後を選んだ理由があった。彼にはまだ彼女に明かしていない目的があったのだ。
レネは元来、サプライズの好きな男なのである。
「次の旅行も楽しみになってきた。道後、十一月末なら仕事の都合もつきそうだ」
「私も楽しみです。もう宿押さえちゃいましょうか。仕事振られてもそこは無理ですって言ったら他のメンバーがやってくれると思いますし」
食後、ベッドでゴロゴロしながらタブレットを覗き、ふたりで旅行の計画を練った。
「じゃあ私宿取りますね。多分、旅行サイトのランク一番上なので安くなると思います」
「現地支払いにしてくれよ? 俺が払うから」
「ありがとうございます! 私飛行機負担しますよ」
「……君は一円も払わなくていい」
(なぜこっちに払わせようとしない……)
レネが提案した旅行なのだし、全力で乗っかればいいのだ。彼女がきちんと働いてそれなりに稼いでいるのは百も承知だが、年収も違うしそれとこれとは話が別だ。
「ええ! それってどうなんですか?」
「飛行機はマイルが溜まっているからそれで飛ぼう」
「じゃあ私は何をすれば……」
「では向こうで昼を奢ってくれ。そうしよう。それでいい。鯛めしが食べたい」
「ええ……そんなのでいいんですか?」
ジュエリーだってブランドバッグだってなんだって、もっとねだればいいのに。レネの沙羅への不満といえばそれだけだ。
ほしいと言ってくれないと、何をプレゼントすればいいかすら正直わからない。
元来、彼自身物欲があまりないのだ。ドイツ人は他国の人間に比べるとそういう傾向が強いらしい。
「俺は嘘はつかない。いいか沙羅、気持ちよくプレゼントさせてほしい。君は何も考えなくていい。お返しなんて望んでないからな」
「そうは……言われましても」
レネは沙羅の方に腕を回して抱き寄せた。
「そうだな……君は俺にこれだけ時間をくれている。それでいいじゃないか」
「レネも時間くれてるじゃないですか」
「いいや、俺はもらっている方だ」
こめかみにキスを一つ。
「納得してないな?」
次は頬に。
「これは俺の趣味だと思え、沙羅。愛してるんだ。見返りを求めるものじゃないだろう?」
そして唇に。触れるだけのキスのつもりだったが、次第に我慢ならなくなって深いものになる。
唇が離れてもなお、銀の糸がふたりを繋いでいた。沙羅の艶かしい吐息。香る肌。
昨日まで仕事もハードそうだったし、今日も出歩いていたのだ。
沙羅に無理をさせたくはないが、ベッドの上で戯れていると流石に欲望が頭をもたげてくる。どうしたものかとレネはまだ残っている理性を総動員し、濡れた唇から目を逸らした。
「レネ、あの……もしかして……?」
(バレたな……)
レネは自分の性欲をぶちのめしたくなった。
「気にしなくていい……無理させたくない」
「あの、私は大丈夫ですし、大丈夫というか、その……したいなって、思いますけど……でもレネ、疲れてません? 無理しないでください」
沙羅はもごもご言いにくそうに言って、レネの身を案じてきた。
流石にレネも察した。誘われている。
彼は正直に言うことにした。
「疲れてないと言ったら嘘になるが、温泉に入ったら元気になった。まだ寝るつもりはないな。それに、このままじゃ眠れる気がしない」
レネはいいか? と視線で確認を取ってから彼女の帯に手を伸ばした。
紐で結んであるだけの浴衣は簡単に前が開いて最高だった。浴衣、どハマりしそうだなとレネは思ったのであった。俄然次の温泉旅行が楽しみになった。




