02-4.神宮寺春代の選択
知りたくもなかった現実から逃げるように、春代は母を追い越していく。
鬼の目をくらませる結界術を屋敷中に仕掛け、屋敷を行き来する使用人たちには、静子を春代であると錯覚させる大規模な幻覚を引き起こす催眠術をかけなければ、ならなかった。
その代償として、両親は春代に声をかけることができなくなった。
それに気づいてしまった。
……愛されていないわけではなかった。
その事実が胸を引き裂こうとする。
このまま逃げてしまっていいのかと、幼い自分が叫んでいるようだった。
「戻りなさい! 春代! 貴女が鬼の下にいかずとも、代わりを準備してありますから!」
母は慌てて声を上げた。
声をかけてしまえば、代償を失うことになると、母は知っていた。
そうなれば、親族や使用人にかけた幻覚の効果は消え、春代の姿を認識してしまう。
それでも、母は春代に声をかけてしまった。
家出をしてしまうと知りながら、見て見ぬふりなどできなかった。
「春代! お願いだから、大人しくしてちょうだい。あと少しで、貴女を救えるのよ!」
母は春代の着物の袖を掴んだ。
薄手の着物の質感が悪く、仕立て屋に頼んだとは思えない作りだった。良質なものに囲まれた育ちでなければ気づけなかっただろう。
春代が仕立てたのだと母は気づいた。
「春代……。貴女、どうして、こんな質の悪い布を使ったの? 母様が織屋に頼んで仕立ててもらった着物は、そんなにも着たくはなかったの?」
母は震える声で聞く。
それに対し、春代は足を止めた。
「なにをおっしゃっているのですか? 反物をこさえてくださったのは、お母様でしょう?」
それは母を絶望に叩き落とす言葉だと知らず、春代は事実を口にした。
……妙なことを言い始めたわね。
まるで春代の為だけに着物をこさえていたかのようだ。
母が自ら織屋に出向き、反物を選び、職人の手で仕立ててもらっていたのならば、莫大な金額を支払っていたことになる。
それならば、着物はどこに消えたのか。
考えなくても答えは導き出されてしまう。
「……静子が持っていったのね」
母は結論を出した。
それは正解だろう。
静子は春代の持ち物をすべて欲しがり、なにもかも、奪っていくような子だった。
「あの盗人。よりにもよって、春代のものに手を出すなんて!」
しかし、母は知らなかったのだろう。
当然のように奥の間に運ばれる荷物に口を出し、静子は自分のものとして奪っていた可能性がもっとも高い。
「お母様」
春代は絶望の淵にいる母の手を優しく振り払う。
「私は顔の知らない弟や妹、それから、養子として引き取った静子のことを私と比べようもないほどに大切になさってください」
春代は顔を見たことがない弟妹のことを思いながら、母に訴える。それが正しいことだと春代は疑わなかった。
……お母様なら言われなくてもしているでしょうけども。
春代は母の優しさを忘れたことは一度もなかった。
「無理を言わないでちょうだい。母様にとって、春代だけが我が子なのです。他も愛せなど、できるはずがないでしょう」
「なぜですか? 養子は静子だけでしょう?」
春代の言葉に対し、母は自虐するように笑った。
春代の弟妹は八人いる。その内の一人が養子として引き取った従姉妹の静子だ。
静子以外に面識はなかった。
しかし、幼くして天に返ったという話も聞いていない為、全員、健康に生きているものだと疑わなかった。
「妾たちに産ませた子たちなど、神宮寺家の勢力を保つ道具にすぎません。道具を愛せば壊れる時に悲しまなければいけないでしょう?」
母は淡々と語る。
陰陽師としての血を絶やさないようにする為だけに、父は外に女を作る。籍は入れられないが、子は引き取り、養育することを条件として外でも愛を振りまいているのだろう。
「春代。私の娘は貴女だけです。母様が守って見せますから、ですから、どうか、どこにもいかないでちょうだい」
母は懇願した。
母は慣習に従い、容認していたのだろう。それに心が悲鳴をあげていても、見て見ぬふりをするしかなかった。それが春代に対して、愛しているからこそ歪んでしまった家族愛へと母を駆り立てた大きな理由だろう。
……悲しい人。
同情はできない。
春代は母に対し、悲しげに笑ってみせた。
「それでも、神宮寺家の家長の妻として愛してやってくださいね。私は貴女の下にはいられないのですから」
春代は留まるわけにはいかない。
神宮寺家にこだわる理由はない。十年間の約束は両親を悲しませないものだったが、今となってはなんの意味もない。
「お母様、お父様にもよろしくお伝えください」
春代は別れを決意していた。
十年前、描いていた旅立ちとは違う。母の焦った姿を見ても、涙の一つも流れてはくれなかった。
「春代は幸せになります。紅蓮と共に幸せになってみせますから、どうか、お二人もご自愛してくださいね」
春代は風呂敷の中から、髪飾りを取り出し、母に差し出した。
「お母様の愛してくださった幼い春代の形見をお渡しします」
「……これは、春代のものでしょう?」
「はい。だからこそ、お母様に持っていてほしいのです」
春代の手から母へ、小さなつまみ細工の髪飾りが渡される。
三歳の時、七五三で身につけた春代の髪飾りは幼く幸せに満ちた日々を思い出させる。
それは、かつての幸せの象徴だ。
それは、捨てられなかった家族への未練だ。
手放してしまえば、呆気ないもので、春代の下には一つも未練が残らなかった。
「さようなら。お父様、お母様」
春代は別れを告げる。
渡り廊下を飛び降り、中庭に出る。足元を守る履物も履かず、あの日と同じ、満天の星空を乞うように見上げた。
……見えた。
屋敷を隠すように覆っている結界に四苦八苦している鬼の姿が見える。彼の周りにいるのは、部下か身内の協力者だろう。
春代を連れていく為の準備を紅蓮はしてきたのだ。