8・バベル
「おはようございます。いや、こんにちはの時間ですかね。おや、寝起きですか?」
「昨日遅くまでいろいろしていたのよ」
「黒の魔女の威厳を感じられません」
「うるさいわね、赤髪。ちょっと待ってなさい」
寝ぼけ眼を擦りながら扉を開けると、いつもの三人が立っていた。書庫へ立ち寄る際には、一度私の家のベルを鳴らすように言ったけれど、睡眠の妨害されるとは思わなかった。
時刻は12時を超えているからあの人たちが非常識というわけではなく、私が寝坊してしまっただけだ。私は杖を振り、あくびをしながら呪文を唱える。
『アーテル・シンザ。応じよ、バベル』
「急で悪いけど、この三人の監視をお願い」
「本当に急ですね。まぁ、いいですけど」
目の前に現れたのは一匹の猫だった。艶がいい毛並みの、金色と青色の瞳を持つオッドアイ。しかし、可憐で美しい見た目からは想像できない声が聞こえるのが面白い。
「眷属ですか」
「かわいらしい猫さんですね」
「こいつは魔法動物だな。そんな分かりやすいところに弱点をおいてていいのか」
「この子の名前はバベルよ。私が小さなころから仲がいいからもうずいぶん長い付き合いになるわね」
現れた猫を見てその場に座り込んで頭を撫でる赤髪と、あごに手を当ててそのさまを見ているヘイズ、顔を近づけて額にある花を触ろうとする金髪。反応は三者三様だった。花に触れられそうになったバベルはするりとその場所から抜け出して、私の肩まで登ってきた。
「なんです? この無礼な人間たちは」
「母様の墓について取引をしたの。この人たちが書庫に入ってる間に監視しておいて」
「ノーンが返ってきたのか。人間がここにいるなんてあの婆さんが聞いたらびっくりしますね」
「いいのよ。もうここに二人はいないんだから」
バベルは超長寿な魔法動物だ。婆様がまだ若かったころからこの森に住みついているらしく、我が家と長年付き合いがある。母様が生まれた頃に言葉が話せるようになったらしい。契約はしていなかったみたいだけれど、母様と婆様が死んで私が一人ぼっちになったのを見てあちらから契約を提案してきた。クールでぶっきらぼうな第一印象を持たれがちだけれど、優しいのだ。
「じゃあ、頼んだわよ。もし不審な動きをしたらすぐ報告して。本を盗もうとしていたら殺していいから」
「分かりました。人間、行くぞ」
「なんだこの猫……」
バベルが三人を引き連れて行ったのを見送って、私は身支度を済ませる。毎日似たような服ばかり着ている。数年ぶりに買いに行くのもいいかもしれない。それは、数年ぶりに人間の街に降りることも同時に意味している。
私は外に出ようと、扉を開けた。
「……なんであんたがここにいるのかしら」
「あなたなら僕たちを追いかけて書庫にくるのではないかと思いまして。二人はバベルさんと先に向かいました」
「あなたが一番本探しに熱心だと思っていたのだけれど。こんなところで時間を使っていいの?」
「えぇ、決して無駄な時間ではありませんから」
「変な人」
扉を開けると、ヘイズが目の前に立っていた。私の行動を先読みされていたみたいで腹が立つ。確かに私はこれから森の中を一周してから書庫に向かおうとしていた。
「私は森を一周してから書庫に向かうわ。あなたはどうするの」
「お供してもよろしいですか?」
「面白いものなんてないわよ」
「興味があるんです」
「魔法使いに?」
「あなたにですよ」
二人で森のなかを歩いていく。ほとんど散歩のようなものだ。確認したいのは異変がないかだけだから、そこまで時間がかかるものでもない。
「嘘くさいわね。いつも張り付いたような笑みを浮かべて」
「怖がられるんです。笑ってた方がいい人そうに見えるでしょう?」
「そういう考え方が部下に見透かされているんじゃないの」
「部下とは仲がいいですよ。信頼関係は大事ですから」
枝を踏む音が静かな森に響く。森のなかはずいぶんと歩いにくいはずだけど、呼吸一つ乱れていないのが流石武人だと思い知らされる。私の方が疲れてきてしまった。
「そろそろ帰るわよ」
「お疲れですか」
「違うわよ」
「歩くペースが遅くなりましたが」
「いつもは箒に乗って周ってるから歩いたりしないのよ」
「私に合わせてくれたんですね。ありがとうございます」
「見張るためよ。あなたがこの森の全貌を知りたがっているのはなんとなく分かっていたから。変な仕掛けを施されても困るもの」
「全貌を知られるのを防ぐためにわざと道をぐちゃぐちゃにしていくような人に興味を持つのは当然でしょう」
優しそうな人間ほど侮れないものだ