02-3.神宮寺春代の選択
春代は静子を利用した。そうすることでしか、外に出られなかったからだ。
「静子」
春代は迷うことなく、静子の腕を掴んだ。
「なにをなさるの!?」
静子は悲鳴混じりの声をあげる。
「ここにいてはいけないわ」
春代は本気だった。
このままでは静子は神宮寺家で孤立するだろう。両親が多大な代償と生贄を用いてまで守ろうとした春代を逃がしたのだ。許されるはずがない。
……助けたいほどに情があるわけではないけれども。
しかし、見捨てることはできなかった。
嫌がらせを繰り返し、春代の居場所を奪ったかのような大きな顔で神宮寺家の嫡女だと言いふらし、女中を監視下に置き、なにもかも不自由の無いように与えられてきた静子に対し、思うことはある。
それでも、静子を見捨てる勇気はなかった。
「死にたくなければ、私と一緒に来なさい」
孤立した春代に声をかけ続けたのは、静子だけだった。
どのような形でも春代に興味を抱いたのは静子だけだった。その上、春代を幽閉していた結界術を破壊したのだ。
互いに嫌っていようとも、見捨てられない理由があった。
その言葉が届かないとわかっていても、思わず、口にしていた。
「お離しになって!」
静子は春代の手を振り払った。
「わたくしは鬼なんてものを信じはしないわ! 手鏡一つで大騒ぎするなんて!」
静子は怒っていた。
神宮寺家から追い出す為に静子の考えれる全力の嫌がらせをしたのにもかかわらず、春代は静子の身を案じた。
「わたくしは信じないわ! だから、お姉様だけ好きなところに行きなさいよ!」
静子にとって春代の言葉は屈辱だった。
なにもかも静子が春代に劣っていると自覚させられ、器の大きさの違いを見せつけられた気分に陥った。
「みんな、みんな、ばかみたいだわ! お姉様なんて大嫌い!」
静子は春代に背を向けて走り去った。
それを引き止めることなど、春代にはできなかった。
……静子……。
同情してしまう。
静子に与えられた神宮寺家の一員としての高待遇の裏側を春代は知っている。だからこそ、静子を連れて神宮寺家から逃げ出さそうと思ってしまった。
それが叶うはずのない夢だとわかっていた。
しかし、それでも春代は口にしてしまった。
「……ごめんね、静子」
春代は部屋を見渡す。
静子を追いかける暇など春代にはなかった。
……着物をまとめないと。
幼い頃の思い出は切ない。
四歳のあの日から、最低限の物しか与えられなかった。その中でも着物は適当な反物を定期的に渡されるだけであり、一人で着物に仕立てた。良家の娘とは思えない待遇だ。
……笑われないかしら。
みっともないと言われないだろうか。
タンスを開け、素人が見様見真似で覚えて仕立てた着物を五着、風呂敷に入れる。
……髪飾り、こんなところに隠してあったのね。
無くしたはずの髪飾りを手にとった。
感傷に浸る時間はない。春代はとっさに七五三の時に母親が買ってくれたつまみ細工の髪飾りを風呂敷に入れ、風呂敷を抱きしめる。
家出をするような格好だ。
それを自覚しつつ、春代は、廊下に足を踏み入れた。途端にけたたましく鈴の音が鳴り響く。
春代が逃げ出したことを家中の者たちに知らせる為、廊下にも結界術が仕掛けられていたようだ。
……どうして。ここまでするの!?
歴史に名を残してはいないものの、陰陽寮が健在だった頃にはどの時代も陰陽師を輩出していた名門の一つだ。
陰陽寮が名を変え、軍の特殊機構となっても、未だに結界術を得意とする陰陽師として所属をしているほどの実力者揃いである。
だからこそ、鬼の花嫁に選ばれたのは幸運のはずだった。
両親も喜ぶはずだと春代は幼いながらに思っていた。
花嫁として娘を差し出し、代わりに陰陽師の仕事を手伝わせる。
そうして、神宮寺家は代々強大な力を酷使してきた。
現世で悪さをする死霊やあやかしを退治し、あるべき場所に戻すのを仕事にしているのは、人間だけではなく、一部のあやかしも同じだ。
しかし、春代の両親は違った。
紅蓮に春代を渡すつもりはなかったのだ。
「春代!! いますぐに奥の間に籠もりなさい!」
それは十年ぶりに聞く母の声だった。
母はひどく焦っていた。春代が部屋を出ると思っておらず、奥の間に張っていた結界術が破れるのも想定外だったはずだ。
「鬼が来ています。お前を探しているのです。さあ、早く! この母が必ず守ってみせますから!」
母は言葉を繕う余裕すらなかったのだろう。
……お母様。
春代は風呂敷を強く抱きしめた。
……その言葉をどうして、私が諦める前に言ってくださらなかったの!
心の中で幼い自分が泣いている。
両親の愛が恋しいと、自分を見てほしいと、泣いていた幼少期には戻れない。
春代は両親の愛を諦めてしまった。
両親が春代を守ろうと必死に足掻いているのも知らず、両親にとって不要な人間なのだと卑下して、なにもかも諦めてしまった。
春代の心の拠り所は、紅蓮との約束だけだった。
「お母様。私は家を出ると決めたのです」
春代は淡々とした言葉を口にした。
覚悟は決めていた。
「春代……」
母は縋るかのように、春代に手を伸ばした。
その手を春代がとらないと母もわかっていたことだろう。
「触らないでくださいませ! 私は決めたのです。あの日、紅蓮に会った日から、彼の人に嫁ぐ運命なのだと決まったのですから!」
春代は早足で進む。
廊下をすれ違い、引き止めようとし、なにか言葉を口しなければと焦る母の隣を通り過ぎる。
母はとっさに言葉が出せなかった。
……なにも言われないのは、これほどに胸が痛くなるのね。
春代を紅蓮に渡さないと夫婦で決め、親族を騙してまで、十年間、必死に春代を隠してきたのだ。