第47話 四百キロ、遥か届くコマンド
「レネ! おかえり!」
「ただいま沙羅……とりあえず神田に戻った。君がいない東京に帰るとは思わなかったな」
彼は冗談めかした声で言ったようだったが、沙羅の胸にその言葉がぐさりと突き刺さった。
「ごめんなさい……」
沙羅も会いたくて仕方がなかった。でも仕事だ。
一瞬でもいいから東京に戻ろうかと思ったが、移動するだけで半日以上かかる。ナンセンスすぎて沙羅は現地待機することにした。
業務での待機だ。ホテル代と日当が出る。
天の橋立も近いし、ちょっと観光がてら海鮮でも食べに行こうかと思っていた。
でも、ひとりの週末なんて寂しくて仕方ない。
以前は出張ついでに色々なところに行った。長野でひとりで天ぷら蕎麦を食べたり、沼津ではひとりでうなぎを食べたり……鹿児島の道の駅で足湯を楽しみながら海を眺めたことだってある。
今までだったらこんなことはなかったのに。どこでもひとりで楽しんでいたのに。
「謝ることなんて何もないだろう。仕事だ。君はベストを尽くしている。大阪の部長支店長クラスがしきりに褒めていた。思わずメールで『東新川が優秀なのは君たちより先に知っている』って返事をしてしまったくらいだ。会長にCCが入っていたが、まあどうにかなるだろう」
沙羅はくしゃりと泣きそうな笑みを浮かべた。
「でも、レネに面と向かっておかえりって言ってあげたかったんです……ゆっくり休んでもらって、それで私がご飯とか作ってあげたかったんです。会いたい……」
彼にはゆっくり寝てもらって、食事を作って労ってやりたかった。
沙羅は彼と付き合うまでは、やることなすこと男っぽい自分にこんな一面があるとは思いもしなかった。
「俺も会いたいよ」
甘い声が電話越しに鼓膜を叩いた。
涙が溢れてきた。別に、泣くことなんかじゃないのに涙が止まらない。今回のハードな仕事で張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れてしまったようだ。
「私も会いたかったです……来週末まで、我慢ですね」
「会いたかった? おいおい沙羅、なんで過去形を使うんだ? 俺も会いたいって言ってるんだぞ。我慢することなんてない」
ふふ、と電話の向こうのレネは吐息を漏らして小さく笑っていた。
「え……我慢? どういうことですか?」
沙羅は全く意味がわかっていなかった。
「俺のDomは優秀だ。こういう時に最適のコマンドがあるだろ?」
(コマンド? もしかして……!)
沙羅の涙がひっこんだ。彼女は目をしばたたかせて餌をねだる池の鯉のように口をぱくぱくさせた。
「え……え! 駄目ですよそんなの!」
「俺の望みに気づいたか? さすがだ。察しが良くて助かる。それにしてもこの距離でプレイか。痺れるな……四百キロくらいあるか?」
「そんな無茶な!」
「俺がいいって言ってるんだ……頼むよ」
懇願するようなレネの声が切なくスピーカーから聞こえた。
沙羅は唇を震わせた。そりゃあ会いたい。沙羅だって会いたい。でも自分のSubにそんな無茶はさせたくない。
便利なコマンド……彼は《Come》と言えと言っているのである。言わずと知れた、おいでというコマンドだ。
「アメリカから帰ってきたばっかりなのに! 今さっきじゃないですか! 駄目です!」
「沙羅。全然駄目なんかじゃない」
「でも! ゆっくり休んでほしいんです!」
「沙羅もいないのにひとりで休めるか。なあ、命令をくれ。俺の女王様」
己のSubが命令を求めている。
Domの本能が疼いて、沙羅は「駄目だ」という言葉を飲み込んだ。
それに、彼女はよく知っていた。こういう時の彼は頑固だ。
彼女は唾をごくりと飲み込んだ。一度息を吐き、そしてゆっくりと吸って、コマンドを口の端に乗せた。
「レネ、《Come》」
「Jawohl, Meine Königin!」
いきなりドイツ語が耳に飛びこんできたので沙羅は戸惑い、咄嗟に反応できなかった。レネが電話の向こうでいつものように微笑んだ気配がした。
「承知した、俺の女王様って意味だ。そっちに着いたら褒めてくれ」
