第44話 福島の桃、九月の仕事
「桃……最高過ぎる」
レネは、噛み締めるように言った。
沙羅としては日本橋三越の地下で日常的に食料品を買っている男に満足いただけるか心配だったのだが、杞憂だったようだ。
お盆は飛び石部分に有給を取ったので沙羅は九連休だった。
前半は実家に帰り、後半の二日間はこうして彼の部屋に泊まりに来ていた。
製造業は往々にしてゴールデンウィークや盆などの長期休みが長い。
間の平日に中途半端に機械に火を入れるくらいならば、一日や二日は一斉に休業にしてしまうのだ。
南方の各工場もそれは同様だが、本社勤務や対顧客のサポート部門は別。でも沙羅は実家が遠方なこともあるし、たいていの顧客の工場も閉まっているから、上司から休みを取れと言われていた。
今年初の有給である。
レネも休みを取ってくれたので、こうして沙羅は今日も神田の彼の部屋に泊まりに来て、福島から宅配便で送った桃で舌鼓を打っていたのだ。
間違いない最高の桃である。うん、最高だ。
実は沙羅の実家付近は福島の南部。福島市などの北部の盆地が主な桃の生産地で、南部はあまり桃の名産地とはいえないが、それでも他県よりは美味しい桃が割安で手に入る。
「お口に合ったみたいですね?」
「美味しい」
「よかったです。もう一個剥きましょうか? 冷えてますよ」
彼は桃をほおばった状態だったので、無言で頷いた。
もはや勝手知ったるキッチン。包丁、カッティングボードを取り出して桃を手に取る。
なんとなく視線を感じ、後ろを振り向けば伺うような視線を沙羅に向ける彼がいた。
「沙羅……残り食べていい?」
「いいですよー! そのために買ったんですから!」
「うん、ありがとう」
(かわいい! ……かわいいが飽和してる!)
今すぐ桃と包丁を放り出して彼を抱きしめてやりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えて任務を完遂する。
桃を盛った皿を持ってダイニングテーブルに置く。沙羅はレネのうなじから肩にかけて撫で、頬にキスをした。
「いっぱい食べてくださいね」
沙羅はそう言って、向かいの自分の席に向かおうとしたのだが、彼に手を引かれた。バランスを崩して抱き止められる。
「!? レネ?」
唇が重なった。下唇をゆるく吸われ、沙羅も甘えるように舌を伸ばした。
甘いキスに酔う。
キスが終わっても、彼の唇は触れ合わんばかりの場所にあった。
「せっかくだ。シャンパンを開けよう。最高の気分だ」
「いいですね! シャンパン!」
それから二人で乾杯した。果物とシャンパン、最高の組み合わせだ。
ドイツでもホテルの彼の部屋でぶどうとシャンパンを楽しんだことを思い出す。
彼が開けたシャンパンは、とにかく美しいものだった。
花が描かれた美しいボトルと、それからグラスで気泡の立ち上るシャンパンゴールドがきらめき、沙羅の目を楽しませた。口に含めば豊かな香りと余韻。
ペリエジュエ・ベルエポックと書いてある。読み方が合っていればの話だが。
(フランス語、難しい……)
「いいな、桃といい調和だ」
「これ、炭酸が優しくて、でも香りが……なんていうか、飲んだ後も残るというか……」
「ああ、余韻が長い。これがドイツの俺の部屋で飲んだものの上のライン、ヤスが言ってたベルエポ。ペリエジュエ・ベルエポック」
どうやら読み方は正解だったようだ。
レネはなおも饒舌につづけた。
「繊細で酸がしなやかで泡はクリーミーで……やはり美味しいな。こういう言い方はどうかと言う人間もいるが……ドンペリは男性的なシャンパンというが、これは女性的なシャンパンの代表格。このボトルの花はアネモネだ」
アネモネ。花に詳しくない沙羅はボトルをぐるりと回して一周見てみた。緑のボトルに白い花が美しい。
彼は沙羅が一周見終わったのを確認し、それをワインクーラーにゆっくりと入れた。
「これはロゼも美味しい。ロゼワインは雑味を感じるものが結構多いが、これはそれが一切ない。クリスマスは毎年ヤスの家でパーティーするんだが、ロゼで乾杯して毛蟹に合わせる」
毛蟹にシャンパン。ハイソな人間はやることがすごい。
「毛蟹……やっぱり杉山さん、都会のお育ちのいいご家庭の……」
「あいつの場合、父親がホテルの料理長してたから。市場のカニだのトラフグだのよくご馳走される。市場で買うから安いし、フグも自分で捌けるからなおのこと安い。うなぎも目の前で背開きしてくれたな」
おっと、恐ろしい伏兵が登場したぞと沙羅は驚きを隠せなかった。ホテルの料理長をしていたとは、新情報である。
