第49話 まさかの仕置き、Subドロップ side Rene
フロントの女性は、レネが既に手放したドイツのファミリーネームを呼んだ。
カウフマン、と。
その瞬間、彼は全てを理解した。
あのスタッフがレネを外国人だと思ったのは、沙羅が昨日、レネの名前を間違えて伝えてしまったからだ。そう一瞬で判断した彼が次に取った行動が、沙羅の逆鱗に触れた。
(日本でウインクはダメだったか……忘れてた)
レネにとってはウインクなんてなんの意味もなかった。彼自身はしょっちゅうするものではなかったが、言うなれば合図みたいなものである。時にはジョークを伝えるため、もしくはちょっと悪いことをしたのを見られた時に、舌をぺろりと出すような感覚。
そう、ドイツ人にとってウインクは、ただの日常の一つの仕草なのだ。よろしく、あるいはじゃあねと別れる時も皆よく使う。両手が塞がっていて、リアクションが取れない時もそう。
(参ったな……)
レネの交友関係は結構狭い。
一番の友といえば康貴だが、彼は半分ドイツ人。レネとつるんでいる時、彼のジェスチャーはまるでドイツ人と見まごうばかりである。
大学の時の部活の面々も国際派が多い。なぜか帰国子女や留学経験者が集まった。当然、男女関係なくハグもする面々ばかりだった。距離感は日本人とは全く別であった。
そんな環境にあっては、ヨーロッパで生まれ育ち、染みついたものがそう簡単に失われるわけもない。
彼は日本語が達者な割には日本人に擬態しきれていないのである。
何より、彼の育ってきた背景は彼のアイデンティであった。
しかし、この時の彼の思いは違った。自分を殺したっていい。沙羅には、自分のDomには、幸せであってほしい。
(俺は何度やらかせば気が済むんだ……)
今すぐチェックインできると聞いてレネは浮かれたのだ。部屋に入ってふたりきりになったら、めいいっぱい褒めてもらえる。
自分の心から敬愛する自慢のDomに。
異国の地でのピンチにも彼女はへこたれず、辛くても堪えて前を向き、時にはこちらを慰めてくれたそんなDom。また予想外に延びた彼女が仕事で疲れ切っている。ならば、今度は自分が喜ばせたかったのだ。
一緒の時間をたくさん過ごして、彼女の価値観を知って、プレイもして、それから身体の相性も知って、やはり離れられないとそう思った。
沙羅が自分のFreundin(彼女)というだけで、レネはこんなにも幸せなのだ。
そんな愛する女性と週末を過ごしたかっただけなのに。
たかだか四百キロ。彼女に会うためだったら新幹線だろうが、慣れない日本の高速道路だろうが移動することも厭わなかった。
ただ喜んで欲しかった。そして褒めてほしかった。
名前を間違えたと沙羅が気を悪くするかもしれない。だからちょっとスタッフにふざけて仰々しいことを言って、全てをウインクでうやむやに。そう、それだけだったのに。まさかこんなことになろうとは。
(辛い……)
彼は、壁を見つめたまま沙羅がいつになったら許してくれるだろうとそればかりを考えた。
いつものように甘くも凛とした声で、「レネ、《Come》」と呼んでくれないだろうか。
そろそろ許してくれないだろうか。
《Shush》と《Corner》は仕置き以外で使われることはなく、最もSubを不安にさせるコマンドであった。
特に、レネはSubの中でも肉体的な痛みや屈辱的なプレイでは全く盛り上がらず、Domとの言葉遊びのようなプレイを楽しむコミュニケーション重視なSubである。
黙れというコマンドは、Domからの、沙羅からの拒絶であった。
従いたくなんてなかった。
でも、彼の本能が言うのだ、自分のDomの、主人の命令に従えと。
彼女の命令に従って壁に向かってから、レネにはもうどれくらいの時間が経ったかわからなかった。
実際のところはほんのわずかな時間であったが、彼には永遠のようにすら感じられた。
唇を開け、すぐまた閉じた。声を発することは禁じられていた。
額に脂汗が浮いてきた。
「……っ」
ついには、目の前が砂嵐のように乱れ始めるありさまだ。
発していいのはセーフワードだけであった。
セーフワード、それはSubがプレイ内容に限界を感じたときに使う言葉。
Domの命令にSubが唯一逆らうことができる魔法の言葉だ。それを聞いたDomは全ての行為を中断しなければならない。
言いたくない。沙羅は己のSubにセーフワードなんて使わせない優秀なDomだ。絶対言ってはならない。
使いたくない、でも今の状態は辛い。楽になりたい。
(沙羅、助けてくれ……)
「……ひ、……」
セーフワードは「東新川主任」だ。言いたくない。でももう限界が見えた。
唇が勝手にその言葉を言おうとして、必死で争う。
自分と世界の境界がわからなかった。目の前が真っ白になって、彼は目を閉じた。一筋、涙が頬を伝う。
まだ九月、それなのにひどく寒気がした。
もはや彼は自分が立っているのか座っているのかさえわからなかった。
ぐらりと前に身体が傾いて、壁に縋りつくようにズルズルと彼は崩れ落ちた。
「っ! レネ!」
遠くで沙羅が呼んだような気がした。
Subドロップであった。Subの発作のようなものである。
Subが強い不安を覚えたり、虚無感に苛まれたりした時に起こる。
Domの仕置きが限界を超える、またはDomに拒絶された時の症状が顕著だ。
そんな時にセーフワードも使えずパニック状態に陥ると、己をコントロールできなくなってしまうのだ。
「レネ、ごめんなさい、辛かったね! よく頑張ったね! おいで、《Come》!」
後ろから抱きしめられて彼はようやっと息を吸った。
呼吸さえも忘れていたのだ。
彼女のコマンドが身体中に染み渡った。レネは喜びに打ち震え、沙羅に縋りつくように抱きついた。