「も、もちろんです。でもどうしよ、ホテルとか……」
「その部屋、ダブルかツインだったりしないか? 沙羅のことだ、そこそこいい部屋に泊まってるんだろ?」
彼は透視能力でもあるのだろうか。沙羅は辺りを見回した。
そう、ベッドは二台。じゅうぶんに広い部屋だ。
「ツインです。ベッドふたつ」
「明日チェックインの宿泊者がひとり増えるって言えばおそらく対応してくれる。ホテルとしては嬉しいだろうな? シングルだと思った客が増えるわけだ。拒否する理由はないだろう」
「フロントに電話して頼んでみます。私の方だけ会社宛で領収書出してって」
「ああ。問題なく対応してくれるはずだ。こちらは交通手段を考える。車は?」
「同僚は一度支店の車で大阪に戻りました。車はありません……」
沙羅は京都駅にて小林と合流、ここまで乗せてきてもらったのである。
今のホテルはレンタサイクルもあるというし、沙羅は何も困ることはないから一度車で帰るように年上の後輩を上手く諭したのであった。
帰り際、小林は沙羅を気にかけて執拗に問いかけてきた。
「東新川さん、本当に大丈夫ですか? スーパーも近くになさそうです。社有車置いていきましょうか?」
「大丈夫ですよ。レンタサイクルもあります。天気もいいみたいですし、その辺観光して過ごします。ここから大阪まで電車で帰るのは大変ですから車で帰ってください」
「そうは言っても」
「奥さんとお子さん待ってますよ。早く帰ってあげてください。ね?」
ホテルの駐車場にて、彼は少々心配そうな顔をしたが、やがてしぶしぶと言った様子で車に乗り込んだ。
「では、また来週もよろしくお願いします」
「お疲れさまでした、お気をつけて」
小林は三十五歳らしい。塩顔のなかなかのイケメンだ。
顔を合わせた時「女性の技術職ってどんな人なのかなって思ってた」と言われ車中はどうしていいかわからず作業開始までは少々ギクシャクしていたが、仕事の様子を見てもらってからは少々態度が変わった気がする。年下の先輩は、向こうからすればやりにくいに違いない。だってこちらはまだ三十にもなっていない小娘だ。
沙羅はふと同僚とのやりとりを思い出していた。彼女は車なしでこのホテルでの週末をやり過ごすつもりだった。
電車で来れない場所ではないが、おそらく不便極まりない。
「車があった方が来るの楽だと思いますし、身動きも取れるかと」
「わかった、どうにかしてレンタカーを借りよう。これから荷造りをする、状況がアップデートしたら連絡する。じゃあ、明日まで待っていてくれ、愛してる」
そう言って彼は電話を切った。
沙羅はベッドの上に座り込んだ。愛してるなんて初めて言われた。
心臓がばくばく早鐘のように打っていた。
どうしよう、どうしたらいいのだろう。
でも、沙羅には一つだけわかったことがあった。
彼も自分も、もうお互いがいないと駄目なのである。
沙羅はのろのろと立ち上がると、部屋にあった電話をとってフロントに交渉した。もちろんOK。
「お連れ様のお名前を伺ってもよろしいですか?」
「カウフマンです。レネ・由春・カウフマンです」
沙羅は、彼が今や南方レネ由春という名前だということを頭からすっかり忘れてそう言った。
彼女は早速レネに『ホテルは確保できました!』とメッセージを送ると、しばらくして返信が来た。『ありがとう、とりあえず、始発の新幹線は確保した。これからレンタカーに片っ端から電話する』そう記載されていたので、『宮津市にもレンタカーありますし、それか福知山、もしくはここから百キロありますが京都駅で借りるのもありかと思います』と返信した。
すると、間髪入れず返信がきた。
『助かる。もうゆっくり風呂にでも入ってきてくれ』
『温泉つきなのでのんびりしてきます。浴衣もありますよ』
『それはいいことを聞いた、楽しみだ。君はホテルのチョイスが最高だな』
沙羅はふふ、と笑って、このホテルのリンクを送ると浴衣に着替えて温泉に行った。浴室はさほど広くはないが、ガラス張りで運河の目の前、値段の割になかなかいいところだなとゆったりと身体を伸ばした。