「子供の頃、長期休みに俺はいつもヤスの実家にホームステイしてた。だからそこらの外国人より日本の味もマナーもわかる」
なるほどな、と沙羅は全てを理解した。
以前、店で隣のテーブルの外国人旅行客がなんにでもドバドバ醤油をかけて驚いたことがあるが、レネはそういうことが一切ない。それどころか、自分より味がわかるのではと思うことも多い。
レネはソムリエのようにボトルの底を掴むと優雅にふたりのグラスに注いだ。
「今のうちに美味いものをたくさん食べておこう。九月は初旬からアメリカだしな」
「IMTSでしたっけ。幹部揃って何人かで行くんですか?」
IMTS、アメリカ、シカゴでの工作機械の見本市である。
「ああ。今回は面倒だ。会長も一緒だし」
「それは結構嫌ですね……」
「あいつ絶対愛人連れてくるはずだ。隠し撮りしてやるってヤスが息巻いてる」
「杉山さん……」
隠し撮りしてどうすんだと沙羅は呆れて物も言えず、グラスを傾けた。
話題を変えよう。レネだって会長の話なんてしたくないはずだ。
「アメリカで何かリフレッシュできることがあればいいですね」
「ワインでも買おうかな。アメリカのワインも結構好きなんだ。ナパの赤とか、あとは樽熟成のパワフルなシャルドネも美味しい」
「私個人のお土産は結構です。後で一緒にワイン飲みましょう」
ナパの赤ってなんぞやと思いながら、沙羅はそう言った。アメリカの土産なんて迷うだろう。沙羅は別にブランド品は興味ない。
「いいのか? 絵はがきはこの前みたいに送るが……」
「それが一番楽しみです」
「……わかった。それにしても、君は本当に欲がないな」
一緒にいられるだけで満足だ。本当に何もいらないのだ。
沙羅が彼の方に手を伸ばすと、彼の手が重なって指が絡んだ。
「君も来月は忙しい?」
「ええ。京丹後のめんどくさそうな案件があるのでちょっと気合を入れて行きます」
京丹後。京都の日本海側で、沙羅が知る限り最も行きにくい場所の一つだ。
京都の街の中から百キロはくだらない。
大阪支店は九月、機械の納入ラッシュだ。彼らだけでは役者が足りないので応援に行ってほしいと課長に頼まれた案件だ。
「お互い無理せず頑張ろうな」
「はい、帰ってきたら、ご飯作ってあげるのでゆっくりしてください」
「ありがとう、帰ってきたら時差ボケがひどそうだな……そうだ、仕事も片付いて、涼しくなった頃にでも旅行に行かないか? この前確かそんな話をしただろう」
「いいですね、旅行」
そして、ふたりは旅行のプランを考えた。
彼が道後に行きたいと言うので、とりあえず日程を考慮し、十一月とした。レネは細かい日程は康貴に諸々確認をしてからにしてほしいと言った。
愛媛県か。沙羅も行ったことがない。
「そのくらい先なら休み宣言しておけばどうにかなります」
「どっちみち、君は後四日休まないとだな。いや、社員が休みを取りづらく感じるのは俺が悪いのか……?」
「レネは悪くないです! うちは長期休みも取りやすいから、みんな休んでますよ! 部長も年に二回くらい長期で休んでますから! ドイツの友達の家に行くって言っていつもお菓子くれるんですよね。ドス黒くて超絶まずいグミとか!」
(ドイツ駐在してたからなぁ……でもよく行くよ)
なお、その部長である森山秀樹はアナ、つまりレネの母親に会いにエアフルトのあの家に行っていることを沙羅はまだ知らない。
「ドス黒くで超絶まずいグミ?」
「タイヤ」
「あー、自転車の絵が描いてあるあれか!」
自転車に乗った少年の絵が描かれている。細い紐のようなグミがロール状に巻いてあって、イラストのタイヤと全く同じ形状だ。
まず、匂いがどうかしている。甘くて苦いようなしょっぱいような香りは、それだけでもはや赤信号である。
味も想像通りで、甘味と苦味が絶妙に混ざり合っており、それからボソボソとした食感がなおのことよろしくない。
沙羅からすると、食物としての存在意義が意味不明である。
あれは菓子ではない。劇物である。
沙羅の部署ではなぜか年末にジャンケン大会を実施して、負けた人間が公開処刑のように皆の前でそれを食べるイベントが発生する。ある意味パワハラだと沙羅は思っていた。
「正式名称はSchneckenだ。カタツムリって意味なんだが……多分ロールしてるから」
「タイヤじゃないんですね」
「俺もあの甘くて苦いのはあんまり好きじゃない……トビアスは美味いって言ってたな。リコリスって薬草が入ってる」
「あのタイヤが美味しい……」
ドイツ人の味覚が理解できない沙羅であった。
(レネの味覚がまともでよかった……)
きっと小さい頃から和食に親しんでいるからだろう。沙羅は康貴の父親に感謝した。




