第1話 Allowance / 思うこと その4
便所で、猫の魂を流している人がいた。城塞から出ると、もう日の入りも始まったというころで、赤みがかった光が空からさしている。その強い光から目をそむけると、城塞の門のすぐそばの便所に女性はいた。猫には首輪が付いていたから、たぶんこの人が飼っていた猫だろう。その便所は、天国と都市を隔てる高い壁に小さく開いた門のすぐ横にあった。
死んだ魂を珊瑚の夢のかけらで吸い取ることは、天使が人間に求める良識であるとされる。では夢のかけらに吸わせた魂はどうするのか。便所から下水に流すのだ。天国に住む人間たちは基本的にほぼ誰もがその良識を墨守している。生き物の魂をエサにしている残滓を天国でなかなか見かけないのはこういうわけだ。ユルバンにおいては、まあ守るやつもいれば守らないやつもいる、という程度だろう。
そういうわけで、誰かが便所に魂を流しているのを目にするのは珍しくない。特に僕はこの城塞の住民であるのだから必然、出かける折にこの便所の前を通り過ぎる際、似たような状況にかなりの頻度で出くわすことになる。たまたま今日それが目についたのは、魂を流しているその人が、涙を流していたからだろう。猫が死んで泣くなんて、天国の住民ならわかるが、ユルバンの住民にしては繊細な人だ。嗚咽をあげるのをこらえて手で口を押さえ、その女性は静かにすすり泣いていた。その品のいいしぐさと小綺麗な身なりから、ある程度その女性は裕福であることが伺い知れた。
死んだ生き物の魂は、便所から下水に流される。天国を取り囲んでユルバンが放射状に広がっているのに伴うかのようにして、下水は外側へと流れていき、地獄の最外周にある死神のすみかへと魂を運んでいく。下水を流れていくうちに魂は個としての内容を失い、まっさらな空白になって、そして生まれ変わる──その女性の手元から離れていったであろう猫の魂も、きっと別の形を得てこの世に再び現れるはずだ。
魂を流し終えたその人は目頭をぬぐい、立ち上がってようやく、すぐ近くにいた僕たちに気づいたようだ。小ぶりな鼻の頭が、まだ赤い。顔も体のつくりも小さく、指で突き崩せば首や胴体がばらばらになってしまいそうに、その人はもろく見えた。僕が目を伏せて黙礼すると、身なりのいいその女性は深く会釈して、そそくさとユルバンの街中へと消えていった。
「なんだか金持ってそうな感じの人だったな。天国の住民かと思ったよ」
「人を見た目で判断しちゃいけないわ。どんな人がどんな理由でどんな格好をしてるかなんてわからないもの」
「君がそれを言うのかい」
「そりゃあ、誰にも話せないようなことを懺悔に来る人はほとんど毎日いるもの、嫌でも思い知るわ。事情は人それぞれよ」
「事情ねえ」
しかしそういう縹霰はどこからどう見ても坊さんそのものである。赤みがかった茶色の法衣には、ところどころ、寺の調度品と同じく虹を思わせる色で模様が縫い取られている。それもまた、寺の出入り口の戸と同じくらせんを巻いていて、それはきっと精霊が天に帰るときに城のがれきがつくる渦にちなんでいるのだろう。
見渡せば、ユルバンという街はひたすらに街だ。精霊の作る城に縁起をあやかって建てられた高い塔、ぼろぼろの幌をプラスチックのパイプにかけて作った餅やら肉の串やらの屋台、舗装が半分ほどしか済んでいなくて残りは砂地がむき出しになっている道、そこをはだしで駆けまわりながら橙色の球体を投げ合っている子供。子供が手にして振りかぶっているその球体は、よく見ると細い手足がいくつも生えている。あれもまた残滓のうちの一つだ。牡丹亀という種類のやつで、硬い甲羅なんて持っていないのに亀の一種みたいな名前で呼ばれている。川なんかに行くとよく水深の浅いところで何匹か集まっているのだが、のろのろしているからああやって子供に捕まって遊び相手に使われることが多い。道端には御座を敷いて露店を構えている人もちらほらいる。ちょっとした髪飾りやピアス、何故かスプーンや小皿みたいな食器まで売っていたりする。
