5 魔物出現
北の道は二日前に降ったにわか雨のせいで道の状態が悪く、目的の町まで思った以上に時間が掛かっていた。
聖女がいるから安心、とは言え、魔物の多いこの領の中でもさらに出現率の高い北西地域。魔物が住むという森からもそう離れてはいない。
日が傾き、明るい時には感じなかった不気味な気配にひしひしと不安がよぎる。林の中を通る道では日が陰るのはより早く、道を見失わないように速度も落ちていき、今日中に宿のある町までたどり着けるのか心配になってきた。
不安をあおるように、何かの気配がしてゾクッと悪寒が走った。フィーネが顔を上げ、イーダとエルゼが身を震わせて寄り添う中、警護していた騎士達の馬が急に向きを変え、後方に走って行った。
「ドアから離れ、奥の方に」
クリスは剣を抜き、ドアの窓から外を見た。フィーネが反対の窓に顔を寄せると、後ろの方で辺境領の騎士達が何かと戦っているのが見えた。何かまではわからないが、ずいぶん大きな生き物から黒いもやのようなものが立ちこめている。
あれが瘴気。
フィーネは初めて見た濃い瘴気に身がすくんだ。馬もまた恐れを感じたのか足並みがそろわなくなり、馬車は道の端で停止した。馭者が懸命になだめるが、荒ぶる馬と怯える馬にてこずっている。
「この馬車は安全です。ここから出ないように」
そう言い残してクリスは馬車の外に出た。王の騎士も皆剣を抜いている。
荒ぶる魔物は三メートルを超す赤猪だった。辺境領の騎士達は慣れているのか恐れを知らないのか、馬を降りると突進してくる赤猪に走り寄り、すぐに左足を切りつけた。傷は深いのに足止めすることはできず、なお迫ってくる赤猪の首にリーンハルトの剣が突き刺さった。燃え上がるような黒い瘴気が一瞬激しくなって消え、赤猪はその場に倒れた。しかし喜ぶ間もなくすぐ後ろからもう一匹の赤猪が突っ込んできた。
「押さえろ!」
リーンハルトの声にフォルカーが向かったが、赤猪の方が素早く、騎士達を突破した。
馬車に向かって突き進んでくる赤猪。
王の騎士ヨハンが正面に立っていたが、赤猪の勢いにひるんで避けた。その隣で剣を振るアロイスを素早くかわし、速度を増す赤猪。
「聖女様をお守りするんだ!」
スヴェンが剣を構えて赤猪の前に立ち、迫る猪を自らの体で止めようとした。
「だめ!」
フィーネは馬車から降りると、光の力を掌に集め、赤猪に向けた。
赤猪が体当たりする寸前、光る円盤状の壁がスヴェンの前に現れ、赤猪ははじき飛ばされた。光の壁もその一撃で粉々に砕け散った。
スヴェンは無事だったが赤猪はすぐに体勢を直し、俊敏に立ち上がると迷うことなく馬車に、その前にいるフィーネに向かって走ってきた。
広げた掌に、力が集まらない。光の力が足りない。もう一度あんな壁を作ることなど…
恐怖に足がすくみ、身動きできなくなったフィーネを押し倒し、スヴェンの体が覆った。しっかりと体で守られる中、どこからか赤猪に向かって矢のような光が放たれた。あの大きな赤猪を貫き、瞬時に金の光の炎が赤猪の全身を飲み込んだ。黒い瘴気さえも燃やしながら勢いを増した金色の炎に焼かれ、やがて赤猪はうめき声と共に大きな音を立てて倒れた。その姿は色が抜け、真っ白になっていた。
「クリス! ラルフ! 急げ!」
リーンハルトの声に、猪の近くにいたクリスと、駆けつけたラルフの二人が白い猪にとどめを刺した。
「失礼します」
腰を抜かしていたフィーネをスヴェンが抱きかかえて馬車まで運んだ。猪の血を浴びたクリスは馬車を遠慮し、代わりにスヴェンが馬車に同乗した。王の騎士アロイスとクリスが馬車を先導し、聖女を乗せた馬車は一足先にその先にある町へと向かった。
スヴェンは馬車の中でフィーネの無事を確認すると、深く頭を下げた。
「フィーネ様、お助けいただきありがとうございます。ですがあれはあまりに無謀です。私達はあなた様をお守りするためにいるのです。どうか、…どうか無茶をなさいませんように」
「ごめんなさい。…力になれずに。もっと私に力があれば…」
イーダとエルゼもまだ震えが残っていた。
聖女の自分がいれば、聖なる光の力を恐れて魔物は寄ってこない。そのことに安心しきっていた。
自分のような未熟な力では全ての魔物を遠ざけることなどできない。聖女と呼ばれながら、王妃が言うとおり自分の力はまだまだ足りないのだ。だけど、どうすれば力を増やせるのかはわからないまま。この一年間の旅を通して自分が強くなったとはとても思えない。むしろ旅を始めた当初より力は弱まっているのではないかとさえ思える。
聖堂で満ちる光が早いのは、人々が共に祈ってくれた時。それは自分の力じゃない。みんなの力だ。聖女の判定の時だって、水晶が光り続けたのは自分の力だけではなかったのかもしれない。
あの力…。
赤猪を瞬時に燃え上がらせ、浄化を果たしたあの力。
あれは光の力だった。確かな強い力。あれは、一体誰が…。