ユルバンは汚い。そして無秩序だ。飲み屋の看板は傾いていて塗装がほとんど剥げていたりもするし、背の高い塔だって立派な図体のわりに中に入っているのは全部総菜屋だったりする(僕がこの前帰天を終えて帰りに寄ったのもそういうたぐいの店である)。それから天国と違って、死んだ動物や人間の魂をちゃんと珊瑚からとれた夢のかけらに吸わせないままほったらかしにしていることが多いので、魂を食べて繁殖した残滓がそこら中にいる。路地裏の壁に長い脚の虫みたいなやつが湧いてるのなんか天国の住民が見たら、卒倒してしまうだろう。
街というのはどういう条件を満たしていれば街なのだろうか? ユルバン、なんて一口に言うが、もっと遠くに行けば街の様子なんていくらでも変わってしまうのかもしれない。僕はユルバンに住むようになってまだ日も浅く、縹霰のように建物の隙間を縫うように歩き回って如意にほしいものを手に入れることなんてまだまだ難しい。腰を落ち着けて商売をする人も少ないここではしょっちゅう建物が潰れたり新しく建ったりするから地図も役に立たないことが多く、川で釣りをするのに釣り竿一本買うことだって一苦労だ(ついでに言うと、さっきの牡丹亀なんかは河川敷で釣りをする際には尻の下に敷くとちょうどいい具合である)。
「あなたもそのうち慣れるわよ」
ユルバンに住むようになったころ、初めて知り合ったご近所さんであった縹霰は屋台の並びに僕を連れていき、売られている得体のしれない肉の塊をおっかなびっくり手に持つ僕へそう言って笑いかけた。確かに慣れはした。それに、天国にいるよりはいくぶん住み心地がいいとも思う。それでも納得できないことはある。ユルバンでの生活になじむため、縹霰の勧めに従って魚を釣らんとして垂らした針が、川の流れの中ではなくて、自分の胸の奥、肺と横隔膜の間のあたりに迷い込んでしまったのではないかと時々思う。竿を軽く引いて魚の顎を針で捉えたと思ったら、息を吐くのにしぼもうとする肺を破きかけていたなんていうことになっていやしないか、そんなとりとめもない想像がふいに脳裏をよぎることがある。
「あ、見て澄ちゃん」
縹霰に言われて振り返ると、ついおととい見たのと同じような、緑や紫に色を変えていく光が天へと走っている。その根元を見ると、例の黒い鳥みたいな残滓が我先にと一か所に集まっている。背伸びして見下ろしてみると、毛深い動物みたいなものが中心に横たわっていた。たぶんみんなで寄ってたかって、犬か何かの魂を取り合いしているのだろう。いつの間にか、足を止めて見物する人がちらほらと出てきはじめた。
「いかにも野生動物って感じだな」
「いいじゃない、元気があって。食欲に忠実であるのは自然なことだわ」
だが、その貪欲は彼らにとって命取りになる。残滓というのは、我々普通の生き物が持つ魂が樹脂加工された難燃性の赤リンであるのなら、彼らはマッチ箱の横に塗られた発火性の赤リンみたいなものだ。それが、死んで体を離れようとしている魂へと不用意に近づきすぎると、神話が発生してしまう。
「さっきのおばさんみたいにユルバンの住民が几帳面な人ばっかりだったらこんなことにならないのにね」
緑の光はそのまま上空へ伸びた。それは雲の重なりを突き破った。破れた雲の向こうからこちらに、黄土色のものが降りてくる。すごい速さで落ちてきたかと思うと僕たちの頭上で静止したそれは、荒々しい木目が著しい木の箱だった。棺桶よりも一回り大きいくらいのその箱は空中に浮いたまま、ギイギイという音をたてて開いていき、四方の壁が倒れ切って展開し、中に入っていたものが正体を現した。
人一人を軽くひき殺せそうなほど厚みのある車輪がついた台と、その台の上に載った、甲虫か何かの大きな昆虫の頭。虫の複眼は一つ一つの粒が泥沼のように渦巻いて濁っている。開いた口からは、生きた樹液を吸い取るためのハケみたいな構造が飛び出していて、それをかくかく動かしながら虫はユルバンの人々に告げた。
『あなたたちはなぜ苦しんで生きるのか。生えている木はなぜいずれ炉にくべられるのか。目が見るためにあるのなら、あなたたちのこころの使い道も明らかであるはずだ。こころは失われるためにある。こころが目を従えるのではない。目がこころを従えるのだ。思えらく、知に安寧と救済を求めることは守銭奴の営みである。身を燃やして尽きる覚悟のなき者は、手に抱えた薪を置いて地に伏し、そのこころに耳をかたむけて朝夕と拝むことからはじめよ』
台車を容れていた箱が青色の炎を上げて燃え上がったかと思うと、その炎の中で車輪は宙を掻くかのごとく回り出し、虫の頭を載せた台は太陽めがけて勢いよく空へ昇っていった。それを見て、たまたま通りがかっていた人々のうち何人かが服を破きそうな勢いでいそいそと脱ぎ、脱ぎ終えたそばから地面に放っていく。元からほとんど半裸だった浮浪者とおぼしき中年の男が、両手を天高くかかげた。にこにこと佇む縹霰をよそに、僕はただひとりこのすぐあとに起こることに巻き込まれないよう地面に手をついて姿勢を低くした。親指で耳の穴を塞いだ瞬間、ドンガラガシャン、と鉄骨の山を崩したみたいな雷鳴があたりに響いた。それは数度繰り返し、僕が体を預けていた地面は巨人が踵を落としたかに激しく揺れた。しばらく待ったのち、あたりが静かになったのを確認して僕はのそのそと体を立ち上げた。すぐそばにいた縹霰は涼しい顔で僕を見た。
「あら澄ちゃん、神話の声に従って地に伏せてたなんて、ずいぶん信心深いのね」
「そんなわけないだろ」
剥いた茹で卵みたいなにやけ顔を向けてくる縹霰に対して、僕は例の浮浪者の方を顎でしゃくった。元々浅黒く汚れていた彼の肌に、いくつもの黒い焦げた跡が走っている。それは神話の雷に打たれてできたものに違いなかった。男は脱ぎ捨ててあった白いランニングシャツ──彼がこれを脱いだのはもちろん雷に引火して服が燃えないようにするためである──を拾いながら、誰にともなく得意げに大きな声で話した。
「俺はもう今回で4回も打たれたんだ」
肋の浮いた胸の火傷の跡を男は指でなぞってみせた。炭化した黒い皮膚は、治癒によって脱落することなく彼の肌に定着している。雷を浴びそびれた、やはりこれも裸になっていた青年が、羨ましそうに嘆息している。浮浪者の皮膚に黒い雷の跡が走るのは、彼らにとって神秘の兆であるらしかった。
「神を信じていればそのこころは報われるんだ。俺の信仰に、神さまは応えてくれるんだよ」
くたびれたジーンズに足を入れる青年へなおも自慢げに語る男を尻目に、僕と縹霰は歩き出した。
「あれは讃鎖の言葉だよな」
露天で金を払って、焼けた栗の詰まった袋を受け取ろうとしている縹霰に僕は尋ねた。
「よくご存じね」
「まあ、天使の中でもそれなりに敬われてるからね、讃鎖は」
「あら。畏敬の念を抱かれるということは天使にとって光栄なことよ。天国の本人に伝わるといいわね」
「そんなものかな」
人々からの熱い敬いを受けてにやにやしている天使が、天国の時計塔のてっぺんから下界を見下ろしているさまがどうにもしっくりこず、僕はそのあたりに落ちていた小石を軽く蹴って転がした。肌を灼くような黄色い西日に熱されて乾燥した砂利道を小石はカラカラと音をたてて走っていき、店の並びの中にぽっかりと空いた入口から地下鉄の階段へと転げ落ちていった。
「がんばってね、澄ちゃん。私たち信仰に生きる者にとって、帰天の成就は何よりの喜びよ」
「そいつはどうも。でもそう思うなら手伝ってよ」
「蒙昧な私の浅知恵ならいくらでもお貸しするわ、寺に来てくれればね」
「よく言うよ、まったく」
階段を下りている僕が振り返って彼女の頭の先が見えなくなるまで、縹霰はずっと手を振り続けてくれていた。縹霰は温和で、そして優しい。彼女の寺に懺悔に来る人々のなかに、そのことへ異を唱えるものは誰もいないだろう。
しかし彼女は僕の仕事に付き合ってくれはしない。形を失うまで漂白された魂を使って、神話を完成させる。それが僕の仕事であり、聖職者という彼女の立場からすれば、忌み嫌うべきものである。だから本来なら、僕を寺に招き入れてくれること自体が相当な厚意であると考えるべきなのだろう。ほとんどすべての寺が死神お断りであるのだから、僕のような仕事をしている者も同じく立ち入るのは許されざることだ。
地下鉄の長い階段を下りていくと途中に小さな踊り場があり、そのすぐ左手は開けた場所になっていて改札や券売機が並んでいる。しかしそのまままっすぐ先には、幅の狭い階段がまだ下のほうまで続いている。電灯はなく、鎧兜みたいなランタンに抱かれた蝋燭のほのかな赤い炎が、ちらちらと揺らめく光を足元に落としている。獲物を待ち構える蛇の舌に誘われるがごとく、僕はその細い階段を、そっと手を手すりに載せて下っていった。
湿気に満ちた通路。暗がりで目を凝らすと、自分のいるすぐ次の段に、さっき入り口から落ちていった小石がちんまりと正座している。そのまま放っておいてもいいのだが、踏んづけると危ない。手すりをつかんでゆっくりとかがみ、僕は小石を拾ってポケットに入れた。つい今粗末に足蹴した石ころが、心細い道を一緒するありがたい共連れ仲間になった。その暗闇を手探りして進むうちに、長いひげと長い牙を吐き出す、大きな口が開けた像がある。長い鼻、鋭い紡錘形の傾いた目、融けて垂れ下がったような耳。行き止まりになっている壁から頭だけを出した龍と象の中間のような貌の獣は、向かってくる僕を威圧して、近づく度胸があるか試しているようだ。
『神話の時代は去った』
音ではない声は、精霊の言葉と同じく、指先に触れた金属の冷たさのように直接伝わってくる。
『お前たち色のある人形の体は、みな泥でできている、お前の魂は明日にも、お前の魂ではなくなる……』
背筋の寒くなるような言葉が伝わってくる。血の通っていないはずの石像の口が、少し動いた気がした。ここに立つたび毎度毎度、獣は謎かけのつもりなのか、前へ進むことをためらわせる語りかけをこころに直接投じてくる。誰も彼もを通すわけにはいかないということだろう。だが僕の許には、進む道を選ばせてくれる道具があるのだ。
(ホロスコープよ)
右の手の指の関節一つ一つ、それらを折り曲げる肉の筋の一つ一つに、こころで呼びかける。肘、手首、指の付け根、と順番に力を入れて、集中力のかたまりを送り込む想像を強く持つ。いち、に、さん、のリズムで、その動作を繰り返して手をこすり、左手でひらく。青い方位磁針の形をしたホロスコープが、右の手の平に浮かんでいる。その尖端を、獣の眉間に突き刺すと、石でできた壁はささやくような摩擦音をたてながら、ゆっくりと回転していく。できた隙間を僕はくぐって中へ入り、半回転した扉を押して戻した。
(閉じるのは自動じゃないんだよな、なんでこういうところがいちいち頓馬なんだろう)
ホームをつくる骨組はそこかしこに赤い錆が浮いていた。粉が浮いた程度のようなものもあれば、骨組を中心まで腐食してしまってただれさせているものまである。それはこの重たいほどに湿った空気のせいだ。
停まっている電車は古いかさぶたみたいな色で、模様らしき塗装は若干残ってはいるもののほとんど剥げてしまっている。というより、車体そのものがところどころ崩れているため、電車というよりはさながら屋形船と言ったほうが当を得ている。開いている扉から乗り込むと、車体は僕が踏んづけた側へゆらりと傾いた。もう慣れたといえ、正直怖い──と思う間もなく背後で扉が自動で閉まった。
電車は徐に動き出した。路上生活者の家みたいな駅舎を出て、地下に穿たれた通り道を電車は穏やかな速度で駆けていく。僕は電車の長椅子に腰を下ろした。一両編成の短い金属の体はカタンカタンと軽やかに音をたてるが、窓の外の景色は苔むした黒い岩肌があるだけで、到底心安らぐ電車旅の趣ではない。
ユルバンからデンドロカカリヤへと向かうこの地下鉄は、天国から放射状に伸びる下水とちょうど並走する形で路線が敷かれている。つまり、僕は今下水の魂と並走して地獄へと向かっているのだ。僕は目を閉じて、ついさっき縹霰に合う前の昼ごろ行って見てきた、今回新たにできたという城のことを思い描いていた。
それはやはり高い高い塔だった。天使が住むとされる時計塔を精霊のほうでも真似したがるのかは知らないが、実際こういう形の塔を作る精霊は多い。それは人間だってそうだ。高い塔に住むとこころがきれいになるとか、高い塔の近くを通ると縁起がいいとか言ってもてはやす慣習は相当昔からある。だから僕が住む城塞みたいな丸々と太った城は逆に下品だとされている節すらあるのだ(ちなみにこの城塞とは太古の昔にとある精霊が建てたという城の残骸を再利用したものである)。まあ実際、城に限らず高い塔の周りには残滓が集まって飛んでいることも多いし、案外魂というのは原初的なところでは高い場所を好むようにできているのかもしれない。
精霊は自分が帰天できていないことへの不満を表出するための手段として、ユルバンに城を作り上げる。そこで生活している僕らからすれば迷惑なことこの上ない話だが、精霊の側としても神の国に帰られずこんな汚いところにいつまでも住んでいるのは到底耐えかねるのだろう。だがどこまでも自由の城の塔を伸ばしたところで、行き着く先は珊瑚の夢くらいのものだ。
天国にある時計塔の天使が住むところ、そのさらにはるか上空に生い茂っているとされる珊瑚の夢。その母地はしかし、地獄や天国を大きく突き放して遠く上にあると同時に、地の奥の奥深くであるともされている。つまり僕が今いるところからひたすら天へ昇っていくにせよ、あるいはひたすら地へ沈んでいくにせよ、同じ経路を逆からたどっているにすぎず、最終的にはこの場所へ再び行き着くということになる。本当だろうか? もしそれが本当なら、帰天に際して空へ登っていく精霊や、あるいはユルバンをさまよっていて何かのはずみで帰天していく魂はどこへ向かっているのか? 彼らは僕たちを残してめでたくこの世を去ったのではないのだろうか? その問いを確かめる方法は少なくとも僕にはなく、おそらく天使や死神にも不可能だろう。確かなこととしては、珊瑚の夢を折り取った枝、夢のかけらは魂を吸い取るということである。
いくらこの世にわからないことがあるとはいっても、僕たち人間にはやらないといけないことが与えられている。それは古の軍服に縫い付けられた肩のベルトのように、しっかりと装着されていて僕らの体を離れることはない。天国で生きる人間は、折り取られた珊瑚の枝を使って、死んだ生き物から魂を吸い取り、それを下水に流さなくてはいけない。でなくては、腹をすかせた残滓たちが魂を食べに集まってくるからだ。
だから、そこらじゅうで動物が死ぬに任せていると、がつがつと意地汚く魂をむさぼる残滓がそこら中にはびこってしまう。残滓とはいわば布地の端っこにある糸のほつれみたいなもので、むき出しの魂が切れ端みたいに中途半端な形でこの世を漂っているものだ。そしてそれは、天使にとって悪夢の象徴、神話時代に彼らを脅かした純粋な辛苦そのものである。だから天国の住民は珊瑚の夢に魂を吸わせて、それを便所に流さなくてはいけない。
僕が住んでいるユルバンやその他の地獄においてはその辺のことは住民の自由意志に任されているが、しかし先の雷に打たれていた男性のごとく信心深い人もそれなりにいて、魂を律儀に珊瑚で回収するのを「殊勝な功徳」、魂を残滓に食われるがままにしておくのを「ばちあたり」と、土の中の虫をほじくり返す鶏のごとく几帳面な彼らは、人間だけでなく動物の死体を見つけた折にも珊瑚の夢を刺しては下水に流すことを心掛けている。
ここまで振り返って、僕はけっこう自分が大層な仕事をしているらしいことを改めて実感しつつあった。魂を作為によって無理やりに縫い合わせ、そして新たな神話を作る。それも、人ならざる者の力によってである。思うに、天国にしろユルバンにしろ、人間は人間としての分限を守るようにこの世の中は定められている。そのようにしろ、そうすべきだ、この中からは出てはいけない、そういう戒律みたいなものはわざわざ明言されなくても、人間として生きているならば自然と守るほうに生きてしまうようなもので、つまり本能に近いことである。それは熱いものに触ったら手を反射的に引っ込めるのと同じで、人として生まれた以上不可避なことだ。だが、僕はそれに逆らってまで生きようとしている。その理由とは何か。その答えは、成り行き、ということになる。
(え? なんだその結論、本当にそれでいいのか? ほかに答えになるもの、ないの?)
電車はいつしか減速し始めていて、そして歯車の軋む音とともに動きを止めた。扉が開くのに従って、僕は外に出た。死神と会う。神話を完結させ、精霊を神のもとへ還すために。目的を果たすには、彼らと会って協力を取り付けなくてはいけない。その一歩一歩がどれほど恐ろしいものなのか、一番わかっていないのは僕自身なのかもしれなかった。
次回投稿:
5月中に「その4」を予定
6月中に「その5」「その6」を予定